無意識の「顕然」 ー『プレステージ』 |
この映画のテーゼが「みかけ上」「プレステージ」という題名に沿ったもののように見えるが、一方でその裏側には冒頭近くで「教授」が口にした他愛もないタネのテーゼがある。だからこそトリックの仕掛けの安易さは「あえて」やっているものだといえるのだが、しかし自分に取ってこの「あえて」は言い訳としか受け取れない。こと最近の映画にはこの「表現として「あえて」やっている」という逃げ口上が多いので少しウンザリもする。(例えば、『告白』の、あまりに類型的すぎる人間の表象、など。)
まぁ、そのようなタネや結末に目を向けるよりも、意識と無意識の問題について語るべきだろう。この映画における最大の問題は、ダルトンの妻が死ぬシークエンスにおいて、カメラにはくっきりと妻の手にかかる結び目が映っているにも関わらず、その結び目について妻の遺体を見ることなくボーマンに問いただすのか?この内実を確認することを恐れるかのようなダルトンの行動には、無意識の欲望、妻に成り代わって舞台に立ちたいというダルトンの欲望が関わっているのではないか。
助手の言葉から匂わされているように、ダルトンとボーマンは鏡像関係にあるといえる。(それは、二人が互いの日記を読み、回想しあっているという物語の形式にも反映されている)そして、二人はお互いの奇術のタネを暴きたて妨害しあう関係にあるように見えてその実、二人の無意識の願望、理想からはほど遠い自分の現状を壊してしまいたいという願望を代理する存在として、それぞれが存在している。殊、替え玉が表舞台に立ち、自らは「落下」し表舞台に立てないというダルトンの現状を、ボーマンがぶち壊しにするシーンが象徴的だと思うが、常に手品をする側にとって、そこに稚雑さや粗がないかどうかを監視する同業者は超自我の役割を担っているといえるのである。
そのような二人の関係を考えれば、ボーマンがダルトンの妻を殺めてしまったことと、ダルトンの無意識の欲望とが連動しているといえるのではないだろうか。少なくとも、ダルトンには自らの願望に対する罪の意識があったことは、事故の後のダルトンの行動から提示されているといえる。
そう、見かけ上は鮮やかな奇術の内実には、そのために犠牲にしてきた者に対する罪、失ったものに対する哀しみが付きまとっているのだ。だからこそこの映画の最後に「プレステージ」するものは、ナレーションとは裏腹な、あの象徴的なダルトンの姿なのではないだろうか。