車輪としての映画、車輪としての群像劇 -『劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』 |
車輪としての映画、車輪としての群像劇 -『劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』
最初に述べるが、テレビ版のカットとそのクライマックスをそのまま流用した作品であり、そうである以上、例えばクライマックスのテレビ版のシーンを反復する場面におけるショットで、決定的な三者(残る者、去る者、観客)の断絶=離別を描いていまった『けいおん』や、現在・過去・未来を一続きものとして接続することによって、終わった話を描くことを肯定的にクライマックスに落とし込んだ『花咲くいろは』といった作品にあった、ショットがもたらす映画的興奮が、全編に満ちていたとはいい難い。しかしながら、『けいおん』が唯の時差に対する台詞で「過去の反復」であるというテーマを強調していたように、この映画においても冒頭でテーマが台詞によって強調された後、丁寧に演出を重ねられているこの映画を、ただの総集編とそしるには惜しいように自分には見えた。
幼年期事故で死んでしまった少女と、そこにいた「仲間」が、それに対する憧憬を自身の欲望や後悔を投影させていく。そういった形式である「あの花」という作品は、本質的には群像劇である物語であるといえる。自分がそう考えたのも、自分が劇場版を観て想起させられたのは、淡い青春劇というよりもむしろ、タカハシマコ「それは私と少女は言った」やヤマシタトモコ「ひばりの朝」といった、最近の少女マンガ家が描く、残酷な連作短編であったからだった。
「それは私と少女は言った」とは、こういった話である。天才子役であり、皆が憧れる美少女が、自殺してしまったという事件が起こる。その後数年後、死んだはずの少女の名で、自殺がまるで事件であったかのように語るウェブサイトが更新されるようになったことを契機に、当時の同級生だった少女達の、その天才子役に対する感情や自分の罪の意識などがそれぞれの視点で描かれることになる。この感情というのは、つまるところ非の打ち所のない美少女に対する憧憬と嫉妬の感情であり、少女達は自らが「選ばれなかった」存在であること、自身が死んだ少女ほどの美貌を持たないこと、いくら追い求めても得ることができないものがあることが、死んでしまった美少女という空白の存在を鏡として描かれた作品であるといえる。(注1)
これは推測でしかないが、このタカハシマコの作品の構想の前提に、「あの花」があったのではないだろうか。それほどまでにこの二つの作品には非常に共通点が多く、それ故に比較することで、逆に「あの花」の群像劇としての側面について、見えてくるものがあるように自分には思える。
「あの花」もめんまの死について残されたものが考察し、自分を見つめ直す契機とする群像劇である。そして、その登場人物の多くが「選ばれなかった」ものであることが、主に恋愛関係と、再び現れためんまが見える/見えないという明確な差異によって描かれているのが大きな特徴ではないだろうか。
その最もたるキャラクターがゆきあつは、自身がめんまに恋しているものの、告白したがめんまに断られてしまう。そこで、めんまの死の契機となった言葉を発してしまい、それ故に自責の念を抱いている訳なのだが、その自分の目の前には、めんまは出てこない。どれだけ欲したとしても、自身が演じることで溝を埋めようとしたとしても、めんまが見えているじんたんとの差は埋まらないのである。
そして、女性キャラクター達においてもまた、恋愛関係において「選ばれない」ことが強調されている。じんたん、ゆきあつがめんまを忘れられないでいる中、あなるとつるこはそれぞれに好意を抱きつつも、その思いを閉じこめたままで過ごしている。あなるに至っては、自身がめんまを好きではないとじんたんが言った時に、ほっとした。そして、自分がじんたんの側にいたいと告白するが、しかしその思いはじんたんには届かずにいる。そして、彼女たちが劇中の独白するのは、屈託のないめんまに対する、女性らしい憧憬なのである。
男性キャラクターの中で唯一男女関係が結ばれないぽっぽを含めて、この作品は、じんたんを除いて、異性関係において「選ばれない」人物の集まりであり、「めんま」という少女に対して自身の欲望や憧憬を抱えているが故に、罪の意識を抱えている、という構成になっている。それは、過去に何かを失ってしまったという喪失感と共に、こちらの痛みと悲しみを増幅している訳なのだが、そうである以上、じんたんという主人公とめんまの物語に隠されているものの、群像劇としての側面を有しているのである。
そして、そのようなある非存在のキャラクターを中心に登場人物達のそれぞれの視点が立ち上がるという作品、「それは私と少女といった」や「桐島、部活やめるってよ」などで描かれるそれは、各々の視点とは別に、それぞれのキャラクターの断絶、ディスコミュニケーションと、他者と共通意識を見いだせない孤独が、描かれていたものが、昨今の作品のトレンドであった訳だ。
