時代閉塞の鏡像 - 三池崇史 『テラフォーマーズ』 |
鏡像としての敵 - ジョン・カーペンター『ゴースト・オブ・マーズ』との類似
社会の爪弾き者どもが、火星の砂嵐の中で、原始人のような原住民と死闘を繰り広げていく。そのようなこの映画のプロットは、キネマ旬報で八幡薫が指摘していたように、ジョン・カーペンター『ゴーストオブマーズ』を彷彿とさせるだろう。事実その期待に違わず『テラフォーマーズ』では、雑な説明の後、 「嵐」として「敵」が到来し、カーペンター映画さながらの人間とゴキブリとの無為な消耗戦が繰り広げられていくこととなる。そして、『ゴーストオブマーズ』において敵と味方の区別が曖昧であったように、『テラフォーマーズ』でもまた、ゴキブリと人間とを「クソ虫」として同一性を持つものとして描いているといえるのである。しかも、その強調ぶりが原作よりも強固な点に特徴があるといえる。
ゴッド・リーやラストの台詞、或いは宇宙船とテラフォーマーの卵との形状の類似など例はいくらでも挙げられるが、人間とゴキブリはまるで鏡像関係にあるといってもよい位、共通性を持つ存在として描かれている。それは当然、引用作品がそうだったから、といえば済む話であるのかもしれない。ただ自分には、『ゴーストオブマーズ』の物語が、合成された人工的な舞台の中でのCGIの怪物群との戦いという形式に置き換えられることで、ある種の批評性が生まれていたように見えたのだ。
3D空間という密室
元来、CGIは記号的な表現であり、アニメや実写などの区別を問わず、CGIと生身の身体は対比的に用いられることが多かった。ジェームズ・キャメロン『アバター』とジョセフ・コジンスキー『トロン・レガシー』はそのネガとポジであるといえるのだが、この映画を観ているそれは後者の感覚いn似通っていたのだ。というより、スティーブン・リズバーガー『トロン』のような人工的な空間の息苦しさがこの映画の全編を覆っているといってもいいかもしれない。画面の後景にある広がりのない世界は、貧しく、それ故に密室にいるような錯覚にさえ陥るが、その中で日本政府の愚かな計画のために、延々と湧いてくるCGIの生物と戦いが描かれていくのである。社会は自分を人間として扱ってはくれなかったと呪詛を吐きながら、登場人物達はその命をむなしく散らしていく。その様に、半笑いで観ていたはずの自分は、いつしか画面に釘付けになっていた。これこそが、日本の時代閉塞の現状を表しているのではないだろうか。そう思えて仕方がなかったからだ。
日本という密室と権力
その証拠に、原作との相違点においてもまた、「日本」が強調されている。原作は、ゴキブリ退治をする軍隊は多国籍軍であり、それ故に各国の思惑が錯綜する政治劇としての側面があった。事実それ故に、作者の人種的な偏見や政治観が露呈している作品なのだが、本作ではそのテラフォーミング計画は、日本の極秘任務とされている。その権力の命令によって、軍隊に使えるようにゴキブリを持ち帰ろうとする様が描かれるのだが、当然、その乗車員の持つ意味合いも異なっているのだ。犯罪者ややくざと共に、社会の虫けらとして扱われているのは誰だったのか、思い出して欲しい。それは、移民と貧者、そして上司に逆らった男なのである。ここに、日本の現在的な状況が暗に反映されていることは疑いもないだろう。(その批評性は、山田孝之演じる蛭間に象徴されるだろう。)
さらに、権力の理想として、ゴキブリの軍隊が拙いCGで描かれた後、その実態がコントロール不能であったと失敗に終わるという展開にも、そういった暗喩が込められている。その後、責任の擦り付け合いがはじまる訳だが、責任をとらない愚かで不可視な権力とコントロール不能のテクノロジーとは、一体何を示しているのか。その権力下で、人間として社会から認められず、戦いの中で搾取され命を散らしていく人間達とは、一体誰なのか。
この映画が感動的なのは、そのような日本の現状を映すために、三池が選択した手法である。三池が日本の貧しさを刻印するために用いたのは、今まで日本の娯楽映画がその酷い製作環境の中で見出した、痩せた果実だったのである。
仇花としてのローテク、その結晶としてのアクション
CGIの世界を背景として、合成によってその画面を作る。そのような形式は『キャシャーン』や『GOEMON』を撮った紀里谷和明の作品群の踏襲であることは確かだろう。映画業界に関わる多くの人は、歯牙にもかけない作家だったが、大風呂敷を広げるための弱者の戦術だったそれによって、彼は数少ないハリウッド進出監督になる。その中で見出されたのが、拙いCGIの背景が、スクリーン・プロセスのように機能し、演者のクローズアップを強調するということだった。
顔面映画であったと言っても過言ではない『藁の楯』を撮った三池は、この演出を意識的に取り入れているのではないだろうか。艦内には日本切っての芸達者ばかりが集められ、拙いブルースクリーンの世界の中でも、その演者の顔にかける照明は手を抜かない。故に特殊メイクや照明によって強調されたその顔面は、記号性と代替可能性に対して足掻いていく個人の生命を象徴するのである。(最後の戦いに赴く際の、小池栄子のクローズアップをはじめ、女優がすべからく美しく撮られている。)その点において『藁の楯』よりも北野映画の反証となりえているように見えた。さらに、その中で繰り広げられるアクションシーンでは、『GOEMON』で追求されたCGIの奔放的な広がりに加えて、塩田明彦『どろろ』を彷彿とさせる特撮のスタイルが取り入れられていくことになる。
ハリウッドでは見るべくもないローテクが組み合わされながら、緩急と空間的な広がり、そしてアクションに絶対に必要な間が演出されたクライマックスのアクションシークエンスは、その節々の貧しさ故に、感動的で美しいものに仕上がっている。はじめて火星人と遭遇しヒロインが死ぬ場面が端的に示すように、三池のアクション演出の間にたいする嗅覚が今までより鋭く冴え、CGIと生身の身体との戦いは違和感なく演出されている。 狂ったかと思われることを覚悟して言えば、個々人のアクションシーンを繋ぎ合わせただけで、空間全体の様相と変遷が見えてこないルッソ兄弟『シビルウォー』のそれより、自分はこちらの方が優れているのではないか、とさえ思った。(表面上のテクスチャーの稚拙を考えずに見れば、だが)特撮技術への回帰という点で樋口 真嗣『進撃の巨人』と相似性を見いだせるが、その中で強調されていたのは、原作が持っていた仮面ライダーへの強い憧憬だった。あまりにも日本的な演出によって撮られた密室空間での『ゴースト・オブ・マーズ』。それが行き着く帰着は、クローネンバーグの『ザ・フライ』を彷彿とさせる、虫けらとされてきた改造人間の独白である。僕はその独白に、感情を揺さぶられざるをえなかったのだ。
『テラフォーマーズ』は、確かに貧しい映画だ。だが、その貧しさ故に、日本の現状の鏡像たりえており、その批評性故に『ちはやふる』に比肩する作品なのではないだろうか。ここ最近の三池作品の中で、ダントツのベストでしょう。