・七月に感銘を受けた作品は、『リアリティのダンス』と『呪怨 終わりのはじまり』、そして今回書いた『Z~ゼット~ 果てなき希望』です。『リアリティのダンス』は私が何か言わんでも他に誰か言及するから置いておくとして、後者二つについては擁護しなければならない、説明責任があると謎の使命感に燃えている今日このごろ。ただ、今月は、ブログにそんなに時間を喰えないから『呪怨』はいつかまとめて、となりますが。
・今年はこの後も、Jホラーでは安里麻里『零』と白石晃士『ある優しき殺人者の記録』が控え、ハリウッドでもジャウム・コレット・セラ『フライト・ゲーム』やスコット・デリクソン『NY 心霊捜査官』が公開と、割とホラー絡みで注目している中堅監督の新作ラッシュなので、まだ死ぬ訳にはいかないと思っていたり。特にJホラーの二人と落合正幸の三人が、これからのJホラーを代表する作家になるだろうと。後、俺つい最近まで気づいてなかったけど、長江俊和『放送禁止』の新作もあるよ!
・安里麻里はホラーで掛け値なしに傑作といえる作品はまだ撮ってないとはいえ、女性監督としての問題意識故か、ジャンルの特異点のような意欲作が多く、誰か全部まとめて論じて欲しいと思っていたり。(『ゴメンナサイ』、『呪怨 黒い少女』、『バイロケーション』と並べてみたときのこの引っかかる感じ。)
・Jホラー絡みで観たものだと『青鬼』は、低予算なりに凝った照明やいくつか1カットで空気が変わる瞬間を捉えようとする試み、アクションホラーという志向自体は悪くなかったものの、空間の撮り方や設計が杜撰であり、それ故に黒沢清的な廃墟や突発的な暴力があまり機能していないように感じた。ことあるごとに主観視点だけでアクション演出を押し切ろうとしてしまっているのも駄目。後、ラストが『ANOTHER』や『水霊』などと正反対のベクトルで不味くて、登場人物の心情とドラマを描くためにホラー映画として絶対やってはいけないタブーで終わっている。
その欲望で - 鶴田法男『Z~ゼット~ 果てなき希望』
天災、フレーム内フレーム、娯楽映画(『GODZILLA ゴジラ』のネタバレを含みます)
ギャレス・エドワーズ『GODZILLA ゴジラ』は、スティーブン・スピルバーグ『宇宙戦争』からジョナサン・リーベスマン『世界侵略: ロサンゼルス決戦』の流れを汲んだ作品であった。前半から中盤にかけて、フレームの向こう側に佇む天災としての怪獣達に対して、人々は状況を飲み込めずに、分断・細分化された情報を頼りに右往左往していく様が描かれていた。
その中で、『ゴジラvsビオランテ』や平成ガメラとの最大の違いは、宇宙戦争のように個の視点で描かれている軍事作戦が、事態を好転させるどころか、余計な混乱を招く点であるように思える。日本の怪獣映画における自衛隊は、怪獣の助力程度は活躍し、天災に対応しようとする巨視的な視点を持ったものとして描かれていた。それに対し、様々なスクリーンに囲まれた『GODZILLA ゴジラ』の作戦本部は、事態を後追いすることしか出来ずにいて、むしろ事態を悪化させるために核を投入し、その結果危機を助長させていく。そして、それへの対処のために、一個人の兵士は命を賭けざるを得ない状況に追い込まれていく状況が描かれていく。
僕はこの軍隊の無能さに衝撃を受けた。『世界侵略:ロサンゼルス決戦』でも懐疑的に描かれていたアメリカのヒロイズムと愛国心が、完全に無力なものとして描かれており、そこにアメリカの疲弊と企業に癒着しきった軍隊や政治への不信を読み取れたからだ。『パシフィック・リム』にもその兆候は見え隠れしていたが、ハリウッドから『インデペンデンス・デイ』のような映画が出てくることは、ここ十年ほどは叶わないのかもしれない。
…随分前置きが長くなってしまったが、そろそろ本題にうつりたい。前述したように、天災の中で断片化・細分化された情報と、その中で難民のように流れていく個人の姿が、主観視点とフレーム内フレームによって『GODZILLA ゴジラ』で表象されていた。そして、奇しくも日本でも、それらを効果的に使い、災害の暗喩を描いた映画が公開されている。それこそが、鶴田法男の新作『Z~ゼット~ 果てなき希望』である。
主観映像と欲望
ここ最近の鶴田法男は、リアリティやもっともらしさで画面を塗装しなくてもいいと思っている節があり、(注)それ故に低予算であることや演者の稚雑さが映画の中で思いっきり露呈する瞬間がある。Jホラーだった『POV~呪われたフィルム~』はそれ故に全く乗れなかったのだが、ゾンビ映画である本作では多少は愛嬌だと思って目を瞑れる。そして、低予算であることに目を瞑れば、その主観映像の使い方や画面構成、アクション処理などの巧みさに唸らされたのである。
映画は、最初POVの体裁をとっている。プライベートフィルムと呼ぶべき稚雑な映像からスタートし、主観視点でゾンビ発生が描かれていくことになる。その中で、三人の少女が走りながら、途中で妊婦の姉を助け、その姉のために病院へと向かう。その病院では、生存者たちが立てこもっていた。
POVでの撮られたゾンビ映画といえば、ロメロの『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』をまず連想するが、あの作品において主観視点=カメラは明確に観ている者の自意識や欲望を表象するものとして描かれていた。そして、その傾向は本作でも踏襲されている。主人公格の少女の一人は、映画オタクであり、ゾンビ発生の後もカメラを手放さずに、それを回し続ける。それは、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』の主人公がそうであったように、映画を撮りたいという彼女自身の欲求に根ざしていることは終盤で明らかになる。
