プロダクションIGの限界 - 『BLOOD-C The Last Dark』 |
プロダクションIGの限界 - 『BLOOD-C The Last Dark』
CLAMPの退廃的かつ耽美的な何かを求める姿勢と、元々アクション映画としての最低限の設定と枠組みしか持っていなかったbloodシリーズの邂逅…。ファンには悪いが後者が好きだった自分にはただ単に食い合わせが悪いものをいっしょに食わされた気分にしかならなかったし、どっちを表現したにしてもこの脚本は駄目じゃないかさすがに。
小夜と文人、真奈以外のキャラクターへの配慮が全くない脚本は、アクション映画としての危機感やリアリティのなさを醸し出すことになってしまっている。特に九頭とその手下は、最近観た映画でも最低の知能を持つ敵キャラクターとして記憶されるだろうし、(最後同士討ちをはじめた瞬間、大爆笑しそうになったよ・・・。誘導することが目的にせよ、何がしたかったんだあいつ・・・)「仕組まれていた」ということを演出したいがために登場人物たちは愚鈍であることを強いられている節さえある。そういったものが気にならない人だっているかもしれない。けれど、冒頭でそこそこ上がった自分のテンションは後半になればなるにつれて急速に冷めていったのは確かで。
そして、この物語で巨大すぎる敵を最後に出したら駄目でしょうよ。『タイタンの戦い』のクラ―ケンのように、まともに勝負にならないからあまり興奮したものにならないし、何より文人の目的を省みれば、最後は小夜と文人の一騎打ちの「舞踏」であるべきだったはずだ。(『ルーザーズ』や『Ms&Mrスミス』の主人公とヒロインのアクションシーンのような)それが出来ない当たりに、アクションに感情を込められないプロダクションIGの限界を見た気がする。アクションはただ漠然と挿入されるものではなく、登場人物の感情の表現であるべきものであるはずだ。集団戦を中断してまで出した「古きもの」の戦いが省略されていることもそうだが、見せ場や盛り上がりの概念がCLAMPの美意識と相殺しあっているようにしか自分には見えなかった。
元々、現代性の強い社会的なテーマを盛り込むことで、溜めや間に関して無頓着で淡泊なアクション演出(ポンズやマッドハウスのそれに比べれば数段劣る。『009』に関して、ここは本当に不安だったりする)を補っていたのが最近のプロダクションIGの特徴であり持ち味だった訳だが、今回の「恋愛」を描く際にはそこを克服すべきだったのではないか。好意的な観客でない自分には、社会的なテーマ・恋愛・アクション、そのどれもがチグハグに配置されているようにしか見えなかったし、プログラムピクチャーであることに徹していた『ストライク・ウィッチーズ 劇場版』のが楽しめたというのが、正直な感想です。
まぁ、アニメの劇場版が出たら毎度シリーズ未見で突撃する自分が悪いのかもしれないのですけどね。