GRAPEVINEの歌詞について ―またはJポップの曖昧な歌詞の多様性について |
そんで、GRAPEVINEについて、二年前にまとまった文章を書いて、ブログにアップせずにいたのですが、何かヒット数もバインの記事絡みが多いので、挙げておきます。
二年前なんで、新譜の歌詞の話はまったくないのですが、最近の歌詞についても当てはまることを言っている気はする。(2chの歌詞スレに割と同じような言及はありそうだけど。)後、ラスト書いたことはブログに書いたものの反復だけど、それはまぁ許して。
GRAPEVINEの歌詞について ―またはJポップの曖昧な歌詞の多様性について
一、はじめに
九〇年代後半のJPOPにおけるロックバンドの傾向として、洋楽のリズムを如何にして日本語の中に取り込んでいくか、といったことの苦心が見てとれる、という指摘は多々あったように記憶している。そして、それゆえに日本語のアクセントや文体構成が解体されたと見る向きが強い。それは、二〇〇三年六月の『ユリイカ』(青土社)の特集「Jポップの詩学」の中での近田春夫といとうせいこうの対談の中の以下会話に顕著に表れている。
いとう 聴く側の問題としては、その時代その時代であたらしい洋楽が輸入されてきたとしても、日本人の英語リテラシーの低さに見合って、歌詞がどうかより、サウンドがかっこいいなあ、のレベルにとどまってきたでしょう。そういう洋楽とおなじように邦楽を聴く習慣ができてしまって、意味がわからなくてもかっこよければいい、と思えちゃうのかも。だから、ほんとうは歌詞なんて全然聴いてないんだよ、たぶん。
近田 どうせ意味がないなら、英語っぽく聞こえた方がいいじゃん、って巻き舌を使うJポップのひともいっぱいいるんだよね。演歌の人はコブシを回してもヘンな巻き舌は使わないでしょ。これは巻き舌で日本語をうたうことにまったくリアリティがないからです。(笑)。
いとう 第一、聞き取れなくなるもんね。おまけにJポップのひとはその巻き舌唱法で「オリジナリティは大事だ!」みたいな強いメッセージを歌っていたりする。自滅でしょう、それじゃ。どっちなんだよっていうね。
近田 なにが「オリジナル」だよ、って。濁音を必要以上に使うとか、Rの音を強調するなんて、単に「ほんとうは英語で歌いたいな」っていうだけの話。これは、土台がまったくできていないのに、相当なウワモノを作ってしまった音楽産業の罪業だね。
60年代から70年代にかけての歌謡曲の名曲、それを理想とする二人の90年代からゼロ年代にかけてのJポップに対する評価は置いておくとしても、90年代以後のJポップの特徴がサウンドやリズムの上に歌詞を構築されているという点にあることがここで明らかにされている。事実、最後の近田の揶揄通りこの時期からELLEGARDENやBEAT CRUSADERSといった、何の憂いもなく全曲の歌詞を英語にして歌うバンドが増えていたのも確かなのだ。
GRAPEVINEもそのような流れの中で活動を開始したバンドとして数えることが出来る。が、彼らが特異なのは、洋楽のようにサウンドやリズムの中に歌詞を当てはめていきながらも、日本語の曖昧な発音や、文字としての歌詞と音声化されたそれとのズレといったものをふまえ、歌詞に多用な意味を含ませている、という点にある。本稿では、Jポップの言語感覚を肯定し、GRAPEVINEとその歌詞について多くの指摘を為している阿部嘉昭の言説を参照しつつ、GRAPEVINEというバンドの楽曲の歌詞に見える多様性といったものを読み解いていきたい。
二 反復と物語性
冒頭の対談で登場した近田春夫の代表的な仕事はミュージックマガジン上で長期にわたり連載されている『考えるヒット』だが、その中でGRAPEVINEの楽曲と歌詞は、技巧的・人工的すぎるものとして論難されている。(注1)冒頭の対談の中で伺える歌謡曲とは別の言語感覚で構築されたそれを近田が受け付けなかったは想像に難しくないが、それについて「ヒットチャートを彼らの曲が不穏に内破する可能性を、近田は感知した」(注2)と捉えたのが阿部嘉昭だった。