しかしながら、この作品のクライマックスは、そのような個々のキャラクターの差異や欲望、孤独とは全く別の、対立項と呼べるものが取り上げられることになる。「あの花」は在りし日の年少期に感じていたはずの一体感、過去の精算と回復がテーマであり、そうであるがために、ほとんどイノセンスの象徴に近いめんまと超平和バスターズという共同幻想が、登場人物のすべてに共有されることになるのだ。
テレビ版のクライマックスを思い返してほしい。それはまずじんたんの固有性、めんまが唯一見える人物であったという特権性が、解除されることによって始まる。そして、その後、全員に対してめんまが手紙を書き、消えゆくめんまが、全員の目に映ることによって、一夏の過去への精算と再集合の旅とが終わることになり、そして、涙を流すのだ、全員が同じように、同じ方向を向かって。
実を言えば、このクライマックスの部分だけ取り上げたら、さもすればあの忌むべき『三丁目の夕日』と同様の、個々の人物の差異や過去の問題をうやむやにしてしまうような、過去へのノスタルジーに浸るだけの代物になりかねない危険性を「あの花」は孕んでいる。(そして、「それは私と少女は言った」はこの部分だけを意図的に漂白し、その後真っ黒に物語を反転させたネガなのではないだろうか)そしてまた逆に、先に挙げた群像劇のようにそれぞれが断絶した存在として描いたとすれば、各々の関係性の回復の過程は描けなかっただろうし、それ以上に、何かを失ってしまったという喪失感を、真に痛みの伴ったものとして捉えることもできなかったであろう。(注2)
「あの花」とは、群像劇としての側面と、ノスタルジックな共同幻想を描く作品としての側面を両輪として、微妙なバランスを保ちながら揺れ動きつつ物語を終わらせた作品だった、といえないだろうか。そしてそれは、脚本家岡田麻里のバランス感覚の賜物であるように、自分には見えた。
そのバランス感覚が発揮された演出の最たるものが、テレビ版のクライマックスが、ロケット花火とかくれんぼという二段構えの構成になっているという点だろう。一度、目的設定をしてそれぞれが共同幻想の回復に向かうように物語を設定しながら、(そこにそれを相対化する人物であるめんまの母親を配置することも忘れていない)そこでめんまが消えなかったことで、一度そういった一体感が崩し、各々の登場人物が抱えていた想いをぶつけあう場面へと至る。それによって、個々のキャラクターの固有性と差異を浮かび上がらせた上で、先に述べたクライマックスを描く。それによって、群像劇という側面を維持しつつも、過去の喪失感と一体感の回復を描いたのが、テレビ版の「あの花」だったのである。
しかしながら、この「二段構えのクライマックス」は、バランスを保ちつつも、共同幻想と喪失感を描くことが主になっていたという側面があったことは否めなかった。それはじんたんとめんまの関係性を中心に物語が描かれていたであろう点とも重なり合うが、製作陣は劇場版を描くときに両輪の「群像劇」としての「あの花」をもっと突き詰めたかったのではないだろうか。そこで要請されたのが、登場人物がそれぞれめんまに対して手紙を書く、という物語であり、じんたんからあなるへの主人公の交代であったように見えた。
冒頭のめんまの台詞によって「群像劇」としての「あの花」というテーマが観客に提示される。ご飯という比喩によって、みんなとは、すべて同じ一体感を持った存在ではないという点が強調されたのち、各々が手紙を書く中で、それぞれが抱えていた想いを独白していくという構成に映画はなっている。それは、それぞれの立場の違いと固有性の強調に繋がっており、またそれがお互いに内容がわからないという点において、先の群像劇と重なり合う部分が強い。
その中で、大きくクローズアップされるのが、じんたんに恋心を抱き、めんまに対して微妙な気持ちの揺れを持っているあなるである。彼女は手紙を書く内容に困り、書けないという物語が、過去の出来事の回想の反復と共に物語のプロットとして展開される。そして、先のテレビ版のクライマックスが描かれた後に、二重のクライマックスとして、このあなるの手紙を書く物語が設定されているのではないだろうか。
めんまに送る手紙をもって久しぶりに秘密基地に集まった超平和バスターズの面々は、夜を待つためにその場でかくれんぼをすることになる。あなるはそこで、秘密基地の二階でじんたんと隠れることになるのだが、じんたんが「超平和バスターズはずっとなかよし」という文面を観て、めんまが望んでいたのはこういったことだった、とふと漏らす。それを聞いたあなるは、今まで書けなかった手紙についてインスピレーションを得て、かくれんぼで見つかってもなりふり構わず手紙を書き綴っていく。そして、じんたんとかくれんぼの鬼であるぽっぽを秘密基地から追い出してしまう。
