醒めながら見る夢 デミアン・チャゼル『ラ・ラ・ランド』 |
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2017年 03月 06日
個人的な職人 デミアン・チャゼルには、ある時期までのティム・バートンが持っていた神性に近い何かがあると、観た時に思った。 もちろん、表面上両者は似ても似つかない。だが、全く以て個人的な物語を語るために、教科書的な演出や引用を行うという点が、瓜二つだと自分は思う。その個人的な物語は、どちらもある種の屈折や傷を抱いた人間にとって切実なもので、彼らの作家性や神性はそこに宿っている。 チャゼルが描こうとしているもの、それは鬱屈と痛みを伴った自分の夢だ。だから映画には、自己の投影か、「父権」と呼ぶべき自己を抑圧してくる他者・社会以外のキャラクターは出てこない。そのスタンスは脚本家時代から一貫している。『ラスト・エクソシズム2』も教会を抑圧する存在として少女と対置させた映画だったし、『グランドピアノ』の犯人も映画のプロデューサーの隠喩だと考えれば、やはり芸術と抑圧との向き合い方を軸にした作品だ。『セッション』は言わずもがなで、『ラ・ラ・ランド』に至ってはヒロインまでに自己を重ね合わせた結果、他者が存在しない映画となっている。映画の引用をあちこちにちりばめながらも、自分の痛みと夢を語ることに良くも悪くも徹する。そうしなければいられないかのように。 ティム・バートンもそうだった。愛犬の死という個人的な出来事を、ホラー映画という夢で乗り越えようとした『フランケンウィニー』からはじまる彼のフィルモグラフィーには、自己の投影と憧憬の対象であるヒロイン、そして抑圧する社会の代表以外の人物はほとんど登場しない。その極地が『バットマン』シリーズだろう。特に『バットマン・リターンズ』は、登場人物のすべてにバートンの孤独と屈折が引き込まれていて、だからこそ心に響く作品だ。あれほど個人的な映画は、アメコミという枠組みの中では出てこないのではないか、とさえ思う。(注1)そのような屈折は、成功し成熟すればそのうちなくなってしまうもので、近年のバートン作品には残り香しか残っていないのだけど、そんな、バートンが喪った若い切実さを、チャゼルが抱えているように自分には見えたのだ。 ただし、バートンが怪奇映画と初期のディズニーにスタイルの源泉をもっていたのに対して、チャゼルのそれはマーティン・スコセッシを中心とした1970年代のアクターズスタジオ全盛のリアリズムだから、印象自体は随分異なる。だから、彼の物語に共感できなくて、かつ俳優の演技に委ねてしまう演出が嫌いな人間にとって、この映画は嫌で嫌で仕方ないのかもしれない。『ラ・ラ・ランド』が抱えているいびつさもここに起因している。ミュージカルの引用も多数ちりばめらた映画ながら、ミュージカルの対極にあるような演技中心主義を軸にした演出に、中には怒り出す人がいても不思議ではない。 そもそも、二人の個人的な映画には物語に共感しえない観客が一定数いて、そういう人たちにとって二人の作品は「駄作」ではないにせよ「傑作」たりえないのかもしれないなと個人的に思う。僕にとってバートンの『ビッグフィッシュ』は人生でもっとも大切な映画の一つだけど、空想癖のない、父親との関係がうまくいっていた人があれを観ても、僕ほどは感動はしないだろうな、とは思うのだ。(注2)それと同じで、チャゼルの映画に対して粗探しする人がいても、あまり反論する気が起きない。技術的にも主題への切実さでも『バードマン』より『セッション』のが優れていると自分は信じて疑わないが、一方で「自分が本物だと信じて疑わない人間に『セッション』は分からないだろう」ということも理解している。だから、技術云々でこの映画を語ることに、意味はあまりないように感じている。 ただ、ただ一点だけ、これだけは強く主張したい。多くの人が批判している前半のミュージカルパートでの顔にかかる照明やブレは、演出ミスなどでは決してないということだ。