阿部嘉昭の論説は、GRAPEVINEの同時代的な評価に引きずられているが故にMr.Childrenとの比較論に終始している点や、時に批評家らしい抽象的な表現や比喩表現が頻出するという点など問題がないわけではない。しかし一方でGRAPEVINEというバンドの歌詞やその歌唱法の特徴に対して示唆的な指摘をしているのも確かだといえる。阿部は「歌は世界の無限性を証明する 変化するJポップの詞法について」(『ユリイカ』青土社 二〇〇三年六月)の中でGRAPEVINEの音楽の特徴として
一、GRAPEVINEの歌詞は「歌詞がイメージ結像してゆかない」曖昧さを持ったもの、「物語」を形成しきれない断片的なものであり、それがメロディに乗り唄われることによってのみ「歌詞」として実体化する。
二、ボーカルである田中の意識的に「明瞭感を奪った発音」による歌唱法が、すべてのフレーズを均質に変えてしまう。それによって韻を踏むことにより強調されるのは語の「対称性」よりもむしろ「相似性」であり、歌詞の流れの中で「同一性」の反復が表現されている点。
の二点を、主に「スロウ」(『lifetime』収録)や「壁の星」(『Circulator』収録)といった曲の歌詞を分析から析出している。また、他のアルバムについてはこのようにも言っている。
言葉は意味以外の――「降霊術性」とも呼びうるような自立性を歌ではもちうるのだ。ルイス・キャロルはたとえばジャバ・ウォーキーの詩に愛唱性とともに「悪」を盛り込んだ。それと平行するように、「ぼくらなら」も、唇から「悪」として現れる。田中の朦朧詩法はカラオケ画面のテロップであれ何であれ「読まれる」ときには不全だが、記憶に蘇るときには十全となる――言い換えるなら、そのことこそが「悪」の証拠だ。
同時に、意味の結像なしに歌詞が口をついて出たとして、その歌詞を、歌詞カードを読んだときに覚えた悲哀の感情が、朦朧体のままに裏打ちしまう。意味の実質のないものに悲哀が取り巻く、この超抒情の感触――これもまた、ジュネなどを念頭に置けば、「悪の指標」となりうるのではないだろうか。
阿部嘉昭「グレイプバイン『イデアの水槽』評」
(http://abecasio.s23.xrea.com/text/unreleased/06.html)
阿部の指摘を乱暴にまとめてしまえばこういえるだろう。GRAPEVINEの詞は曖昧さや反復による言語の差異の消失(阿部は「壁の星」の歌詞の「光ない星」「光のないマシン」「疲れない脚」「涸れない湖水」という韻が踏まれた言葉がすべて同じような呪文に聞こえることをその具体例に挙げている)によって物語性や実質的な意味の繋がりを回避しており、それによって実質的な意味を超えた言語本来が持つ感覚を呼び起こす、と。この阿部の反復に対する指摘は示唆的であるが、一方で阿部の言説はGRAPEVINEの歌詞の言葉の「相似性」と物語を回避しようとする傾向を強く見すぎている故に、その歌詞において、語の対称性や歌詞の並びの意味作用を軽視しすぎているきらいがある。
確かに、GRAPEVINEはある一面では反復を多用することによって、物語性を回避しようとしている傾向はあるといえる。それは「スロウ」のサビの、次の一節から明らかだろう。
「めぐり合うたびに溺れて 見失うたびに胸焦がしていた
願いは波に揺られて まだ見えない明日へ
何も変わらない朝へ 」
