・フィンチャー作品を見直す必要が出てきて、その中で『セブン』を観直したり、グーグルスカラに挙がっている海外の論文を読んだりしていた。(その結果は・・・ここでいい形で発表できたらいいな・・・そんなことばっか最近言っている気がする・・・)
・その中で、ちょっと長文だし誤読かもしれないが、割と面白い解釈じゃないのというのを書けたから掲載してみます。
・つい二日前までほとんど映画を観てない日々を過ごしていた…。久方ぶりに観たホン・カウ『追憶と、踊りながら』は脚本家映画で三度の反復を積み重ねる過程までにもう少しショットの工夫が欲しいが、(会話シーンのそれが空間上意味が込められているとはいえ、少し単調)描こうとする主題、演技と照明とが素晴らしく、演出の積み重ねの末のラストは心に打ちつけられた。
・アニメーションへの衝動だけで拵えたような新井陽次郎『台風のノルダ』は、新海誠が成熟した大人に見えるほど物語や諸要素が幼稚だが、アニメーション自体に引き込まれる所が何度もあり、嫌いにはなれない。その衝動を飼い馴らすように演出の統制がなされている原恵一『百日紅』とは好対照。(当然ながら後者のが評価は高い。)
・今年は、実をいうとワンシーズン1作だけアニメを毎週観るようになる予定。というか、平尾隆之『ゴッドイーター』は正座して観る。
・『アニメクリエイターの選んだ至高の映画』の平尾監督のチョイスに笑った。大体あれに書いてある七割はここで挙げたベストばかりだったという。
隠れ潜む邪悪 ― デヴィッド・フィンチャー『セブン』
『セブン』には、モーガン・フリーマン演じるサマセットが犯人である、という説が根強く存在する。例えば
このサイト では、七つの大罪は本当は九つであり、その中で虚偽の罪を隠し持つサマセットがすべて仕組んだことである、とされている。しかしながら、ここに書かれていることだけでは明確に動機が弱く、解釈を妥当なものであるとするだけの根拠を画面から複数見い出している訳ではない。大体、七つの大罪を題名に銘打たれているのであるから、それを外部知識を持ち出して崩すことはできないだろう。ここに書かれていることでは、一笑に付す人がいてもおかしくはない俗説、の域を出ていないといえる。
ただし、こういった説が出てくる理由自体は理解できるものがある。唐突なエンディングであるのもそうだが、今まで大罪を犯したとされるものが被害者であったはずなのに、加害者であるジョン・ドゥが嫉妬の罪である、ということへの違和感は拭えないのだ。また、ミルズの妻は何故罪のないにも関わらず殺されたのか、という疑問は観終わった時に残る。犯人がある理念をもって犯罪を犯しているとするならば、最後の殺人は、その理念から大きく外れてしまっているのは確かだ。だからこそ、陰謀論としてサマセットが仕組んだものであった、というものが出てくることも無理がないといえる。
だがしかし、最近必要があって『セブン』を再見した。(といっても、一度見た時は高校生位だったため、ほとんど初見に等しい)すると、一見退けるべきもののように見える「サマセット犯人説」が、解釈として妥当なもののように思えてきたのである。
鏡像としてのジョン・ドゥ
サマセット犯人説が出てくる大きな理由として、ジョン・ドゥとサマセットが所謂鏡像関係として描かれている、という点が以前から指摘されている。それは、ジョン・ドゥの住居を訪ね、襲撃する場面にもっとも端的に示される。フィルムノワールを意識した世界観の中で、両者は共にトレンチコートで身を固めた帽子を被った男として描かれている。そして、若手警官であるミルズがジョン・ドゥを追う中で、サマセットはジョン・ドゥの追跡からはずれていく。そのことで、彼らが相似しているという構図が強められているといえる。
元々、都市の劣悪な環境や、殺人など心ない事件に対して心を痛めていたサマセットは、ジョン・ドゥに対して好意的に解釈し、七つの事件を遂行すると信じて捜査を続けた節があった。探偵が殺人犯の最大の理解者であるというのはミステリーの通例だが、七つの大罪などの原典に精通している点など、ジョン・ドゥはサマセットのシャドゥに近しい存在なのである。
そして、彼らの精神が通じていることは冒頭、サマセットの描写によって描写されている。
「夢」という演出
随分昔の話だが、数年前、母校である成城大学の映画学科の卒業論文の優秀者発表会に参加した際に、ペドロ・アブドモバル『トーク・トゥ・ハー』についての発表で感銘を受けたことがあった。(注)介護士であるベニグノとその患者であり昏睡のまま眠り姫となったアリシアとのやり取りが、まるで昏睡している患者の夢であるかのようにディゾルブを用いて演出されており、それ故にその後のベニグノの行動が観客に肯定的に受け取られるように印象付けられている、といったものだ。 物語ではなく、演出レベルで「夢」を用いることによって、人物関係を印象づけることを明らかにした発表であり、他のフレーム内フレームを含めた空間分析の緻密さなど、このブログに書いてある雑文もその発表に多大な影響を受けている。
