中田秀夫『劇場霊』は何故失敗したのか - 近年のJホラーと「女性性」について(前編) |
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2015年 11月 23日
あまりにひどい出来に乾いた笑いを浮かべるしかなかったと、苦虫を噛み潰したかのような顔で言わざるをえないほど、『劇場霊』は悲惨な出来だった。 ただ厄介なことにこの無様な人形劇は、近年のJホラーの傾向を取り入れつつ、明確にある種の新しさを志向したが故にできた作品なのだ。それが技術的な稚雑さと論理の不徹底によってズタズタにされていることに憤りを感じるし、結果として秋元康が近年のJホラーの達成をかすめ取ってドブに捨てたという事実に「悲劇は繰り返される」という言葉が頭に思い浮かんでしまう。 こんなものを観るのであれば三池崇史『喰女』と安里麻里『劇場版零』を観てくれ、ということをいいたいがために、私は大きく三者に共通する主題、Jホラーの現在の傾向と「女性性」について長々と書き残しておくことにする。 注意書き ・小中千昭『邪願霊』、三池崇史『喰女』のネタバレを含むというか、『喰女』の部分だけで2000字ほどあります。正直、後編をかけるかもよくわからないのですが、1つ言えることは、長々と書いてはいるけれども『劇場霊』は吃驚するほど駄作だったということです。 ・後、もしかしたら後で消すかもしれないッス。 Jホラーと怪奇映画 日本のホラーは、デジタルビデオとその指標記号としての画面に寄りかかったJホラーと、古典的な怪奇映画(怪談)の二分に大別できる、とひとまず定義することからこの話を始めたい。 前者は実在するかしないかが曖昧な幽霊と代替可能性にさらされた人間とのドラマである。大抵理不尽な出来事によって恨みを抱きつつ死んだ幽霊が「無差別に」テリトリーに入った人間を殺戮していく。その幽霊の存在は現代人の偶有性とメディアの不確かさ、そしてそれ故の主観の幻想化に支えられているといえる。 それに対して、後者は特殊な磁場に現れた怪物と対峙することで人間存在の矮小さが突きつけられるドラマである、と定義できるだろう。怪物は超越論的な審級であり、それを対峙した人間は破滅するにせよ打ち勝つにせよ、自身の醜さや弱さを突きつけられることになる。そして、その超越者たる怪物は、非日常的空間において立ち現れてくる。 この両者は、一見するとホラーというジャンルの隣接したものに見えるが、本質的には全く正反対の性質を有している。基本的には日常空間によって物語は展開されるJホラーは、都市部の人間の孤独と不安を表象するモダンホラーのバリエーションである。ビデオカメラや監視カメラという媒体がフィルムが持つ神話性、非日常性を隠蔽していく。そして、そのような貧相なカメラに映る怪物とは、登場人物の影であることが多い。一方、怪奇映画は非日常的空間を志向するが故に、フィルムとの親和性と非日常性を求めていく。人工的に装飾された、神殿のようでさえある空間から立ち現れる怪物とは、反転した神であるといえ、それは当然、ゴシックホラーの系譜に連なる作品群である。 この両者は、前者は映画性を隠蔽し、後者は映画性を強調するという特質を持っているという点で相反する存在なのだが、結果としてその相反がホラー映画の作家達にある葛藤を抱えさせることになる。つまり、映画的非日常を描くためには怪奇映画を撮るべきなのに、映画的非日常を排除した上で成立するJホラーが商業的に要請されているという矛盾を、日本の恐怖映画は抱えていたのだ。 特に高橋洋と黒沢清などのJホラー第1世代にとって、この矛盾は耐え難いものであったに違いない。だからこそ、彼らの作品群のそこかしこに怪奇映画への志向と偏愛が織り込まれている。中村義洋や白石晃士といったビデオホラーの世代に怪奇映画への偏愛は見られないのだが、海外でもトビー・フーパーが代表的なようにモダンホラー(『悪魔のいけにえ』)からキャリアをスタートさせつつ、怪奇映画(『ファンハウス 惨劇の館』)へと自身の作品を変奏させる作家は少なくないのだ。 そして、中田秀夫もそういった志向を持った作家だったことは、『怪談』や『クロユリ団地』のラストなどを観れば分かることだろう。そういった作家が、劇場という非日常空間を舞台にするということは、つまるところ怪奇映画を撮るということに他ならない。その結果、要請されたのが「女性性」が仮託された人形、つまりガノノイドだったのである。 三宅隆太のもくろみ 『劇場霊』の大まかな枠組みは以下のようなものだ。劇団という閉鎖的なコミュニティーの中で、呪いの人形に次々と女性が殺されていく。その中で、自身が主役になりたいという劇団員の確執や欲望が折り重なりながら、舞台初日の劇場という非日常での惨劇へと繋がっていく。 この映画において、何故人形が怪物なのか。