アイドルという疑似群衆 - 『ラブライブ!The School Idol Movie』 |
サブカルチャーの論を書く場合、先行する指摘や論を辿っていくことが容易ではないことは前回の参加で痛感していて、それを放棄した上で書いております。(それらを追う気力が今の僕にはありません。)だから、他の人が言っていることと部分的には被っているだろうという前提で読んでください。あくまで、長々とした後出しじゃんけん、ってことで。
あと、『ラブライブ!The School Idol Movie』という正式名称はすべて『劇場版 ラブライブ』という名称で省略させていただきます。ご了承ください。
アイドルという疑似群衆 - 『ラブライブ!The School Idol Movie』
ニューヨークの意味
『映画 けいおん!』において、ロンドンはそれなりに意味のある場所だった。時差故に「過去に戻れる場所」として規定されたその場所で、時計といった回転するものによってモラトリアムの終焉が告げられる。度重なるロケハンによる写実的な再現によって描写されていくその舞台は、「特別な場」という意味を持つだけの説得力とリアリティがあったように見えた。
翻って考えた時、『劇場版 ラブライブ』のニューヨークにどのような意味があるのか、という疑問が当然浮かんでくるだろう。そもそも、あの劇中に描かれた人工的な舞台が果たして本当に「ニューヨーク」なのだろうか、という戸惑いを覚えた人は少なくなかったのではないか。自分は初見の際、リアリティも空間的広がりもない作劇に呆然としたことを覚えている。
その疑惑の発端は、ミュージカルシークエンスにおける戸惑うばかりの空間への無頓着さに起因しているように見える。例えば、『雨に唄えば』をふまえたであろうミュージカルシークエンス。同様に『雨に唄えば』引用した『空の境界 未来福音』のそれが、ヒロインが歩いていく道が空間的に連続していることを演出していたのに対して、この映画のそれはカットごとの空間がバラバラであり、連続性が存在しない。また、ニューヨークでのライブにおいてもまた、CGで描写されたタイムズスクエアビルを背景に少女達が踊っていたと思ったら、突然それが日常的な場で踊る彼女達のカットへと接続されてしまう。キャラクター達がニューヨークにいるという現実感がまるで存在しない上に、ニューヨークが日常と地続きの場所として描写されているのだ。(それは「ニューヨークと秋葉原が似ている」という台詞に象徴されるだろう。)劇中でも語られるように、「現実ではなく夢ではないか」と思うのは、当然といえば当然なのだ。
しかしながら、その「夢」という一字によって「何故ニューヨークなのか」という問いの答えを見るのは早計だろう。別に非日常は「ロンドン」や「イタリア」でも、はたまた食人族が潜む島にも転がっているのだから。或いは、その問いをこう言い換えてもいいのかもしれない。「何故、秋葉原とニューヨークは似ているのだろうか?」と。
その問いを考えるために、「夢」をこのように言い換えることから本論をはじめたい。この映画における「夢」とは、つまるところ「メディア」における「イメージ」のことを指しているのである。
イメージの帝国としての「ニューヨーク」
劇中、彼女達がニューヨークの夜景を眺めるシーンが二回登場する。その場面においてニューヨークは、すべて幾何学的な摩天楼の集合体としてすべてCGIで描写され、それを見つめる彼女達は、それらが放つ光にさらされている。
これらの反復が示すのは、ニューヨークという場がメディアの情報が行き交う「イメージの帝国」として設定されているということだろう。加えて、そこから登場する非実在を疑いかねない現実感のない「イメージ」として「ライブ」が発信されていることに注目すべきなのだ。
このようなタイムズスクエアの描写は、港千尋が現代のメディアと現実世界との関わりとを「ピクチャープラネット」と呼んだ一連の議論をふまえたものであると私は考えている。
街角で見かける大型スクリーン、いわゆる街頭ビジョンが新宿駅東口に現れたのは、一九八〇年代の初めだった。(中略)
それから三十年近く経過した現在、私たちの都市にはさらに大型のスクリーンが氾濫することになった。例えばマンハッタンのタイムズスクエア周辺のビルは、その壁面のほとんどがスクリーンと化している。そこではケーブルテレビ局が建物全体を覆う曲面スクリーンに四六時中ニュースを流しており、広場の反対側では同じように広告が流されている。これだけの大きさになると建物に画面が取り付けられているというより、画面の一部が建物になっていると言ったほうが近いかもしれない。
建築物が映像装置と一体化する現状は、おそらく今日の建築の方向性と矛盾するものではないだろう。設計段階ですでにコンピューター・グラフィックスとして映像化される建築は、紙に描かれていた時代とは大きく異なる様相をしている。ひと頃透明性の高い建築が流行したのもつかの間、複雑な構造計算が可能な高速演算装置のおかげで、新しい建築はますます映像のような自由度をもち、私たちを驚かせる。そこでは二次元と三次元が相互に浸透し合い、ある場合には建物そのものを消し去り、流動する映像体としての構築物として存在する。(中略)
