狂気、というよりもナルシズム - 『乱歩奇譚』 1・2話と江戸川乱歩作品との断絶 |
アニメドラフト会議という企画を友人たちとやっていて、その経過として継続的にアニメレビューを書いていく、かもしれない。(毎週更新はしないよ!)ちなみに二位の『赤髪の白雪姫』は演出効率が良くて素晴らしかったです。
学部の卒業論文は江戸川乱歩『盲獣』で書いていて元々昭和期の探偵小説は専門分野だったしという安易な理由で「乱歩奇譚」を外れ一位に選んだ。オリジナル作品のが論考の材料になりやすいし、アニメに対する背景知識のなさ故の後ろめたさもこの作品に限っていえばほとんどないだろうという超打算的な理由がそこにはあった訳だ。しかしながら、二話まで視聴した時点で、この打算は脆くも崩れかかろうとしている。…正直、これで数十枚書くほどの愛着もないし、その計画が立てられる作品にはどうしても見えなかったからだ。
文系院生の物笑いの種でしかなかった「文豪ストレイドッグス」に比べれば、幾分か江戸川乱歩作品を読んでモチーフと踏襲したであろう痕は窺える。小林少年の造形は、狂気の犯罪者とその所業の理解者としての明智小五郎の姿を模倣した跡がある。同性愛の対象としての魔性の少年というのも乱歩のいくつかの作品に見受けられる要素ではあるし、犯人の造形も原典にした「人間椅子」の偏愛も踏襲してはいる。推理小説としての稚雑さにしても、乱歩作品の幻想怪奇の側面のみに焦点を絞り、狂気や怪奇趣味を描くことを主眼としているならまぁ目を瞑れないこともないかと思う。(というか、私には初期以外本格推理小説についての記憶がほとんどない。)
しかしながら、この作品における狂気の描き方は、映像作品のそれに全くそぐわないだけでなく、ある点において乱歩のそれとは全く異なっているように自分には思えてならないのだ。
乱歩の作品の根底にあるのは、狂気自身、というよりは他の作品が持っていた狂気に対する憧憬だろう。
例えば、代表作の「パノラマ島奇譚」にせよ谷崎潤一郎の「金色の死」の模倣であり、だからこそ双子(分身)のモチーフが作品に登場するといえる。そして、主人公がオリジナルでないことを見抜いてしまう女性の身体が、彼の創作であるパノラマに刻印されることが複製芸術でしかない作品の自己言及となっているのである。
そもそも、ポーの名前をもじったペン・ネームにそういった意識が窺えるが、だからこそ人一倍狂気、不可解なオリジナルに対しての憧憬が強い作家だったと自分は乱歩を捉えている。そして、それ故に「押絵と旅する男」や「鏡地獄」のような狂気や怪奇を覗く、という形態の小説を多く遺した作家なのではないだろうか。(勿論、「蟲」のような独白を用いて成功した作品もあるのだけれど)
小説において狂気とは語られる対象である。「鏡地獄」の最後の合わせ鏡の地獄のように、その本質に不可解な語り得ないものが残るからこそ、私達は惹かれるのだ。完全に理解できる狂気など、陳腐なナンセンスに成り下がるだろう。・・・そう、『乱歩奇譚』の二話は、その愚を犯してしまっているのだ。
一話からその傾向はあった。「かまいたちの夜」を髣髴とさせるシルエットによって小林少年の主観が描かれるが、それはあくまでも小林少年の狂気を演出するためのものである。そして、「事件」=「犯人の狂気」は全く分からないまま、小林少年の内面の狂気がクローズアップされていく。それがキャラクターの紹介を主題としたアニメーションの一話だということを差し引いても、それは私にはバランスを欠いた演出にしか見えなかった。私達はジャパニメーションきってのビジュアリスト、中村亮介の『魍魎の匣』を思い出すべきだろう。
そして、そのバランスの悪さは二話において決定的なものとなる。慌ただしい推理の中で描かれるのは、小林少年の狂気というよりはナルシズムだが、その彼は犯人を卑下するかのようにすべてを説明してしまうのだ。殺人の方法だけでなく、その動機までをも台詞によって。このことによって、狂気は完全にナンセンスなナルシズムへと堕してしまったように自分には見えたのだ。
自身を特別だと考える幼稚なナルシズムによって狂気は描けない。自身への猜疑、或いは自身には理解できない憧憬によってのみ、それは描かれるものであるはずだ。そして、『乱歩奇譚』によって描かれる狂気は、その猜疑のない脚本家と演出家によって理解可能なものとして類型化され、陳腐化されているのである。小林少年の推理通りに動機を告白していく犯人の姿からは、そういった作品の製作者たちの単眼的な意識が垣間見えるばかりでなく、台詞で説明したことをわざわざ台詞で再演する映像への嗅覚のなさが露呈してしまっている。多分彼らは、このまま皮相的な狂人コンテストにすべての話数を費やすだけなのではないだろうか。
・・・というわけでして、『UN-GO』のファンには悪いけど、二話の時点でもう切りたいッス・・・。もう見たくないッス・・・。こんだけ書いたし許してください・・・。僕『ゴッドイーター』観たいよ・・・。って気持ちで今胸が一杯です。
コアな題材を分かり易く見せることに長けている監督&脚本家コンビですが、今作ではそこが良くも悪くも浮き彫りになってしまっているかなという感じです。
もういっそ『UN-GO』そのものを観ればビッツさんの今作への不満がだいたい解決するのでは、と思ってしまったり・・・w
もういっそ『うーさーのその日暮らし』をドラフトでとっておけば、位思っているのですが、『UN-GO』を観ているか観ていないかで随分評価がわかれている節があるのは確かですよね。(特に一話)
しかし、『楽園追放 -Expelled from Paradise-』において虚淵玄の言語的なあまり映画には向いてないだろう脚本(特に中盤)を映像作品として落としこむために、きっちり「運動」を取り入れる演出を施していた水島精二と、ボアズ・イェーキン『SAFE』を絶賛していた會川昇のコンビの作品と、言語が先行しそこに映像が付随しているようにしか見えない『乱歩奇譚』とではレベルが違うのではないか、という疑念が拭えないのも確かで。言語的にせよ『Charlotte』のがリズムも空間演出もいいしなぁ…と思ったり。(一話しか観てませんが)
絵樟さんの言う通り、ここまで言うのであれば『UN-GO』観るべきなのですよねぇ。ホント久しぶりに週間でアニメを観る生活に慣れたら手に取ろうかと思いますです。