Movie will return , mankind will learn ―『旧支配者のキャロル』 |
Movie will return , mankind will learn ―『旧支配者のキャロル』
この映画は、何故これほどまでにフィルムに拘るのか。フィルムが切れてしまったならば、HDやデジタルカメラに変えてしまえば済む話なのではないか。ツイッターでそのような疑問を呟いている人がいた。しかし、それは必然だったはずだ。何故なら「旧支配者」という言葉は、フィルムの画面に映る大女優であると共に、またそれを掌握しようとされる「映画監督」であるヒロインであると共に、いやそれ以上に、デジタルカメラにとって変えられつつあるフィルムと映画それ自体の事をさしているという、途方もない寓意が込められなければならないのだから。
画面に刻み込まれる自分に固執する女優の台詞に顕著だが、この映画は改竄が容易ではなかった時代の、永久に残りつづけるものだったはずのものとしての「映画」ないし「フィルム」と、そこに自らの痕跡を残さんとする人々を描いた作品である。その意味でデジタルの画面の中で安易に明滅し、消滅してしまう身体を描き出していた鶴田法男『王様ゲーム』と対をなしている作品であるといえるかもしれない。(その鶴田は、「リアルな映画」ではなく「映画なリアル」を描いた作品であるという言葉でこの映画を評していた。この言葉ほど、この映画を的確に表している言葉はないだろうと思う)
そして、その物語は、映画美学校の鬼教師であり、画面に痴態を刻み込まれる大女優とその弟子であり映画監督であるヒロインとが、フィルムに映る映像が誰の力によって作られたのかという所有権を奪い合う様、つまりどちらの個性が画面に映りだしているのかというアイデンティティの闘争を中心に展開されていく。証明写真のそのコピーという、複製に複製を重ねた写真によって観客と大女優の目に止まったヒロインは、「このままじゃ終われない」という言葉を区切りに、映画制作に没頭していく。前半が終わり、ラッシュフィルムを観る場面で、女優の演技の賜物だと他の制作者たちが感嘆を口にするシーンがあるが、それは前半まではその力関係が依然として、被写体の側にあることを示しているといえるが、それがクライマックスのフィルムの映像と撮影現場とが錯綜して撮られる画面に至った末にその関係は拮抗することになる。しかしながら、そこで監督の命は尽き、映画は女優の手に委ねられる、というのが物語の筋といえるだろうか。
しかしながら、この悲劇には幾重にも倒錯的な錯綜が織り込まれている。まず、女優が刻み込まれると思い、映画監督が自らの魂を込めようとするフィルムは、明らかに制作者たちの意図からかけ離れた何かであり、そこに映るものが彼女たちのアイデンティティを証明するものにはなりえないし、そこに映るのは吸血鬼のように青白き「影」としかいえないものであるという点。「ちゃんと映っているのか不安で眠れなかった」というカメラマンの言葉に表彰されるよう、それはコントロール不能だし、人間の意志とは無関係な地点に存在するものなのだ。(だからこそ、その前で人間を潰したりはしない)
そして、それよりももっとも重要なことは、これだけフィルムと、それにとりつかれた人々を描いているはずのこの映画で使われているカメラが、明らかにデジタルのそれである、という点だ。そこに「フィルム」を軸として展開されていたこの劇を突き放した視点が存在しているといえるかもしれない。ラスト、劇中劇は完成した全容を見せないまま映画が閉じられるが、監督が死にゆき、本来監督がコントロールすべき映画を役者が掌握した様を見せて終わらせるデジタルで撮られた映画は、つまるところ現在の日本映画界の現状、映画監督という存在が不在であるかのように進行し映画とは呼べない代物として多くの映像作品が世に出されている現状と、その中で映画監督と同じように末端の映画館やネット上に追いやられてしまった「フィルム」それ自体に対する寓話を映しだしているようにも見える。少なくともいえることは、この映画において、かつて映画全体を指していたはずの「フィルム」は、この映画においてはデジタルの映像にとって変えられた「部分」、登場人物の一人に過ぎないのである。
さて、ここで冒頭の問い、「旧支配者」とは「何」を指しているのか、という問いに戻ろう。映画監督が大女優をひざまづかせた際に、ヒロインの口から「旧支配者」という言葉がこぼれる。序盤の台詞を照らしあわせて「旧支配者」が「大女優」であり、あのクライマックスは映画監督が「旧支配者」を屈服させようとした、という風に考えてしまいがちだが、これはミスリードが多分に含まれている。元ネタであるクトゥルー神話の歌(注)を聞けば分かるが、「旧支配者」は「打倒されるもの」または「屈服されるもの」では決してない。そうではなくてそれは彼岸(壁)にいて「到来するもの」「再び還ってくるもの」なのだ。だからこそ、もしあのシーンで映画監督が大女優を屈服させたという解釈をするとするなら、「旧支配者」は映画監督それ自身をささなければならないのだ。
しかし、果たして本当にそうだろうか。そもそもが、「これが最期の言葉であった」と別の男のナレーションが語る直後、クライマックスで大女優がフィルムの中で見せた同じポーズで訳の分からない祈祷をしているヒロインの姿を見せているこの映画は「悲劇」だったのだろうか。先のシーンは、女優と映画監督が対等の関係になったが上で「映画」という「旧支配者」を、呼び寄せることに成功した証左なのではないか。そう思わせるだけの力が、この映画の「フィルム」の映像、映ってはいけないものがそこに反射されている何かにあるように、自分には見えた。
確かにそれは、追いやられたものである。劇の支配権はデジタル映像にとってかえられ、その姿もラッシュフィルムという未完成品という形、断片としか提示されない。この作品にしても、常々この世ならざるものを撮ろうとしてきた男が舞台にするのは映画美学校という日常であり、その上映時間もB級映画のそれにも満たないし、公開されるのも極一部の単館の映画館だ。しかしながら、いや、デジタルの映像の中の断片に追いやられているからこそ、彼岸のもの、ここではない何かを映しだしすその異常性と暴力性とが際だたされている。そう、「映画」とはクトゥルーの神々のように、壁=スクリーンの向こう側からやってきて、観る人々を恐怖と狂気と畏れとに陥れるものであるという、『恐怖』ではほとんど狂人の戯言にしか聞こえなかった高橋洋の言葉通りのものが、この映画には刻みつけられている。
Movie will return , mankind will learn
(注)「旧支配者のキャロル」(http://www.nicovideo.jp/watch/sm16525906)