胸糞悪いこの世界の片隅で - 山田雅史『コープスパーティー』 |
正直、隣の『進撃の巨人』という、贔屓目に見ても欠点の方が多く目につく作品に対して5つ星をつける人間さえいることに呆れもしますが、怒り自体は湧きません。それはいい。別に金もらって褒めるのも、彼らの仕事ですから。(一言だけ書くなら、あの男女の差がよくも悪くもほとんど描かれない作品を原作にして、よくもまぁあれだけ女性を差別的に愚かな人物として描けたな、と。もう少しオタク達はぶちぎれていいというかぶちぎれるべきだよあの脚本に。)
だがね、その返す刀で、山田雅史『コープスパーティー』に対して単館系の低予算のホラーだとろくに観もせず理解もせず、最初からゲーム原作と偏見で曇った目でクソみたいな駄文を垂れ流していることにどうして怒りを覚えないでいられようか。多少は信用していたモルモット吉田までこれかと思ったが、それでもまだ画面から内容を追ってはいるだけマシで、メディアミックスだから知らないしー、という無知と偏見を垂れ流している上島春彦と北川れい子の文章は、あまりのことに絶対忘れないと思ってキネマ旬報を購入してしまったよ。
目が潰れた害悪でしかない評論家共に映画が明け渡されてたまるかっての。
胸糞悪いこの世界の片隅で - 山田雅史『コープスパーティー』
現在のJホラーの流行
日本文学研究者の久米依子がナイトメア叢書の記事で、Jホラーは、ハリウッドに進出する際に、幽霊と呪いの中心を、女性(母親)から子供へとズラしていったと指摘している。久米依子はそれをハリウッド進出故の一般化された結果としてアメリカのホラーの系統と結びつけていたが、現在から見ればそれはむしろJホラーの大手作家達の意識の変化と読むべきだろう。現在、六人に一人は貧困であり、両親の扶養義務さえ果たされず、教育への費用もかけられない子供への虐待とも思える待遇が、Jホラーの主題を女性から子供へと移行させたといえるかもしれない。というよりも、親が不在の子供、という主題は昨今の日本の創作において大きな主題となっているのである。(注)
しかしながら、そういった恐るべき子供、の系譜の作品には二点問題があった。一つは、描いている作品のどれもこれもが全くといっていいほど怖くないのである。例えば、この流れの作品としては、中田秀夫『クロユリ団地』を挙げられるが、あのミノル君が出てくる後半部は全く怖くないため、失敗作ではないかと最初は疑った。『呪怨』シリーズにしても、落合正幸 『呪怨 終わりのはじまり』は傑作だと思ったが、俊雄が中心に添えられた『呪怨 FINAL』は全く蛇足としか思えない出来だった。子供の社会化されていないが故の不気味さと社会から抑圧され潰された幽霊のそれとは、大きな隔たりがあるからなのか、うまく接合された作品が出てこなかったのである。
もう一点、これも先の問題に関連するが、子供の幽霊に対して、観客が全く感情移入が出来ない場合が多いのだ。英勉『貞子3D2』は母親に捨てられた主人公のトラウマと重ね合わせることでドラマツルギーを展開していたものの、『クロユリ団地』にせよ落合版『呪怨』シリーズにせよ子役が可哀想だとはどうしても思えないまま、ただただ悪意を振りまく理解不能なガキの活躍を見せられることになる。ビジュアルから生前美しかったことが予想され男性社会への怨みを匂わせることができる女性の幽霊と違って、恐怖にせよ情感にせよ、「恐るべき子供たち」に感情を大きく動かされることはなかったのが、正直な感想だった。
しかし、これらの条件をクリアしつつ「恐るべき子供達」を描き、、より大きな主題へと接続を果たした作品が登場した。それが『コープスパーティー』だったのである。
赤い幼女という象徴
冒頭こそ、そういった素振りは微塵も見せない。設定の説明や人物の状況は、デジタル場面の貧相極まるものだろう。そして儀式の後展開されるホラー描写にせよ、武器を持った殺人鬼のゾンビに攻撃されるという、一見すれば安っぽいものである。
しかしながら、その殺人鬼に殺された子供達の幽霊が登場人物たちを脅かすにつれてこの映画の軸が「恐るべき子供たち」にあることが明かされていくことになる。そして、この学校を支配する悪霊が明らかにされた時、私たちはこの映画の真の主題に気づくことになるだろう。そう、それは・・・黒沢清『叫』のように赤い服を着た幼い少女なのだ。