チャゼルが確信犯でやっていることはラストとの差異からも明白で、主題からすれば、絶対にああすべきだったと僕は信じている。あの逆光にさらされた暗い顔達が、『残穢』のように撮られた無名の人々が、あのシーンとナンバーを特別なものにしているのだから。 誰でもない 私たちの歌 藤井仁子氏はティム・バートン『ビッグフィッシュ』について「コピー世代」の話だと指摘している。父のオリジナリティのある話や嘘を、そういった個性を持たない息子がラストで反復することに意味があるという。その口調はたどたどしく、不全な語り口でしかないが、だからこその感動がある、と。 映画の引用を徹すれば徹するだけ、そういった登場人物の凡庸さが際立っていく。自分はオリジナルではないまがいものであるという主題は、近作でも『ビッグアイズ』では反転した悪夢として描かれていた訳だが、そういった自身への猜疑を、チャゼルも強く意識していた。だからこそ、『セッション』では、あれだけジャズの話をしようとも、その聖典はCDという複製に依っていた。そのテーゼは『ラ・ラ・ランド』のオープニングにも表れている。カーステレオから流れる、無数の音によって最初のナンバーからはじまるのだ。 それだけではない。多くの夢追い人が歌い出すオープニングナンバー「ANOTHER DAY OF SUN」は、強い逆光で人々に影がかけることによって、彼らが無名の群衆であることを強調する。歌詞と踊りが強く太陽を求め叫ぶのとは裏腹に、太陽=光は彼らを祝福してはいないのだ。しかも、わざと被写体深度を浅く撮ることによっては、人の姿はぼかされてしまう。それは二番目のナンバー「SOMEONE IN THE CROWD」でも顕著だ。曲のクライマックスで、ヒロインの疑問を打ち消すように高揚する場を映す際、カメラの高速回転と水飛沫によって人々の踊りはぼやけた、不確かなものとして描かれる。歌う彼らが誰でもない名もなき存在であり、代わりはいくらでもいる存在であることを、カメラが示唆するのだ。思うに、チャゼルは、この二人のサクセスストーリーを描く一方で、「成功しなかった」人々の気持ちや思いをすくい上げようとしたのではないだろうか。だからこそ、前半部に集中しているはずのミュージカルシーンでさえ、1950年以前のそれとは明らかに質感が異なるものにしている。ポール・バーホーベン『ショー・ガール』が持っていた謙虚さを引き継ぎながら、その不完全さ故に、コピー世代の痛みと夢を高らかに歌い上げていく。そこから紡がれる恋人の物語もまた、現実へと醒めながら観る夢なのだ。 ミュージカル史とエイゼンシュテインと 1950年以前のミュージカル映画は、歌とともにダンスといった身体表現を重視し、集団の営為をスペクタクルを以て映してきた。だが、リズムに合わせて、イメージを連鎖させていくMTV的な演出を経たことで身体性は後退し、ミュージカル映画の軸は歌手それ自体に映っていったという歴史がある。だからこそ、現代ミュージカル映画を作る際は有名な歌い手か俳優を中心に組立てられている。彼らが歌によって内面を吐露していくのを、カメラは人物に焦点化して切り出すだろう。ミュージカルは「歌劇」と呼ぶべきものに変化してしまっており、MGMのスペクタクルは『ショー・ガール』で言及されるように過去のものなのだ。 『アナと雪の女王』がディズニーのミュージカルの歴史を踏まえ、社会的規範としての「恋愛」を称揚するナンバーから、『ナイトメアビフォアクリスマス』などティム・バートン作品で歌い上げられた個人の内面への独白へとスライドした(注3)ように、『ラ・ラ・ランド』もまた、ロングテイクとダンスを中心とした世界が段階的にMTV的演出が導入されていく。それによって、二人が恋と夢から現実へと醒めていく様が描かれることとなる。 『理由なき反抗』への目配せした映画館のシーンからその兆候は見て取れる。彼女は映画の世界に入ろうと、映画を遮ってまでセブを探し出す。が、そのフィルムは文字通り「破れてしまう」。そこから二人は、舞台であるグリフィス天文台へと向かい、二人の恋の成り行きが描写されるが、そこは映画的というよりもMTV的なイメージの連鎖として観客に提示される。