一番の歌詞では、「まだ見えない明日へ」という言葉が、「何も変わらない朝へ」と言い換えられる。当時のJポップの「明日」というフレーズの使われ方をふまえれば、そこに批評性を見出すことは可能だろう。この反復は、「見えない明日」という未来がその実、「何も変わらない朝」という日常の反復に過ぎないことを表現しているのである。この詞が象徴するように、GRAPEVINEにおいて反復は確かに、「物語」のように安易に結末をつけられない日常性、ひいては「生活の時間」の閉塞的な状況を志向している。のだが、一方で、そういった反復の中の歌詞に変化を持たせている。「スロウ」の最後の歌詞は「まだ見えない、追いつけない明日へ」という言葉で〆られる。一度「見えない明日」を「何も変わらない朝へ」と言い換えたのち、さらに「明日」へと言い換えるそれは、「明日」が「何も変わらない朝」であることを踏まえつつも、それでも「追いつけない明日」を夢見、追い求めていくという姿勢を歌詞の中に読むことが可能なのである。
このように、GRAPEVINEの歌詞は、「類似性」と「対称性」、「物語」と「日常」とをそれぞれ描き出そうとする二重性を持っているといえるのである。そしてその特徴を強めているのが、意図的に曖昧化される発音なのである。
三、歌詞と発音の差異とその二重性
歌詞カードに書かれている文字と、それを口にしたときの意味の差異や二重性を、GRAPEVINEが積極的に自分たちの楽曲に持ち込んだのは、主に『イデアの水槽』からミニアルバム『everyman,everywhere』にかけてであるといえる。
まず、B面集『OUTCAST –B-SIDES+RARITIES』に収録されている「R&R二アラズ」を取り上げたいと思う。
「年甲斐もない? 若いじゃない 若いこそが転がる石だ
ウィスキーじゃない? いつからだ ウィスキーじゃなきゃ ノーノ―R&Rじゃない
変だ どこからどこまでだ マッドラブ…… アンドダンス…?
確かにそういえば踊る気ない 」
「ウィスキー」という言葉が「リスキー」という言葉と掛かっており、若いバンドを「R&R」という名目のもと、業界に誘っているように聞こえる歌詞になっている。そして、歌詞カードの最後には「踊る気ない」と書いてあるが、その前の歌詞に「ノーノーR&Rじゃない」という言葉があり、CDの音源を聴いている限り、「王道ロックない」とヴォーカルは発音している。またサビでは、
「逃がれ逃がれ逃がれて またどうやらできません
このままヤケになるのか 己に嫌気がさすのも悪くない
逃げろ逃げろブーたれて いまや恋などできません
追われている訳じゃないけど なぜかこういうのを誰も歌わない」
と一番が終わる。この部分では「のも悪くない」が、「オ―ノ―ロックない」と聞こえるように、巻き舌で歌唱される。若いバンドが尊重され、その中で恋愛の歌ばかりが重視されている音楽業界のことを皮肉った歌だが、その歌詞に加えてヴォーカルはその声でそういった傾向が「王道ロック」といったものがなくなってしまっている、ということを告発するのである。また、さらに二番ではさらにややこしい意味が込められている。
「上手いじゃない 若くない? 若くなきゃ 泥んこ水だ
レスポールかな レスポールじゃない
レスポールじゃなきゃ ノーノ―R&Rじゃない 」
一番では、若い歌手が持て囃されるさまが描かれた後、二番では例え演奏が上手くとも若くなければ「ウィスキー」として扱われずに、「泥んこ水」と切り捨てられるという音楽業界の一幕が歌詞に込められるのだが、この歌詞カードに書かれた「泥んこ水」という言葉は、実際に音声では「マディ・ウォーターズ」と聞こえるように歌われる。「マディ・ウォーターズ」は、「シカゴ・ブルースの父」と呼ばれるギタリストの名前であり、彼が名が呼ばれることは多義的だ。一番の「転がる石」という言葉を踏まえれば、「Rollin' Stone」の歌詞「根なし草」や「路上の人」という意味が込められているといえるし、偉大なアーティストの名前であるマディ・ウォーターの名が、歌詞カードの中では「泥んこ水」と訳されることによって、実際に素晴らしいアーティストを見抜くことが出来ずに「泥んこ水」として扱っている音楽業界への批判ともとれるのである。
