映画少年の夢 - 『フランケンウィニー』 |
主人公である少年ヴィクターが製作した映画を上映するオープニングシークエンスによって、この映画は幕を開ける。怪獣が街を襲う姿がコマ撮りで撮られ、その空飛ぶ怪獣を愛犬スパーキー扮するスパーキーサウルスという怪獣が撃退することによってハッピーエンドを迎えることになる微笑ましい短篇映画がはじめに提示される訳なのだが、本編が進むにつれて、これが在りし日のスパーキーを表象する以上の、別の意味を帯びてくることになる。
というか、あることに気づいてからこの映画の画面の何を観ても涙が溢れてくるようになってしまったのですが、冒頭の短編映画と本編がほとんど全く同じようなプロットであり、共通点があまりに多すぎるのだ。スパーキーが生き返った後、他の生徒が同じように動物たちを生き返らせる。そうすると、何故か『ガメラ』や『グレムリン』といった他の映画にオマージュを捧げた「怪獣」になり、それによって街がパニックになる。それらをヴィクターと生き返ったスパーキーが撃退する。わざわざ3D映画であるという点を含めて、冒頭の短篇映画のリメイクであるかのように、本編の乱痴気騒ぎが展開されていく。このことが何を示しているのか・・・。そう、愛犬が死んでからの展開は、映画少年ヴィクターが、(つまるところ、ティム・バートンが)思い描いた「妄想」であり「映画」なのだ。
そして、それを裏付けるようにスパーキーの死から「フランケン・ウィニー」の誕生までの一連のシーンでは映画とその「回転」のイメージが付きまとっている。スパーキーの死後、真っ先にヴィクターはスパーキーが活躍する映画を観ることによって、彼がそばにいない哀しみを癒す。そして、その後『エド・ウッド』でベラ・ルゴシを演じたマーティン・ランドーが声を当てている先生の授業によってインスピレーションを受けた彼は、『吸血鬼ドラキュラ』を観る両親を尻目に、スパーキーを復活させる実験に入る。そして、その実験では、時計の針や自転車の車輪など、短篇映画が上映された時のように、フィルムのリールが回るような「回転」のイメージが何個も連なって映り出され、その上でスパーキーは復活するのだ。それも『フランケンシュタイン』の映画のシーンのように…。
親に「フィルムメイカー」と呼ばれる子どもの師がマーティン・ランドーであることは、そのまま『エド・ウッド』のエド・ウッドとベラ・ルゴシの師弟関係が、彼らに重ね合わされていることの証左だろう。そして、エド・ウッドがバートンの自己の投影であったように、ヴィクターもまたバートン自身の分身であるといえる。二回目の死者である金魚が、「ライトを当てなければ姿を見せないもの」であり「スクリーンに映るもの」であることからも分かる通り、『フランケンウィニー』で描かれている死者の復活とは、謂わば映画の世界に浸かり切ったバートンの淡い「空想」なのだ。だからこそ、その世界は様々な映画的な記憶に彩られているし、最後に対峙する悪役も、スパーキーの死を予言した猫であることも、ヴィクターの多少捻じれた願望の裏返しであることを示している。…自分は、乱痴気騒ぎが楽しければ楽しいほど、「愛犬の死」がちらついて涙が溢れて仕方なかった。この映画は、死というどうしようもない現実を優しい嘘で彩った、自分が愛してやまなかったティム・バートンの映画そのものだったのだ。
ラストシーン、動かなくなったフランケンウィニーを、人々が車のエンジンで動かそうとするシーンで思い起こされたのは、スクリーンの向こう側から観たドライブシアターの光景だった。それは深読みにしても、ラストのヴィクターの台詞は、映画製作を通じて得たティム・バートンの独白そのものだったのではないか。そして、その実感を得た上で、彼の愛犬は復活するのである。彼の心の中で。…つまり彼の映画の中で。
というかもう全然期待してなかったのですが
あの教室の空気からしてそわそわしてきて、後半グレムリン化してからはもう
ワクワクしっぱなしでした
そうか字幕版で見たらマーティン・ランドーだったんですか、
しかし、これが全部映画少年の夢だったらと思うと
(確かに冒頭の再生としか思えない物語でしたもんね)
再見したら泣きそうです
今までもずっとウィニーはあれだけバートンの世界にいて
まだ会える、というこの甘美な悪夢.