この映画は「恐るべき子供達」を描くために、黒沢清の、虐げられたものの世界への呪詛を象徴する、概念としての怨霊を持ち出しているのである。だからこそ、彼女は『CURE』の萩原聖人がそうであったように、自分のテリトリーに入った人物達の悪意を増幅させ、いがみ合わせ、そして一人一人殺していくのだ。ある悪意によって殺された自身の母親のために。
概念ではなく実体としての、クソ素晴らしいこの世界
この映画の演出の方法論は、全く黒沢清のそれとは似ても似付かない。黒沢清が静謐にショットを重ねていくのに対して、この映画のそれは、ゴア描写を中心に即物的なショットを重ねていくものである。しかし、だからこそ、黒沢清のそれがあくまで概念でしかなかった世界への呪詛が、実態を伴った具体的な憎悪として描き出すことが出来ているように自分には見える。そして、それによって卑しい人間達が傷つけあい、独り独り生き絶えていく描写の数々が、昨今のJホラーの隠された主題を明確に浮かび上がらせている。
この映画の悪意の根源であり連続児童殺人事件の犯人であったサチ子という少女の動機はこういったものだ。小学校の校長に性行為を強要されたことがきっかけで、教師であった母親は階段から落ちてしんでしまう。それを見ていたサチ子は口封じで校長に殺され、学校の地下に隠される。その後、死んだサチ子の声を夢の中で毎晩聞いた校長は、それを苦にし、用務員に彼女の下をハサミで切り取らせることになる。サチ子はそれによって怨霊と化し、自分と同じように、児童二人の舌をハサミで切り落とし、その後も儀式を行った人々へ悪意を振りまいていく。
この彼女の動機は、父権によって抑圧された結果殺された母子の呪いであり、『呪怨』のそれと同じようなものだ。そして、怨霊となった彼女の行為は、至ってシンプルに説明できる。児童二人の殺害は、自分と同じ目に合わずにのうのうと生きていることが許せなかったからであり、それ以降の人々に対しても、母親と同じように理不尽な目に合って死んでほしい、という願い故の行動である。はじめて殺される人物が先生なのも、それはサチ子にとって最も生きていることが許せない人物だからだといえよう。
これは『叫』の赤い女の「叫」に近い論理が働いていると定義できるが、ただし両者は大きく次元が異なる。前者は、世界全体に対する怨みであるに対して、後者はよくも悪くも人間らしい幼い論理から直接的に弱い人間から殺していっている。その結果どうなるか。本来彼女とその母親を抑圧した上層の人間への復讐など果たされることなく、悪意によって下層の人間が殺し合うことになるのだ。
本来子供たちを救済したかもしれない先生が最初に殺され、サチ子に殺された二人の子供が、自身に手をさしのべた最初の女性を殺す理由は、ここにある。
そう、悪意をもって抑圧された人間達は、自身の傷や欲望によって連帯できない。その結果、権威(それは建物に象徴される)は保持されたまま、下位層の人間が傷つけあい、その結果として悪意が増殖していくことになるのだ。そして、それこそが、現代の社会の縮図ではないだろうか。(エンドロール後の映像は、つまるところ悪意が増殖したことを示唆している)
この弱者同士がいがみあい傷つけあう世界観、上層部の人間が決して傷つかない社会の構造は、所謂クローズドサークルが繰り返し描かれる背景であり、『クロユリ団地』が描こうとして失敗したことであり、内藤瑛亮『高速ばぁば』が老婆とアイドルという消耗される若者との戦いの中で描いていた主題である。そして、この現在の社会のどうしようもない現状を、『コープスパーティー』はほぼ完璧な形で表象しているように自分には見えた。そしてそれは、黒沢清の正確で静謐な描写では、絶対に到達できない類のものだ。
少なくともサチ子の造形と子供達を使った恐怖描写だけでも、この映画は歴史に残すべき代物だ。予算の低さ故の画面の貧しさから論難される映画でもなければ、よく考えも画面も見ずにゲームだとバカにしていい代物では断じてない。
(注)女性と社会の関係については、ガールズムービーを取り入れて描写された作品が出てきており、それもまた女性を怪物として一面的に描くことを回避しているといえる。安里麻里『劇場版零』、吉川久岳『ひ・き・こ降臨』の二作品を参照のこと。