それは、人形はJホラーの幽霊が持つ同一性と怪奇映画の怪物が持つ他者性の両方を具有できるからといえるだろう。『劇場霊』の人形は、怪物として劇場の中央に君臨しつつ、女性の理想や欲望を象徴的に表す分身として機能しているのである。 永遠の美を求めて、若い女を殺していくエリザベートの劇中劇はそういった要素を引き立たせる。「あなたに成り代わりたい」という演劇の台詞は、代わりは誰でもいる存在から、唯一無二の主役になりたい、という劇団員の欲望を表しており、エリザベートの欲望の象徴である人形は、「女性性」が仮託された存在だと定義できるのである。そういった現代人における自己同一性の混濁を、虚実が入り交じり、常に演者と役柄が錯綜している演劇という非日常に重ね合わせ、幻想化して描く。それが脚本を手がけた三宅隆太のもくろみだったのではないか。そして三宅の頭にあったのは、Jホラーの、その起源だったのではないだろうか。ここで、話を巡る前にJホラーの起源と「女性性」について、少し遠回りになるが言及しておこう。そのために高橋洋ではなく、もう一人のJホラーの始祖、小中千昭の名を挙げたい。 『呪願霊』への原点回帰 Jホラーの起源は、ビデオホラーである『呪願霊』であるとされる。「もっともらしさ」を追求し、劇映画と峻別するために、フェイクドキュメンタリーの形式が取られたという点についての指摘は多く為されているが、私が問題にしたいのは、もう1つの側面、人物の配置とそこに込められた社会的な隠喩についてである。 男性社会の中で抑圧された女性のイコンとして幽霊と、その表裏一体の男性社会でもてはやされる「女性性」の象徴としてのアイドルとが対比されている、という『邪願霊』の人物構造は、多くのJホラーの母胎となっている。 『邪願霊』という作品はアイドルを追うドキュメンタリーという形式を装っている。冒頭、アイドルのレコーディング風景が描かれ、その曲に関係する人々のインタビューという形式の映像が続いていく。その中で、作曲家についてのみ、誰もがみな口を噤んでしまう。スタッフが疑問を持つ中、その映像の中でノイズのように白い女性の姿がフレームの端などに映り込むようになっていく。(カメラはまるで幽霊と共犯であるかのように、カメラはそれをわざわざクローズアップなどで強調する。)レポーターはカメラに映る白い女性と作曲者について調査をしていくことになるが、その中でアイドルが歌う曲の作曲家は数年前に死んでいること、アイドルのプロデューサーと肉体関係にあったことなどが明らかになっていく。 この小中千昭が書いたプロットは、芸能界という男性社会の中で生きる女性性の暗部の象徴として幽霊を描いている。この幽霊の背景にあるのは、アイドルの枕営業といった性的な搾取であることは明白であり、その点において幽霊は、アイドル自身の抑圧された無意識であると解釈することもできるだろう。フレームの外枠から異物として侵入してくる幽霊、憎悪に晒されるヒロインと幽霊の鏡像関係、カメラと被写体である幽霊の共犯関係とも呼べる関係性、といったJホラーのモチーフがそこかしこに散見されつつ、今まで隠蔽されてきた「女性性」の憎悪が画面を覆い尽くしていく様が刻印される。これこそが、高橋洋が抑圧したJホラーの起源なのだ。 『劇場霊』にこの『邪願霊』への回帰が読みとれるのは明らかだろう。しがない役者である主人公は、事務所からグラビアなど性を売り物にすることを勧められ、演劇の監督からは枕を持ちかけられる。自らの「性」と自己同一性とを交換するか、という主題は、現代のアイドルが置かれている現状と重なり合うこととなる。 ただし、『邪願霊』では、ただ単に男性に消費、或いは抑圧されるモノとしての「女性性」が強調されていたが、現代の作品では女性自身が求めるものとして意味が書き加えられている点は留意しておきたい。だからこそ、理想の性として「女性性」が人工物と共に描かれているといえるのだが、この女性と「女性性」にまつわる映画が、『喰女』と『劇場版 零』だったのである。 水、現実と虚構、そして義体 ー 『喰女』における押井守などアニメーションの影響 三池崇史という、明確に現代日本を代表する映画作家でありながら、どこかそういうことをはばかってしまう何かを含有している存在を語ることは難しい。特にごく最近のフィルモグラフィーは、どこか日本映画の娯楽映画のカウンターパンチャーとして立ち回ろうとしつつ、そもそもそのカウンターに成りうる強度を作品が持っていないものが多かった。 『自殺サークル』、『冷たい熱帯魚』をはじめとした暴力的な演出に意味を見いだそうとする園子温作品の常連キャストに対して、ただの理不尽で純粋な暴力として伊藤英明を配した『悪の教典』は誉められた出来ではなかったし、顔面を中心に画面を構成しつつ、それらが非情な世界に潰されていく『アウトレイジ ビヨンド』に対して、非情な世界に対しても叙事や人情を貫き通す男を描いた『藁の楯』もまた、Vシネマ時代の『DOA2 逃亡者』の出来の悪いリメイクとしか言えない代物でしかなかった。