オリジナルでない僕らのために - 『ルー=ガルー』 |
オリジナルでない僕らのために - 『ルー=ガルー』
この映画のサブエピソードで、創作におけるオリジナルとコピーの問題が取り上げられている。尺の関係か物語自体にはほとんど関係ないように見えるエピソードなのだが、しかしながらこの「オリジナルになれない私たち」という題目は、この映画において重要なテーマの一つだったように思える。
最近で言えば『トイ・ストーリー3』、又そういった映画では個人的に最高傑作だと思うものものに『スクリーム2』などの名を挙げられるが、自分の代わりなどいくらでもいる世界の中で、何をやっても模倣にしかならない中で何を為すべきか、どう「自分らしく」振る舞えばいいのか、そういった問題に描いた映画の一つとして、この映画を挙げることが出来るのではないだろうか。オタク=保守的というレッテルを張った馬鹿な批評家がこの映画を貶していたが、彼が言っていた既視感を感じる場面など、はなから製作者達は了承していたのではないか。その上で製作者はちゃんと自分の歌を歌っていたように、自分には感じた。
象徴的だったのは都築美緒の造形で、自称天才であり、自宅で爆弾を作っていて世間を馬鹿にしていたが、自分が凡人であることに気づかされるというキャラクターは、明らかに『告白』の少年Aを意識したものになっている。ご丁寧に決め台詞までパロっている訳なのだが、しかしながらこの映画はそのパロディによって、『告白』がまともに取り扱わなかった少年少女の全能感が打ち砕かれる悲しみを描き切っていたように自分には思えた。友人の死の危機を前にして、自分がヒーローや魔法使いでなかったことに悔し涙を流す彼女のクローズアップは、僕にとって他人事ではなかったのだ。
この映画を観ている間『二十世紀少年』や『けいおん!』、『ICO』や『WALL・E』はたまた『ソイレント・グリーン』だったり色々な作品の影響を感じたが、だから何だって言うんだ。そもそも創作なんて、すべて過去の作品と繋がっているものであるはずで。
そういったものを踏まえた上で「自分の道を歩く」というメッセージを伝える。他者に依存せず信頼を寄せる様を描く。これだけ出来ている日本映画が、果たして現在どれだけあるだろうか。
演出もきっちりしていて、例えば「モニター」に対する三度の反復、最初の主人公が歩未を映すシーンで監視されていることを説明し、次の美緒とのシーンでそれが書き換え可能であり、信用できないものであることを印象付ける。そして最後に矢部が殺されてしまう場面で「モニター」と権力との癒着を決定的なものとして提示するという、細かい反復と差異によって物語を印象的なものにするための演出がしっかり出来ていて好感が持てた。殊、主人公が空を見上げることや主人公と歩未が手を繋ぐ場面の反復は感動的だ。
ラスト、主人公が血に塗れた上で歩未を肯定した方が抒情的でないかとか、アクション演出がちょっと稚雑かなとか、細かい点で文句がないわけではないが、それでもこれだけやれれば充分だろうと思う。
特に、エレベーターでの刑事と歩未のやり取りのシークエンスは素晴らしい。あの緊張感と空気が変わる瞬間をアニメで引き出せる作家は貴重だ。次回作、期待して待ってる。