批評の現在性 - 新たな批評を作る上での現状把握のために |
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2015年 06月 21日
※すべての人に敬称略 1、はじめに リハビリテーションのつもりで学会に行こうと思い、6月の昭和文学会に参加した。そこでの藤田直哉の発表を聞いて、ぼんやりと思っていたことの定型が掴めたような気がしてきた。 藤田の発表は、主にクソコラと言われるMADアニメやネットの書き込みなどについてのものだ。著作権は明らかに違反しつつ独自に発展した表現と文化圏がある。それを文学として分析する手立てがあるかどうか、或いはそれはTPPなど著作権の厳罰化によってなくなってしまうのではないか、とインターネットの文化を紹介しつつそこから問題提起していく内容だった。 MADの原型がモンティパイソンだという藤田の認識は、ここを見る限り甘いし、文学というカテゴリーからネット文化を語るなら、メカクシアクターズかニンジャ・スレイヤーズだろうとは思ったが、それは一端置いておく。 問題なのは、後のシンポジウムで紅野謙介が「不真面目な」文化とそれらを括ったことからも分かるように、会場にいた多くの人間は、ただ奇異な文化があるとしか見えなかった点だろう。そして、ネット社会における言説や文化は分析対象にならないと、多くの人が遠くのものとしてそれを捉えたに違いない。(実際問題、私自身も氏の発表に対して悪ふざけがすぎると思った節があることは告白しておく。) しかしながら、そもそも、それを「分析対象」として捉えること自体が間違いなのではないのだろうか。それはむしろ「分析対象」といった遠く離れたものではなく近接し無限に増殖し批評を呑み込まんとする「競争相手」ではないかという疑念が、発表を聞いた後に浮かんできたのである。 2、ネット言説と批評 インターネットによって、無数の情報や感想が即時的に大量に出回るようになって久しいが、それに従って批評という場の比重は明らかに紙媒体からインターネット上に移行し、アンダーグラウンド化しているきらいがある。そして、その結果、批評が金銭を産む類のものではなくなりつつあるといえる。 例えば、大きな流れとして、紙媒体の経済的な地盤の弱体化とそれに伴う批評家の言説のネットやイベントへの移行というものがある。現在、自身のブログや有料メールマガシンの形式で論考を発表していない批評家というもの自体が少ないのではないだろうか。映像作品への批評でいえば、アニメーションの評論家の藤津亮太は講演とメールマガジンやニコニコ動画の有料コンテンツを発表の拠点と捉えているし、映画秘宝系ライターの代表格である柳下毅一郎と町山智浩も自身のサイトで有料コンテンツとして批評を載せている。 この傾向は、一つにはインターネットの一般化に伴う紙媒体の経済的な地盤の脆弱化とそれによる雑誌の宣伝媒体化の二点が理由に挙げることができる。結局のところ、広告費を出している会社への批判は書くことは出来ないし、宣伝媒体である以上、作品の結末に触れる本格的な論も微細な分析も紙媒体で行うことは難しいのだ。だからこそ、多くの批評家は言説を個別のユーザーに売るためにインターネット社会にのりだしているといえる。そしてそれは書籍と違いデータベースがあるわけではないから、結果として門外漢にとってはアクセスしがたいものになっているといえよう。 一方、文学や映像研究の方面においてはオープンアクセス化ということが推進されている。大学の紀要などが無料公開され、ciniiやグーグルスカラで検索すればかなりの数の論文をタダで閲覧できる。タダで批評を掲載する大学系の機関もいくつか存在しており、例えば神戸映画資料館のウェブスペシャルなどは毎月楽しみにしている。 また、インターネット上のコミュニティから言論空間が形成され、それが同人誌という形で論考や雑誌を発表する、という流れも存在している。笠井潔を中心とする(していた?)『CRITICA』など代表的であるが、「文学フリマ」というイベントの中で、研究者の卵やらインターネットの隠れた理論派やら怠惰とアカハラで死にかけの研究者やら有象無象が大量に言論を生産しており、大手の中では先行論として研究の中で取り扱われるものも出てきている。そもそも、『ゼロ年代の想像力』の宇野常寛などもそういった流れからデビューした批評家であることを忘れてはならない。 