レイアウトシステムミーツジブリ - 『ももへの手紙』 |
レイアウトシステムミーツジブリ - 『ももへの手紙』
あまりにも教科書然とした映画だが、それが心地良く感じるもの確かで。ファンタジーでありながら、アニメーションと現実との折り合いのつけ方を模索した映画になっている。
「人狼」のクライマックスで見せた少女の顔を崩すアニメーションを取り入れ『千と千尋の神隠し』ではなおざりにしか描写されなかった親子関係を事細かに描写する。これらが、ただリアリティやもっともらしさを追求の結果というよりも、アニメを現実の地続きとして描き出そうとした結果のものとして機能していて、特に妖怪がただの厄介者でしかないという位置づけに顕著に現れているのは、多分誰かが言っていることだと思う。
冒頭そらから降ってきた水玉が、同じようにそらと呼ばれる屋上の絵物語に入り込み、実態化する。それは本来父親と少女とを繋ぐ存在だったはずのものだが、妖怪が天に昇った後に、ももへの手紙は海から地平線の彼方から運ばれる。そして、彼女の成長は、ラストで飛び込みという「落下」によって表現される。中盤、上昇に関する楽しいアクションシーンでアニメーションの楽しさを演出しつつも、「そら」=フィクションの世界に浸りきることはせず、現実と地続きの世界を、高さの演出の中で後半「上昇」を妖怪以外に禁じることと「落下」を持ち込むことによって描き出す。こういった地味ながら着実な演出を積み重ねる映画を貶す気にはどうしてもなれない。
あの無力でむしろ害悪でしかない節さえ感じる妖怪たちが、アニメそれ自体の投影のように見えて仕方ない。その妖怪がヒロインの後ろを押して海へと突き飛ばすシーンに、本来のアニメーション、ひいてのフィクションの役割を見た気がした。そう、戸惑っている人の後ろを押してあげる、疲れた人に休み時間を与えてあげる、それ位が、本来のフィクションの役割なんだろうなぁ、と思わせる映画でした。
人狼では沖浦監督が観念的過ぎる押井脚本を嫌って細かく改変したり対立もしたそうで
いつか神山健治が当時の現場のギスギスした空気を語ってましたが
いや本作は絶対に押井には作れないなと納得しました.
あの人にはない慎み深さのようなものが新鮮・・・だったような・・・ちょっと忘れかけてますが.
多分寓意や色々抽象的な暗喩が含まれているんだろうなぁ、と思う描写がありつつも、一方でヒノキオさんが挙げていた中盤の猪のシーンとか、そういったものを抜きにしてちゃんと楽しめて、観る人の感情を動かせていた映画だったような気がします。イノセンス以降の押井守は、前者を事細かに演出できても後者に関してはお世辞にも巧いとは言えなかったのは確かで、またアニメーターの力技に頼り切っているジブリともまた違う毛色を持つ作品だったのかなぁ、と思います。実際、劇場を出たときの回りの雰囲気が凄く良かったのが印象的で。
押井以後のプロダクションIGが「感情」と「アニメ」という二つの事柄にどう向き合っていくのかの指針となる作品だった気がします。ちなみに、『BLOOD-C』もその過程の一作品なんだろうと思いつつも、肌に合わなかったんですよね・・・。