自分が観た中で唯一、成功と呼べるのは、自身の作品の失敗をすべて戯画化したような『土竜の唄 潜入捜査官 REIJI 』のみだったと記憶している。 三池崇史は、常に日本の娯楽映画のカウンターパンチャーであり続ける、という姿勢を通底していた。そして、それ故か他の作家への影響や目配せがそこかしこに見える作品が多い。日本を代表する作家、というラベルを彼につけることに、私たちがいささかためらいを持つのも、そういった印象からかもしれない。 『喰女』も、そのような目配せに満ちた作品だ。それは、先の怪奇映画への回帰の傾向に連なるという点もそうだが、アニメーションの影響を強く受けたホラー、という点に三池の存外な視野の広さを見ることができるといえる。 そもそも、四谷怪談というモチーフ自体がそういった系譜を意識せざるをえないものだ。小中千昭がテレビで脚本を書いた『怪』は四谷怪談を映像化したものであり、その作品の肝は虚構と現実が融和するところに恐怖を覚えるところにある、と小中自身が述べている。また、アニメーションのモチーフを積極的に取り入れてきた白石晃士の『コワすぎ!』シリーズが先に四谷怪談を取り上げているように、四谷怪談は虚構と現実、というテーマ故か、アニメーションと親和性がある映画なのである。 市川海老蔵という、伝統に裏打ちされたオーバーアクトを披露する難物に目を奪われがちだが、『喰女』の演出はアニメーションの影響が色濃いように見える。人形(少女の絵)、水のイメージを反復して画面に提示しつつ、舞台を映画に落とし込みながら、虚構が現実を浸食していく様を描き出す。そのような『喰女』の演出が念頭に置いていたのは押井守のそれであることは明らかだろう。ただ違うのは、劇と現実が混同していく展開していく展開の中で、男性と女性の対立が描かれていくという点である。 冒頭で老いと寂しさを強調した主人公である舞台女優は、舞台俳優としては格下の男と恋愛関係でありながら、その男が若い女に浮気をし、心が離れていくことに心を痛めている。そして、子供が欲しいという願望が、舞台で使われる人形によって象徴的に表象される。その上で想像妊娠で子供がいると思いこんだ女優が、自身の子供を鳥だそうと下腹部を傷つける場面が、中盤のクライマックスとして配置されている。 即物的な演出が持つ力を信じる三池崇史の面目躍如といったところだが、問題とすべきは、この場面から現実と虚構の境界が曖昧になっており、画面に醜く映される「女性性」が、その即物的な演出に関わらず、現実なのか虚構なのか分からなくなる点だろう。子供が欲しい、という願望が人形という虚構に仮託されているのもそうだが、『喰女』では女性の老いや恨みといった暗部が描かれるにも関わらず、海老蔵の主観への焦点化が中盤で為されることによって、その「女性性」の怪物が、男性視点によるのか、女性自身によるのかが判別できなくなる構成になっているのである。そして、劇に現実の愛憎が折り重なっていき、虚実が混じり合う中で最後に海老蔵は恨みによって殺されることとなる。 そして、見るべきはラストシーンにおける舞台裏の鏡台に座る柴崎コウの、その中性的な凛々しさを持つ美しさだろう。「男性性」のいやらしさを体現したような伊藤英明をいなしつつ、足下に海老蔵の首を転がして、屈託なく笑う柴崎コウの顔には、冒頭で描かれた老いは微塵も刻まれていない。 鏡台、男女の会話、これからを思い描く女性・・・。私たちがここで思い出すべきなのは、押井守の最も代表的な作品である『攻殻機動隊』のラストの、草薙素子の姿だ。ここでの柴崎コウの中性的な身体は、虚構性を纏った謂わば義体のそれなのである。というよりも、女性の老いや醜さを男性性が見た虚構だと捉えるならば、むしろそれは男性性が見る「女性性」という虚構から解放された新しい女性の身体というべきものかもしれない。現実と虚構の混濁によって、自身の「女性性」が与えられた虚構であることを自覚し、それを男性と共に棄却した女性を描いた『喰女』は、Jホラーの文脈と歴史をふまえつつ、女性表象という点で全く新しい更新を果たしていたといえる作品だった。そこでは、女性と「女性性」が分けられ、後者が人形に仮託されていることが大きな特徴であったといえよう。 このように、女性の恨みを描くというJホラーの主題は、女性自身が「女性性」とそこに付随する恨みと向き合うという重層的なものへと変奏してきているといえる。そして、その変奏にもっとも意識的な作家が、Jホラーの異端者、安里麻里その人だったのである。
by unuboreda
| 2015-11-23 01:47
| 映画 な・は行
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