さらにいえば、インターネットにはほとんど奇形的に独自の理論や言説を発表し続ける魔物としか呼べない批評家が少なからず存在している。自分が定期的に閲覧しているサイトをいくつか挙げると ・辛辣で「劇場を~分で出る」など狂気的な振る舞いをしつつも、『顔のないスパイ』の論考など緻密な作品分析を掲載し続けている「映画研究塾」 ・イタリアの恐怖映画について、日本で読むのが困難であろう先行論や同時代評、インタビューを紹介しつつ、独自の分析を加えた論考を発表し続けている「日本伊製恐怖映画協会」 ・先に挙げた、エッジの効いた酔狂な文体と広い知見で、アニメーションの現在を通史的に捉えようとしている「17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード」 などは強靱な文体と論理をもった批評家ではないだろうか。 このように、インターネットの言説は複数の箇所で同時進行で拡充され、現在形で即時的に発展している。そして、その中で批評や研究といったものがアンダーグラウンドへ広がりながら無料化(低価格化)しつつあるのだ。その中で、研究や批評という二次言説を発生させる際、夥しい同時代的な評価や先行論をどう把握して捉えるか、或いはどうネットの言説と自身を差異化していくのか、そういったことが問われているのが現状だろう。それはとどのつまり、二次言説でしかない自分の文章をどう金銭的価値を発生させるかに他ならない。 「著作権」という主題から外れる議題ではあるものの、藤田氏の発表と学会の空気には、それらに対する危機意識が希薄であるように自分には感じられたのだ。文学研究はそういった論と平行しなければならず、論文と批評とが一般の人間に併置させられるのではないか、という危機意識が、である。これらが並列された際に、どう見られるかという問題は常に付きまとっている。ひいてはその優劣が、疑問視されることの多い文学研究の価値自体を崩すことになりえないか。だからこそ、広い視野を以て言論空間を把握し、傾向をつかんでいかなければならないし、方法論も学ばねばならない。現代的な作品を論じるためには、そういった手続きが必要なのではないだろうか。 また、そのような現状への危機意識の希薄さは、批評家のそれ、批評家養成塾の東浩紀の視点にも感じられたのだ。 3、現在の批評について 批評再生塾というものが佐々木敦主催で最近開始されたそうだ。現在地位が失墜した批評をもう一度取り戻す、という目的の元にワークショップで批評家を育成しよう、といった趣の企画だった。ぼんやりと文面を眺めていたのだが、そこで気になったのは、東浩紀が出している第一課題の趣旨にあったある一文である。そこには、二次言説の現状に対する認識の甘さを私は感じずにはいられなかったのだ。以下引用。 養成塾のイメージとしては、昭和生まれの中高年が読む週刊誌に、ヌードグラビアとかマンガとともに掲載されている見開きコラム。 週刊誌の2Pほどのコラムが批評の理想であるという言葉の意図が一般的に開かれた言説でなければならない、というものであることは理解できる。「一般的」というのは東が以前にやっていたゼロアカ道場で挙げた「一万人を売り抜く」という目標とも連なっているテーゼなのだろう。しかしながら、これだけ瞬間的にある程度専門的な視点を持った言説が無数にネット上に発生する現状で、誰が週刊誌のコラム程度の「一般的」なものに金を払うだろうか。そういった言説は、もはやツイッターにせよブログにせよ無料のもので充足するものでしかない。つまるところ、金銭的な価値が発生しえないものだというのが、私の認識である。 こういった一般的という考え方には、東の批評観に「瞬発力」の重要さが挙げていたことにも由来するように自分には思われる。あくまで記憶でしかないのだが、東は作品や対象について即座にそれを切り込み論にする瞬発力が重要だと話していたと記憶している。しかし、そういった瞬発性において個人が無数の人間の集合知であるネットに勝てるはずがなく、即時的であればあるほどネットの言説と同価値のものにしかならない。だからこそ、参加者の4000字程度の文ははてなに挙げられた無数の言説の前に埋没するしかないのではないだろうか。 