この場面が、先の共同幻想と群像劇の、主客が逆転した瞬間を描いた場面のように、自分には見えたのだ。共同幻想に浸るじんたんに対して、あなるはめんまに対する秘密の告白という、個人同士の関係を構築に力を入れる。そして、その個人の独白が、秘密基地の中心になるのである。このあなるの手紙の内容が明かされないこと、またはつるこの独白がほとんど為されず、手紙よりもむしろ「絵」という言語化しがたいものがクローズアップされている点などをふまえれば、劇中の女性キャラクターのめんまへの手紙は秘匿されているといえるが、(それに対して男性のそれは、ナレーションと書いた内容がほぼリンクしていることが、画面の中で示されている)その秘匿された関係性こそ、じんたんが見ることのできない、テレビ版では描かれなかった群像劇としての個別の視点と各々の関係性ではないだろうか。
そして、秘密基地においての最後の夜のシーンで、明確に男性側と女性側とが、まるで切り返しのように交互に撮られ、そして、煙という境界線で二人の男が隔てられて撮られていることは、つまるところこれからこの秘密基地の中で、共有幻想とは別に、それぞれの恋愛模様が展開されることを予感させるものになっているのである。
テレビ版と劇場版、それらが両輪となって、一つの作品の両側面を照射していく。「あの花」の劇場版はそういった構成になっており、自分はこれもまた、映画の一つの形として、認められるべき形式ではないかと思ったのだった。その片輪しか観てない自分がそんなことをいうのもなんだかおかしいけれど、そんな不思議な感慨を抱いたのは確かだったのだ。自分の個有の喪失感と、その感傷に浸りながら。
(注1) ※ネタバレ※
物語が紡がれていくにつれて、物語の契機となったサイトが、美少女に幻想を抱き続けている男の手によるものであることが明らかにされていく。そして、その中で過去を引きづり、その少女に成り代わろうとする男が出てくる点でも共通性を見出すことが出来る。
(注2)映画版の「桐島、部活やめるってよ」の問題性は、各々のキャラクターを対象化し、スクールカーストの枠組みに押し込め、そこに留まらざるをえないかのように観客に見せる作品であるということだ。私は社会の制度に対して「OBEY」とのたまうような作品を、支持する気にはどうしてもなれない。
unuboredaさんのレビューで良かった~・・・
そうか ようやく冷静に振り返れるようになった気がします
自分が最大の魅力だと感じていた、リミットがあるゆえの画面の躍動が
劇場版からは失われていたのがちょっとショックで.
次に見る時はそうした視点で見返してみようかなと.
映画館で見れて本当に良かったなと思うのは、自宅で見てたら
「いやこれは無しだ!」って一言で終わりにしそうなところ、
最初から泣いてるファンだろうお客さんとは別に
途中で急に泣きだしたお客さんやラストで泣きだした人等がいて、
そのポイントに何か意味はあるんだろうかと考え始めたら
あれ一概に切ってもいけないのかなと.そこから混乱が始まりました.
あなるへの思い入れがハンパなかったので
1年経ってもあんま変わってないことに最初拍子抜けしつつ、
その心情だけは丁寧に綴られていたことは確かだと思いました
ファンとしても違和感がなかったので.
まぁ、最初でもう泣いてた自分では絶対に冷静に考察できなかった気がします.
素敵なレビュー読めて感謝です^^
いや、割と一見さんに限りなく近い状態で鑑賞していた(そのくせ観たのは舞台に近い新所沢)のですが、ファンだった友人もやはり最初から泣いていた、と言っていたのが印象的で。
テレビ版を観た時の記憶を想起させる、という側面を最重要視した作品だったといえるのかもしれない、と特にオープニングの下りから感じたのですが、そういう作品だからこそ、レビューを書きあげてネットに上げた時からおっかなびっくりだったんですよね。ヒノキオさんのコメントを読んでホッとしました。
「リミットがあるゆえの画面の躍動」が何を指すのかが気になるところですが、1話を観たときに、20数分間の中での語りの巧みさを感じたのは確かで、劇場版では、そういうきちっとした構成がなかったと最初僕も印象として持っていました。ただ、そこを製作者が端から目指してなかったのではないか、きちっとした物語を語るだけが映画ではないのではないか、と思わせてくれる、劇場を出た後の気持ちはそんな不思議な感動に包まれていたのですよね。そこから、キーボートを叩いていた気がします。
アニメファンやそうでない諸々の人が「映画じゃない」とアニメを批判することがあるんですけど、例えば『空の境界』シリーズみたいなことは1950年代の時代劇が割とやっていた訳で、もっと作品のあり方は多分多様でいいし、多様なあり方を肯定してもいんじゃないか。最近の劇場版アニメを観ているとなんだかそういう気にさせられることが多かったりします。(例えば、『空の境界』が前半の章では幹也と式の切り返しを禁欲的に禁じて、『矛盾螺旋』のクライマックスではじめてそれを限定的に成立させていること、それが映画でないなんて軽々しく言って欲しくないと思ったりしてしまうのですが、その辺は『未来福音』の時に、時間があれば書きたいと思っておりますです。)