このように、歌詞と音声化された歌との二重性の中で、音楽業界に対する批判を込めた歌であると「R&R二アラズ」を定義することが出来るように自分には思える。しかし、それは一方でその二重性によってのみしか批判が出来ない、という意味も含まれている。この曲の最後の歌詞「一人そう言わば誰もうたわない」の後に、呟くように「誰も歌えない」という歌でこの曲は終わる。それの「歌えない」という言葉は、歌詞カードと歌との剥離を利用しなければ言及しえないバンド自身にも跳ね返ってくる。「R&R二アラズ」のサビは、音楽業界批判を含みつつ、そこから逃れられないバンドマンの自己言及をも内包しているのだ。
このような二重性の表現と文字と声の剥離は、ミニアルバム「everyman,everywhere」で一つの到達点に達することになる。例えばカフカという言葉を召喚する冒頭の曲「Metamorphose」では、「タダ飯だけ食えば変身して牛になる」と歌い、その後、「ダダイストに半ば変身して 逃げ出す 人間だ 逃げた 逃げた」と歌う。「人間だ」と「逃げた」を曖昧な発音のまま歌うことによって、「人間だ」という言葉が消失してしまいかねない危うさが曲にもたらされている。故に人間だったはずのものが得体のしれない獣のような何かに変身してしまっているかもしれない、ということが表現されているといえよう。また、表題作の中にも、歌詞と発音のズレによる仕掛けを見ることが出来る。
「いつかこの想いを 涸らしたくない衝動を
その勝手なイメージを 間違えちゃいないと言うんだ」
GRAPEVIN「everyman,everywhere」
ミニアルバムの表題作では、聞いた人が各々が思い描き、感じる感情について歌われている。ヴォーカルであり作詞家でもある田中和将はmixiの日記にてこのようなことを書いている。
聞いてくれてる人たちが、音楽に触発されて、それぞれの映像を見てくれれば一番だと思う。 「心ここに在らず」というと誤解されるけど、それが正しい事態なのだ。 田中和将「mixi 日記 2008.9.26」(注3)
曖昧だといわれる歌詞の意図、それは各々が歌詞を解釈し、それぞれの曲のイメージを頭の中に思い描くことにある。特に、everyman,everywhere」ではそれが顕著だろう。「この想い」、「涸らしたくない衝動」、「勝手なイメージ」といったものはすべて、リスナーの想像によってそれぞれのイメージを思い描く装置である。そして、それらがどうなるかについては、二番のサビが明らかにするだろう。
「いつか叶う様に と どの面下げて言うんだろう
その大事な想いも やがて忘れてしまうんだそうだ」
一番で描かれた「間違えちゃいない」という言葉は、二番では、「忘れてしまう」もの、風化してしまうものとして歌われている。しかし、実際に歌われる際に、この歌のリズムは「忘れてしまうんだ そうだ」と歌詞カードとは異なる区切りを見せている。それは「忘れてしまう」という言葉が断定か伝聞かによって、歌い手が「勝手なイメージを」忘れてしまうか、そうではないつもりで生きているのか、といった歌詞の解釈が変わってしまうのである。そういったこまやかな差異を歌詞カードと歌の二重性に忍ばせつつ、歌はラスト「いつか」という言葉で終わらせることによって、「いつか」のその先についての判断は、聞き手のそれぞれの「映像」、それぞれの判断にゆだねられることになる。「everyman,everywhere」は瞬間に思い描く「イメージ」の強さ(それは「スロウ」を省みれば「物語」に通じる非日常的なイメージだろう)と、それを忘却させていく「日常」との間の緊張を、曖昧な歌詞と歌のズレの中で表現しており、そのどちらかに向かうかの判断は、常にその間で揺れ続けている私たちの手に委ねられているのだ・・・。
4、終わりに
