小細工×小細工=魔法 - 『127時間』 |
『127時間』
ただ人を走らせて、その映像をちょいちょいと加工・細工すれば映画ができる、そんなことを本気で考えていそうな軽薄で浅はかな監督。これがダニー・ボイルの印象でした。『スラムドック・ミリオネア』は社会派ぶる割にその軽薄さが目について大嫌いな映画だったのですが、しかし、この映画は買いでしょう。というか、まさかダニー・ボイルの映画で感動するとは思わなかった。
冒頭のスプリットスクリーンと素早いカット割、PVのように鳴り響くBGMなど、ダニー・ボイルらしい軽薄さとテンポの良さをもって映画の幕は上げられる。それに最初苦笑いをしていたのですが、主人公が崖から落下し動けなくなった後、崖から空を見上げる主人公をうつし、その後その主人公が見えなくなるまで俯瞰でズームアウトしていく長回しをみて一気に画面に引き込まれてしまった。
それぞれの演出、スプリットスクリーン(画面三分割)にしても長回しにしてもそれ単体で見れば、新人の演出家がやるような小細工に過ぎないのかもしれない。しかしながら、その二つが積み重なった時に、それらは小細工とは呼べなくなる。スプリットスクリーンを経た上での長回し、それによって軽妙だった主人公の足取りがそこで途切れてしまったことを否応がなく伝えられる。これこそが演出であり、映画の魔法だ。
三度反復されるスプリットスクリーンをはじめとして、主人公が他者に声をかけようとするシーンなどに演出の反復と差異が仕込まれていて、前のシーンとの差異が大きな効果を生み出している。
この映画の短い上映時間にはそういった積み重ねや明瞭な意図の演出が敷き詰められていて、それらによってシンプルな状況でシンプルに一人の人間を描き出すことに成功しているのだ。(それは勿論、ジェームズ・フランコという役者の力量なしではなしえなかったことでもあるが)
この映画のコマーシャルやPVを彷彿とさせるイメージの「軽薄さ」が目に付く人がいるかもしれない。しかしあの「軽薄さ」は自分が特別だと考えている多くの「現代人」のそれ、つまり我々の投影なのではないか。恋人との思い出のシーンなんて本当に他愛のないが、けれども僕はあの他愛のなさに本当に胸を打たれた。
そう、僕らが欲してやまないのは、ビールとああいったささやかな幸福なのだ。
クライマックスのあるショッキングなシーンのカットの割り方一つとってみても、「軽薄さ」に隠れたこの映画の丁寧さが見てとれるかと思います。ダニー・ボイルの最高傑作でしょう。必見です。