そしてここで問題にしたいのは、その演出レベルにおける「夢」という形式は『セブン』にも用いられているということなのである。冒頭、サマセットは夫婦での殺しの現場を見た後で、眠りにつく場面が描かれる。彼が眠るために設置したメトロノームを何度も映画は映す。針が動く様とサマセットが眠る様子とが交互に映された後に、映画は何を映すのか?…そう、あの有名なタイトルバックへと移行するのである。まるで、犯人の犯行の準備の様が、サマセットの頭の中で行われているかのように、サマセットの「夢」という形式によって提示されることになる。それがサマセット犯人説が想起される、観客の無意識を操作しているといえるのだ。
…そして、この「夢」の形式は劇中の中で反復されることになる。
インターネットで閲覧できる先行論では、原作に従ってサマセットは温厚な、沈着冷静な人物として捉えられている。しかし、そのように設定されたはずのサマセットが映画の中で劇高するシーンがあるのを覚えているだろうか。それは、ミルズに「お前のキャリアが終わりだから、そんな風に考えるんだ」とパブで告げられた直後である。その後サマセットは怒りをぶつけるかのように、ナイフをダーツ台に繰り返し投げつけるという印象的な場面が描かれる。そしてそのシークエンスが、ベッドの上でサマセットが、メトロノームを破壊する描写からはじまることを見逃してはならない。冒頭のシークエンスと対応関係が認められるのである。では、そこで夢として描かれているものが何なのか?
…そう、サマセットの妄想のように、眠れない彼に並置して描かれるのは、ミルズと妻がベッドで朝を迎え、夫婦のやり取りをするのを捉えたショットなのである。
サマセットと銃
この映画の男性キャラクターにおいて「銃を撃つ/行使する」という行為が通底して描写されている。ミルズのエピソードは銃がトラウマになっているという話であるし、ジョン・ドゥの犯行の大半は銃を突きつける時点で完成したものでしかないのだ。ラストを省みるまでもなく、この映画において銃は大きな主題、男性性を象徴しているといえるだろう。では、サマセットが銃を取り出すのはいつだったか。それは、ミルズの家で、ミルズの妻と二人きりで会っている場面なのである。
そもそも、自分にとってこの映画に対する違和感のほとんどは最初サマセットとミルズの妻のやり取りと描写の不可解さにあった。ミルズの妻が夫の承諾なしにサマセットを家に招き入れる。その後、二人で夫と秘密裏に会い、妻は自分の妊娠を会ったばかりであるはずのサマセットに告白し、それをサマセットが隠ぺいするように誘導する。両者が不倫関係にあるというと暴論になるだろうが、この一連のシークエンスに、男女関係の影が隠喩的にほのめかされているのではないか、という疑惑がぬぐえないのだ。サマセットがジャケットを脱ぎ、銃を取り出した際、それを観たミルズの妻の顔に明らかな影がかかることの意味を邪推してしまう。そういった疑惑が、先の夢のショットから現実味を帯びて来、そこで思い出されたのは、ジョン・ドゥとの死のドライヴへと赴く前にミルズとサマセットの会話だったのだ。ミルズは、家を省みない自分に対して妻の気持ちが離れていくという言葉の後、サマセットに何を言おうとして言いよどんだのだろうか?彼はジョン・ドゥが妻の妊娠が露見した際、つい咄嗟に彼がジョン・ドゥに手を出して、呆然と見つめてしまったのか?
闘争する、その相手。そして、物理的証拠
兎にも角にも、少なくとも、ここでサマセットがミルズに対して嫉妬を抱いている、という演出が為された痕がいくつかのシークエンスから見出すことが出来るといえるだろう。事件の捜査の指揮権を持っていたはずのサマセットがミルズの登場によって部屋と権限を失っていくという物語上の一連の流れがあり、そこで夢のような演出でミルズと妻の仲睦まじい姿を想起してサマセットは嫉妬する。彼の闘争相手とは、汚れた世界である以前に自分の立場を剥奪し自身を嘲笑した無思慮な若者ではなかったのか。そう考えれば、サマセットはジョン・ドゥの分身という以上に、共犯者として見えてくるのである。その証拠に、実を言えばジョン・ドゥの単独行では、事件に説明できない箇所がある。というよりも、妻が殺されたかどうかはかなり疑わしいように今の自分は考えている。パンドラの箱は隠喩ではなく実際に空っぽであって、そこに悪夢が押込められているようにサマセットが演技したのではないか、という疑惑が以下の問いから湧き上ってくるのである。
ジョン・ドゥの手が殺したミルズの妻の血で染められていたのならば、彼はどうやって彼女の首を配達人に通報されない形で包装したのだろうか?
(注)ちなみに、私は日本文学専攻なので、ただ授業を受けていたという。(発表もしたけど。)ストリートファイターでいうところのダンみたいなものなんだよなぁ、と常々思っております。