仮にこれを「映像建築」と呼ぶならば、近い未来にはさらに驚くべきことが待っているだろう。現在は孤立している映像建築が相互につながることによって、遠く離れた建築同士が映像を交換したり、あるいは共有することが可能になる。そこには高速道路や自動車も含まれる。宇宙に視点をおけば、それはひとつの巨大映像装置すなわち「ピクチャープラネット」に見えるだろう。広場の群衆を照らすのは、手元の携帯と映像建築の眩しい光である。
港千尋「疑似群衆の時代」(『書物の変 -グーグルベルグの時代』せりか書房、2010年)
港は、メディア上のイメージが現実と同様のリアリティや立体感を持つに至った点や、メディアが小型化した点などをふまえて、メディアのイメージ(虚構)と現実世界とが不可分なものになっている現代の状況を「ピクチャー・プラネット」と呼んでいる。現在の社会において、「現実」はインターネットや画面上と「絶え間ないイメージ交換」を行うによって成立しているというのである。このような「二次元と三次元が相互に浸透し合い」その境界が曖昧になっている場として、ニューヨークは設定されているのでないか。
『劇場版 ラブライブ』の後半部分において描かれているのは、この「イメージ」が現実に浸透していき、それを変容させていく流れであるように見える。「イメージの帝国」から発信された「μ's」というイメージが伝搬し、それによって現実に変化が起こり、ライブという大きな運動へと結実していく。そして、その「ライブ」が新たなイメージを生成していき、新たにアイドルを目指す人を生み出すだろう。それが「イメージ」を主導にした運動だからこそ、その過程で虚実が曖昧になっていくことになる。『劇場版 ラブライブ』は、現代におけるメディアとアイドルの関係性を描いた作品だといえるのだ。
しかし、ここが肝心なのだが、画面に映るアイドルの姿とその本人とが別個であるように、メディアの中の「イメージ」と現実存在とは異なっているはずである。さらにいえば、メディアの中の「イメージ」と、個人が各々に描いている「イメージ」とも又、当然異なるものだろう。この映画において、それらは穂乃果に関するエピソードとセルとCGIの差異やキャラクターの描き方によって表象されているのだが、それによって『劇場版 ラブライブ』は大多数に共有される「アイドル」という「イメージ」の、その問題点を描き出しているように思われる。その描写に考える前に、遡って「アイドルアニメ」の起源についてふれてみたい。
アイドルというデータベース
アニメにおける「アイドル」の流行は、『アイドルマスター』を嚆矢としている。同時期に「初音ミク」が登場していたことも一連の流れとしてとらえることができるのだが、その特質が「CGIによる不完全な身体」にあり、ユーザーが介入し、共有させることで成立した存在であるといったことは、誰かが先に言及していることだろう。
……話が迂回してしまったが、ここで私が問題にしたいのは、この神話体系が、ユーザー優位であるゲームを始祖としていることである。これは現実のアイドルの事象、ひいては『ラブライブ』の一連の騒動を考える上で、重要な示唆を与えているように思える。
この神話体系の「神」である「アイドル」はユーザーの思いや関係性によって神性を得る。そうである以上、「アイドル」とユーザーの関係性は例えば千田洋幸がいうような、相互的なそれではありえない。(注2)「アイドル」とはユーザーが優位に立ち、一方的にイメージを賦与していく不完全な器でなければならないのだ。「アイドル」の「個性」とは、ユーザーが求める「イメージ」に沿ったものでなければならないというテーゼがそこには存在している。
この主従関係は、ゲームという媒体においては何の問題も起こさない。(ゲームのキャラクターは、主人公の分身かその命令に従事する存在なのだから当然といえば当然の話ではある。)「初音ミク」も同様で、作者と作品という関係性の中においては、基本的には作品が作者のイメージを裏切ることは起こらないため、問題になることはない。(それが起こるのは、読者という第三項が必要であるし、その裏切りは大抵、作者の無意識の反映である。)「アイドル」とは、トーマス・ラマールが『アニメマシーン』(名古屋大学出版会、2013年)で論じた「ガノノイド」に近似した概念であり、その不完全さと無個性さは「CGIの身体」によって象徴されているのである。
しかし、これが実在のアイドルや声優に置き換えた時に、不都合な事態が生じることになる。彼女達は、当然、サービスとしてユーザーに媚を売る必要があるが、一方で自分の欲望や固有性を保持した一個の個人である。だからこそ、自身の欲望に沿って、行動することは当然の権利である。しかしながら、その結果、ユーザーの「イメージ」にそぐわない行動を「アイドル」がとった場合、どうなるのか?