ミュージシャンとは、日常的に非日常を紡ぎださなければならない存在である。彼らは常に新曲を作り出さねばならないし、新曲を発表したらライブシーンでその歌を繰り返し繰り返し歌わなければならない。我々は日常的にCDやMP3プレーヤーを反復させつつ再生しているが、ミュージシャンも又同じような日常のサイクルから逃れられないのである。だからこそ、その曲は安易に消費物へと成り下がる要素を孕んでいるといっていい。
GRAPEVINEの楽曲は、そのような繰り返し歌い続け、消費物と成り下がるポップソングの状況を描き出しつつ、その「反復」に差異を持たせることによってそれに抗おうとしてきた軌跡のようにも思われる。最新アルバム「真夏のストレンジランド」の中からシングルカットされた曲である「風の歌」では、1番で幻想と切り捨てられた「風の歌」が、2番3番を繰り返し歌うことによって「たった一つの」信じられるものへと変容していく。その様はその数年前の曲、「放浪フリーク」の最後の歌詞カードに書かれている「風になってしまう」という言葉が、長い年月を経て変容していく様のように感じられる。そこに映しだされているのは、何度も忘れ去られそうになりながらも、消費物である楽曲を繰り返し繰り返し歌っていく、その過程によって信じられる何かを獲得した、アーティストの本来あるべき姿だったように、自分には受け取れたのである。
そこに重要な線として絡んでいるのが、歌詞と歌の二重性である。それは聞き手のその時の時分によって解釈は変わっていくし、歌い手の捉え方が違えば歌詞の見え方が変化する、まるでプリズムのように乱反射するイメージを抱え込んでいる。それはつまり、楽曲を歌うことが「転がる石」であり続ける魔法なのだ。そして、他の97年にデビューしたバンドが多く解散していく中でも、アルバムをオリコンベスト10に滑り込ませつつも、GRAPEVINEは現在も転がり続けているのである。バンドとしても、リスナーであるはずの自分の中でも。
(注1)この模様は、近田春夫『考えるヒット3』(文藝春秋 二〇〇二年五月)に再録されている。
(注2)阿部嘉昭「グレイプバイン『イデアの水槽』評」(http://abecasio.s23.xrea.com/text/unreleased/06.html)
(注3)現在、mixi上でこの記事は見られないので、以下のサイトから引用した。田中和将ファボッター
(matope.com/user/tanaka_kazumasa?mode=new&page=2)
『スロウ』の歌詞を読むたびに頭の中にあの歌声が「明瞭に、朦朧と」
甦ってJ-POPに自分の内面を預けていた日々に引きずり戻されそうになる、
おっとアブねえ、そんな一人遊びを繰り返していました
言葉が音になった瞬間イメージとして多義的に心を掴んでくれていたのかなぁと.
いつから歌詞を読みこむのは基本的にラップばかりになって、
J-POPの歌詞に何も求めなくなっていましたが、
なるほど色々考えられているんですね.なめてたかも.
10代の頃は抽象的で日本語の文法から外れていたからこそ
それは「自分の言葉」として受け止められていた気がします
やがてスガシカオの『夕立』を聴いて抽象的な歌詞に物足りなくなり、
ライムスの『グレイゾーン』を聴いて直接的な言葉を欲するようになり、
いつのまにかアニソンでハァハァ、歌詞の意味を曲の「外」の作品に求めるようになっちゃったりと
今、ようやく記事を読了させて頂いて初めて
自分なりに今までの「歌詞」との向き合い方を意識できた気がしました
相当な数応募してみてダメだったんですが、
言葉先行で明確な意味を持って連ねた言葉より
既存のメロディーを思い浮かべた時に出てくるフレーズのほうが自分の中で
圧倒的にリアリティや繋がりがあるのに、
そのフレーズを紙に書いて言葉だけ眺めてみるとも1つ意味が伝わってこなかったんですよね
「説明させてくれれば出来る」けど、それだけだとなかなか伝わりにくい.