現在の批評に必要なのは、金銭的な価値を払うだけの専門性と瞬発力では太刀打ちできない知識や資料による裏付けであり、つまるところ研究に近似した緻密さであるように自分には思えてならない。事実、雑誌自体が生き残りのためにそういった専門性やムックの販売にシフトしつつある。人々が要請しているのは専門的な論考か、専門的な知識を持つものが作成したカタログに他ならないのだ。(注) では、批評家は何を以て多くの人々を獲得するか。それは単純な話であり、独自の文体とリズムを以て、であろう。小林秀雄にせよ蓮實重彦にせよ、或いは大澤真幸にせよ、文筆家は専門的な内容と共に文体のスタイルによって人を引きつけていたのではないか。東が述べているように、読み物として魅せる力こそが批評の原動力ではないか。先に挙げたネット上の言説が優れているのは、それが独自の文体を構築し支持を獲得しているからに他ならない。そして、私たちがこれから批評という二次言説に金銭的価値を賦与させるためには、一般性ではなくそういった専門性と独自性ではないか。そうでなければ、砂の中に埋もれてしまうようにネットの中で埋没せざるをえないのではないのではないだろうか。 4、大学のオープンソースの問題点 また、専門性がある言説が完全なオープンソースとして公開されることに異を唱え、改善していく必要があるだろう。はっきり言えば、補助金と大学の庇護の元、タダで専門性の高い長文を公開することが、図書館が無料で本を貸し出すことと同様、出版物の経済的な基盤、或いは書き手の経済的な多様性を破壊しつつあるように自分には思える。少なくともアメリカにおいては、グーグルスカラによって単発の論文は読めるものの、単行本化されたものについては、電子書籍で買う必要が生じ、そこで執筆者に金銭が還元されるシステムが形成されている節があった。 一方で、現在の日本の大学の制度において、博士論文が無料に公開されることになっている。オープンソースとして多くの学術論文が無料で公開されており、単行本化されたものについても放置されている。それ故に、大学や国の補助によるものしか論文を作成できないようになりつつあるのではないか。それは、将来的には補助なしで言説を執筆する在野の批評家や研究者の末端を枯渇させることになる危険性があることを認識すべきだろう。また、その国の補助自体が文系においてなくなるかもしれないという話になっている以上、ある程度言説において金銭が発生させることによる自律性を獲得することが必要なのではないだろうか。具体的には、改稿しているのだから、単行本化されたものは電子書籍などにまとめて公開を終了するなどの処置が、である。 5、批評を金にするために このようにあくまで二次言説である批評・研究によって金銭を得ることの価値はきわめて難しいのが現状がある。こういった批評や言論空間自体は、アンダーグラウンドとして残っていくとは思うが、それが経済的な土台を失ってもなお継続的な継承できる形で流通するかどうかは分からない。そもそも作品などコンテンツ自体が同人的な活動空間が広がっていくのと反比例するように経済規模が縮小してきているのが現状であり、コンテンツの消費者ではなく作成者がビジネスの対象になってきている流れにも対応しているといえる。 その中で、批評が存在するとするならば、現在性を保持しつつ、多くの分野を見据えた視野を持ちながら、かつ専門性が保たれた仕事だろう。たとえそれが、一万人を相手にするのではなく数千人の固定客をつけるだけにすぎないのだとしても。そして、夥しい言論が飛び交うインターネット以後の社会の中で、二次言説をどう金銭に結び付け価値を創出していくか。そういった各々の試みと修正が批評、ひいては文学研究の生き残りのために求められているのである。 (注)長年、本田透のエピゴーネンというか文化的な素養やサブカルチャーへの知識はほぼ「しろはた」からの踏襲だった宇野の言説が何故あれだけ売れたのか考えていたのだが、あれはつまるところ、ゼロ年代のサブカルチャーのカタログになっており、それ故に門外漢がそれらを知るきっかけとなったからだ、というのが自分の説である。文学フリマにおいてもそういったカタログのようにベスト10やジャンル映画を紹介する同人誌が多かった記憶がある。
by unuboreda
| 2015-06-21 02:46
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