メリークリスマスです(>_<)
いや、正直、僕も半信半疑で期待してなかったんですよ。それこそ多分ジョー・ダンテの新作『ザ・ホール』を観ようとPS3を起動した時のが期待感が高かった位で。(あれはあれで上品な小品でしたが)
あの怪獣映画のオマージュとかもう楽しくて仕方のないシーンばかり続く映画なのですが、一方で常に「死」のイメージが付き纏っている気がして、それこそ『ビックフィッシュ』のクライマックスの息子が父を語る場面が中盤以降ずっと続くような感じで観ていました。実家で犬を飼っているってのもあると思うのですけど。
後、これは年間ベストを書くときに色々書こうと思っているのですが、「オマージュが目的になってしまってはならない」というバートンの言葉が凄く心に残っていて。コッポラの『Virginia/ヴァージニア』とセットで語る批評家が少なからずいると予想しているのですが、どちらも過去のホラー映画の記憶がちりばめながらも、一方で紛れもなく一人の作家の作品に昇華されていたのが印象的でした。
この作品のラストに私自身は納得できたのですが、子供は「生き返る」ということに抵抗を持ったようです。その理由を考えた時、動物を飼ったり真に大切な存在を失くした経験の有無がラストの受け取り方に大きく影響するように思いました。
ラストがヴィクターの強い願望の表れ=想像である(想像でしかない)ことをしっかり感じ取れるのは、同じような強い想いを持った経験のある人であり、同時にどんなに強く思っても決して現実には生き返りはしないことを身に沁みて知っている人ほど作品に倫理的疑問を持たずに済むのだと思います。
核家族化が進み動物も飼いづらい住宅事情の昨今、身近な「死」を経験したことのない子供や若い人は増えているのではないかと思います。仰る通り「死というどうしようもない現実を優しい嘘で彩った」つまり「愛おしいものが蘇る」という想像力は本来誰でもが持ち得る初源的なものであり、芸術文化や科学の発展に大きな役割を果たすものだと思うのですが、こういった作品が受け入れられにくくなっていることに不安を覚えました。
これからもレビューを楽しみに拝見させて頂きます。
はじめまして!自分のレビュ―がきっかけで、と言われて滅茶苦茶うれしかったです。多謝(;_:)
自分は、「子どものためにならない」と口にしている人が本当に子どものためにそういっている気が全然しなくて、ただ映画を否定したいだけの論理じゃないのか、という疑問は常にしていました。日本のこういった変に自己中心的でお節介な「倫理」を振りかざす人が、ラストばかり言及する一方で、スパーキーが死ぬまでの一連の描写をなかったことにしているのはちょっと違うのではないか。そういう気持ちは書いたときに少なからずあったと思います。
実際、ツイッタ―などでは、犬を飼っている人ほど死に至るシーンで泣いた、と言っている人が多かったのが印象的でした。
ただ、お子さんが「抵抗を持った」ことはそれはそれで大事だとは思っていて、それを「何で?」って突き詰めていくのもいいと思ったりしました。現実でもネットでも、映画を観て、そういった感想や感覚を話すことが出来る人がまわりにいるって素晴らしいですよね。
ただまぁ、1月はあんまり更新しないかもしれないのですが、(-_-;)これからもよろしくお願いしますです。
ご無礼を承知ながら、お願いがございます。
unuboredaさんと私との先のやり取りが原因で、誤解とご不快な想いをさせてしまった方がいらっしゃるかもしれず、
これらのコメントの内容に、特定個人を攻撃するような意図はなく、また、ここでの公開コメント以外、私とのやり取りは一切ないことを返信コメントにて書き込んでは頂けませんでしょうか。
unuboredaさんに一切の責任はなく、全て私の配慮が足りなかった故のこのようなご無礼をお赦しください。
お願いできませんでしょうか。
再び誤解を招きかねないので、詳しくはお話できませんが、
偶然にも、こちらの以前のトラブルのきっかけとなった文言がやり取りの中に入ってしまっているのです。
また、unuboredaさんの『フランケンウィニー』のこのブログ記事とヤフーレビューでは、冒頭の文章が異なっており、私はヤフーレビューに沿ってコメントを書き込ませて頂いたため、こちらのブログのみを読んだ場合、この公開コメント以外でもやりとりしているかのように見えるのです。
大変、不躾で申し訳ございません。
こちらでの公開コメント以外のやり取りはなく、個人を攻撃する意図はない旨明示して頂けませんでしょうか。
了解しました。
公開コメント以外のやりとりはしていないですし、(というか、最近人とメールのやり取り自体をほとんどしていないのですが)とおりすがりさんの言う個人が誰のことかよく分からないので攻撃しようがないです。