欲望が衝突する場としての多重フレームの病院
ただし、この映画において特異なのは、そういった欲望がロメロの作品ほどは咎められない点だろう。むしろ、オープニングのシークエンスから群衆がスマホやビデオカメラをかざしてゾンビを撮る姿が見られるように、そういった欲望(それらの多くは窃視症にまつわるものだ)を多くの人が抱いているものとして描かれている。
だからこそ、病院の七階という場所に立てこもる人々は、数多くの監視カメラでゾンビ達を俯瞰しながら、本来であれば監視する必要のない七階の様子を各々の理由からビデオカメラを回して記録していく。
広がりがありながらもフレーム内フレームや仕切りが多く存在する病院内で、そんな人々が空間的に分断されている。それは、各人が各々のフレーム=欲望を抱えており、それ故に諍いを起こす存在として描かれているからに他ならない。POVで描かれていたような窃視症的なもの、あるいは見たいものを見ようとする人々の欲望が衝突する場として、多重フレームを持つ空間=病院が設定されているのである。
それをもっとも端的に表しているのが、公務員とその婚約者の関係を盗み見るチンピラの三角関係である。一度、パニックになった公務員にゾンビの群れに置いてかれた婚約者は、自身の部屋に男を引き込み、(それは、ドアを閉めるといった所作で象徴的に描かれる)不倫関係を持とうとする。公務員はそれに気づかずに、自身の仕事だ、といいつつ立てこもる人々にカメラを回して、インタビューを続けていく。その両者を下世話なチンピラと中学生の二人組は、ビデオカメラ越しに盗み見ていく。この三者は共に窓枠、扉といったもので空間的に区切られつつ、各々の欲望を満たすためにあるものは自身の空間へと男を引き込もうとし、あるものは別の空間を窃視する。(注2)そして、この映画の登場人物は、眼帯の長刀でゾンビを殲滅する少女(注3)を除いて、自身の狭量な価値観に囚われているか、欲望のままに行動するものとして描かれているのだ。そして、特に性的な欲望を喚起した人物からゾンビ化していくことになるのである。
そう、多重フレームの中で欲望を抱きながら生きる人間はゾンビと近似的な存在として描かれているのだ。映像で撮られるゾンビと、そのフレームを欲望のまなざしで視る人間の差異は極小であることが、ロメロの映画が持っていた社会風刺を継承しているといえるのである。その中でも特に、病院の七階に、それこそ宇宙戦争の火星人のように内部からゾンビが侵入してくるショットは、それだけでお金を払うだけの価値があるものに仕上がっている。
欲望から希望へ・・・。
このように、『Z はてなき希望』主観視点から多重フレームへの移行によって、多くの人々が各々の欲望を抱え、自分勝手な行動をしていく様が描かれている。しかし、この映画の大きな特徴は、多くのゾンビ映画で否定的に、罰せられるものとして描かれたそのような欲望が、完全に否定されることなく、希望と接続させられることにある。
それは、二人の男子中学生と妊婦と女子高生の姉妹とのエピソードに端的に表現されている。女子高生の下半身を窃視しようとした二人は、姉妹に気づかれ、誤魔化すために挨拶をし部屋に招き入れられる。そこで、生まれてくるであろう赤ん坊の、その鼓動に触れることになる。ここで、カメラを持った中学生が、自身の親子関係への絶望を吐露していく。その家族に対する不信の深さが窓に映る中学生のぼやけた影に象徴されつつも、それがおなかの中の子に触れる手の暖かさによってかきけされ、そこから「こんな地獄みたいな世の中でも、子供が生まれてくる」という、希望が語られるのである。
『ダイアリーオブザデッド』では罰する存在だった窃視的なエピソードから希望が語られるエピソードに象徴されるように、この映画における欲望は、生きる原動力として肯定的に扱われているのである。それは、公務員の男の、自身の窃視のために撮っていた映像が、ゾンビの感染源を突き止める証拠になる点や、映画研究部の女子高生が迎える結末などからも伺うことができる。
もちろん、この映画の性の描き方を、馬鹿馬鹿しいもの、あるいは問題のあるものとして捉える人がいるだろうとは思う。しかしながら、カメラと性にまつわる反復描写によってこの映画は、今までホラー映画の中で罰せられ続けた人の欲望とどうしようもなさを、希望として掬い取ろうとしている節がある。そして、それは今までのゾンビ映画が成し得なかった人間賛歌になっているように、自分には見えた。
そもそも、姉の子供だけは助けたい、という気持ちがある種の偏愛や思いこみに近いものであることは、姉妹の妹の現実認識の甘さに表象されている。それは、枠組みの中に囚われた、一つの偏った価値観でしかない。それでも、私たちはそのような思いこみに縋って生きてもいいのではないか。その思いこみが、世界をよりよく変えることができるのではないか。
ラストのフレーム越しにしか物事を見れない生き残った三者の会話シーン、各々の隔たりと主観に囚われた生き残りの会話から見いだせるのは、紛れもない3・11以後の人々へのあるべき指針である。
(注)そう見えるのは、鶴田法男の映画がどことなく舞台や演劇を想起させる所があるからかもしれない。『王様ゲーム』といい、カメラを明確に意識しているはずなのに、何故そう見えるかは不思議だが。
(注2)公務員のそれは功利主義的なものとして最初描かれているように見えるが、それは中盤、窃視症的なものに堕することになる。
(注3)ジョン・カーペンター『ニューヨーク1997』スネーク・プリスケンがモデルだそうで。黒沢清『地獄の警備員』といい、カーペンターリスペクトのキャラが超越者をやる伝統でもあるのかねぇ。