結局そういうのは応募に使わなかったんですが、あぁJ-POPってこういう感じにも近いのかなと.
でも漠然と、時代がもっと困難になったら
仮にもロックを名乗っている人たちはもっとそれぞれより具体的なメッセージを放つんだろうなって
10代の頃はそう信じていたのですが、意外とみんな放たないなぁってw
あの頃バカにしてた日本語ラップにその不満を埋めてもらってるのが自分でも皮肉です.
なんだか支離滅裂になってきました、すいません^^;
この記事、是非せいこうさんに読んでもらいたいですね
もう、音楽の話になる引出しが狭すぎて全部知ったかになってしまいそうなのですが。そもそも「Jポップ」という概念自体多様化にとりあえず蓋をする、程度の意味合いしかないものですし。
ヒノキオさんの一連の書き込みを見て、斉藤和義が「ずっとウソだった」を発表した時に、いきものがかりの水野良樹が、あの曲が大嫌いだ、とツイッタ―でツイートしたことを思い出して。
http://togetter.com/li/122633
実際、これもまたケースバイケースだと思うのですが、(というか僕は割とメッセージソング自体そこそこ好きですし)grapevineというバンドがとった方法を分析してみたらこうなった、という感じで。曲と言葉と日本語の叙情性を重視した結果そうなったんじゃないかなぁ、と。そういった立ち位置を選択するまでに色々製作側で考えていて、それが色々あっていいと思ったりします。grapevineにも「kingdom come」みたいな曲もあるのですが。
日本のロックバンドであればgrapevineが一番好きなのに、思えば歌詞について深く探求したことはありませんでした。
CD購入時に一読する程度で、あとはサウンドとして入ってくる言葉を耳で拾って、印象的なフレーズをそのまま曲のイメージにつなげてました。
この記事を読んだあと、急いでいままで聴き込んでいた数々の名曲の歌詞カード読み込んでびっくりしました!「歌詞カード」上ではこんなことを歌っていたのかと…
知れば知るほど深い、いやらしいバンドですね~!
いつもありがとうございます。(V)o¥o(V)
実際、サウンドとして入ってくる言葉、音の一部として言葉を重視してきたバンドなのだと思っていて、そういう意味では英語で歌うバンドと目的意識の一部が重なっているというか、言葉がバンドサウンドやメロディを殺さないように耳に通ることが意図されているような気がします。
ただ一方で、珍しいのかは他のバンドについての諸々がほとんど分からなくなったので置いとくとしても日本語の曖昧さを着眼して耳に通す言葉にしている、そしてその曖昧さに多様な意味を賦与しているってのは、少なくとも一つの高等技術の結晶なんじゃないかと。
いやぁ、バイン田中の言葉じゃないですけどやっぱり「15年続くバンドには何かがある」と信じていたり。
ここで言われてる巻き舌唱法は具体的にどういうものなんだろう?僕は英語のRを発音する時に『ウルルル』というように下を振動させて発音する事だと解釈しているのだが、、、下記URLで北島三郎さんが歌っている『兄弟仁義』の2番の『俺の目を見ろ何にも言うな』の『俺』の『れ』は絶対に巻き舌で歌っているのだが、、、近田さんあんたの『巻き舌』の定義は間違っているよ(^o^)v
http://www.youtube.com/watch?v=r9hMFhWQDS0
コメントありがとうございます。
巻き舌唱法、一体どういうものなんでしょうかね。リズムを取るあまり歌として体裁をなしてない、ちゃんと歌えという点だけを読み取っていて深くは考えてなかったです。
今読み返してみると、この二人の対談で指摘されていること自体相当違和感があることが多く、そもそもサウンドに合わせることの何が悪いのか、楽曲こそメインなのではないか、と思わなくもなかったり。後、当時から「Jポップ」という枠組み自体が、総論で括れるものではなくなりつつあったのではないか、という疑問は拭えないのも確かなんですよね。