それは、皆さんがご存じの通りだろう。その「神性」が取り上げられ、罰が与えられることになるのだ。ジェンダー的に見れば、あまりに過剰で馬鹿馬鹿しすぎる、あまりに日本的な罰が、だ・・・。
厄介なことに「アイドルになる」こと自体が欲望の対象である以上、「アイドル」になろうと主体的に行動する人間は多く存在する。しかし、彼女たちがいざ「アイドル」になってしまえば、そこに主体性など存在しないのである。
自分を殺して、祭り上げられる神となるか。自身の欲望に即して、神の座を降りるか。そういった選択を「アイドル」になった女性は常に強いられることになる。『劇場版 ラブライブ』で描かれているのは、この選択だったのではないだろうか。CGIで描かれる無個性な身体と穂乃果のエピソードは、欲望の象徴としての「アイドル」とそれに対する一人の女性の人生に対応しているのである。
アイドルの無個性な身体とCG
「ラブライブ」のミュージカルシークエンスは、セルアニメが使用されたものと、3DCGによってすべてが制御されたものの2種類に大別できる。タイムズスクエアのライブなど、主にライブシーンでは後者が採用されるのだが、その後者の場面を見ていたときに、ふと違和感を覚えなかっただろうか。あまりに淀みなく手足が動きすぎているのである。
私が見る限り、手の動きなどのダンスの振り付けの動作に、溜めが存在しない。それ故に「機械的」に動いているような印象を与えるものになっているのだ。加えて、ほぼ顔のパーツに差異を見いだせない彼女達は、まるで、人工的なクローンのような印象をこちらに与えてしまう。
これが、CGIという表現の問題ではないことは、他のアイドルアニメから比較すれば明らかだ。例えば、『ラブライブ』の後継作のライブシーンでは、この手足の溜めがある程度再現されており、それ故に「人間的な」踊りを見せるものになっている。またゲームでも、『アイドルマスター』のキャラクターの動作は、人間のそれを模す努力が感じられ、不自然さはそれほど気にならない。そもそも、モーションキャプチャーを使えばいいだけの話なのだから、人体の動きは模写することに、技術的な難易さはそれほどないと思われる。
「イメージの帝国」から発信された「イメージ」である「μ's」のライブ映像は、ネットを通じて全国に拡散し、そこで欲望を喚起するものとして機能する。それが、多くの人間を唆し、結果としてあのCGIの群衆のライブ映像へと繋がることになる。そのCGIでできたキャラクターはほとんど差異のないものであり、疑似群衆というよりもレギオンとでも名付けたくなる代物だが、多くの人々が「アイドル」という概念を信じるということは、つまりそういうことなのだ。そこでは、キャラクター個々人の「個性」や「欲望」が表象されることはない。というより、個々人の「個性」は、その中で抑圧されているといってもいい。だからこそ、穂乃果はそこを脱することを選択するのである。
穂乃果の選択の意味
穂乃花はニューヨークという「イメージの帝国」で自身の未来の姿を幻視する。ここで使われるナンバーのみが過去作品の引用であることは鈴木ピク氏が指摘していたが、彼女が観た幻視はメンバーとは共有されない。あくまで個人同士の対話として、自分がどうしたいかという欲望の再確認が行われていくことに注目すべきだろう。
だが、そういった本人達の意向とは無関係にイメージは拡散していき、共有されていく。その過程で、イメージと実体との祖語は広がっていくことになる。それを端的に示したのが帰国後のナンバーだ。そこではメディアに映る自己を見つめてうかれ、そして困惑するキャラクター達が描かれている。その中で、自己の欲望を見つめ、神の座から降りることを、穂乃果は選択することになる。余談だが、そういった役柄を演じた人間が、ネット上に残留するイメージによって罰せられることになる顛末は、象徴的で、そして、どことなく物哀しい。
メディアと身体の関係性 ー 逆光を用いた演出から。
以上のように、『劇場版 ラブライブ』は「アイドル」というメディアのイメージと個々人の関係を描いた映画だったことを、本論では明らかにした。さて、それを踏まえた上で、冒頭とラストを捉えなおしてみることによって、この長々しい後出しじゃんけんを終えたいと思う。
冒頭、幼児期の穂乃果の全能感が「水溜まりを飛び越す」という動作によって描かれることは、どことなく示唆的ではないだろうか。水溜まり=つまりフレームや鏡を彼女は介することなく、彼女は全能だった。その全能感が、強い逆光の中で描かれることに、この映画のパラドシカルな表現があるように自分には思われてならない。
『劇場版 ラブライブ』では、たびたび強い逆光にキャラクターが照らされる場面が登場する。特に、ニューヨークの幾何学的な摩天楼を見つめるシークエンスでは必ずといっていいほど逆光が演出に取り込まれていた。それが、メディアの光に晒され、それに規定されていく個人を象徴しているように自分には見える。
だからか、自分にはラストの一連の流れが、末恐ろしいものとしか思えなかったのだ。ラスト、影さえ厭わない強い逆光の中、新しいアイドルを目指す少女たちが映される。その後、CGIでできた、空間的に広がりのない「イメージ」としてのアイドル達の歌が披露されるが、まるでそれは、観客の欲望を喚起するためだけに存在する意志のない人形が、こちらに呼びかけているようだ。その歌の後、彼女達の実体が着ていたはずの制服だけがエンドロールで映されて、映画は閉じられる。
(注1)『動物化するポストモダン』(講談社、2001年)
(注2)『ポップカルチャーの思想圏―文学との接続可能性あるいは不可能性』(おうふう、2013年)