映像技術の稚雑さを含めて、「映画」を再現しようとしても叶わないのだ。それは、夢を見たとしても醒めざるをえないことにどこか似ている。 だから、夏の章でモンタージュが度々繰り返され、そのたびに二人の距離や体温は、下がっていってしまう。二人の恋愛感情が幻想であることが、MTV的なモンタージュによって殊更強調されていくのだ。二回目の「CITY OF THE STAR」において、二人の断絶は空間によって暗にほのめかされている。(夢を否定していた姉と同じイスに座るエマ・ストーン)『スウィニートッド』のジョニー・デップとヘレナ・ボへム・カーターのように、噛み合わない二人の合唱と共に示されるのは二人のすれ違いである訳だが、そこでも台詞のないモンタージュが用いられている。エイゼンシュテインが当初使ったような、各カットの記号性が明確なモンタージュは、「映画的な」或いは「ミュージカル的な」身体性のもたらすスペクタクルから映画を離していってしまう。そうすることによって、MTV的な世界から「映画」に到達しえない現代への諦観が、「夢」から醒めざるをえない私たちの現実のみじめさに重ねられていく。そこに「夢」で自分の映画を終わらせることのできないチャゼルの強い意志を私は感じたのだ。 その意志は、ラストでさえ徹底されている。奇しくも山戸結希『溺れるナイフ』と同様の構造を持っていた本作だが、唯一違うのは、ラストの「夢」さえもが、モンタージュによる記号性から免れない、醒めざるをえないものとして描かれている点だろう。あくまで「ANOTHER DAY OF SUN」の高揚は一瞬のものでしかない。イメージは記号へと成り代わり、高揚は悲哀へとモンタージュの流れの中で塗りつぶされていく。カップルに憧憬するセブの眼差しが引き起こした幻想は、三度の反復というハリウッドの規則に従ったまがい物の夢でしかなく、12時の時計が示すように永遠に浸ることは許されはしないのだ。だからこそ、一瞬の高揚としての身体の営為が、切実なものとして意味を持つ。ここでの回想が、MTV的なイメージによって汚されつつも、身体的なダンスによって、すべてのミュージカル演出が統合した形で示されている。あの二人の絡み合いによって、ありきたりな知識から出発した「夢」が、個人的な経験として肯定されているのである。 まがいものの歌 『ラ・ラ・ランド』はミュージカルの歴史をたどることで、ハリウッドというデータベースに夢見た私たちの夢と痛みを描いた映画だと自分は捉えている。確かに凡庸な映画なのかもしれないが、自分にとってその描写一つ一つが切実で、ただただ愛しいものだった。 最後に一つだけ。この映画が「歌劇」として描き出すのは、すべての夢を破れた人を肯定しえんとする「THE FOOLS WHO DREAM」での独白である。そこには『キング・オブ・コメディ』のラストのような両義性が横たわっている。その後の展開が夢であるかのような、そんな不穏さと物悲しさと。ラストの展開が、凡庸な二人が夢見たただの幻想であるのではないか、と。 だからこそ、映画は凡庸な二人の別離を描くために、最も凡庸で決定的なカット/カットバックを持ち出したのではないだろうか。 (注1)近年のアメコミ映画で、スコット・デリクソン『ドクター・ストレンジ』が自分にとって特別な存在なのは、デリクソンが常に描いてきた「信仰」の問題が描かれた個人的な映画だからだ。その点でいえば、色々な意味でティム・バートンとサム・ライミは別格という気がする。 (注2)もの凄く悪い訳ではないし、育ててくれたという感謝はしているのだけど、自分は母親似で、性質の違いからなんとはなしに対立することが多かった。例えば、スピルバーグの『戦火の馬』を観て自分が号泣しているのを、「何こいつ泣いてんだ」という顔で見て、その後食卓で何回かからかわれたりとかね。 (注3)オラフというキャラクターの造形自体が、『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のジャックの変奏であるし、雪への固執とエルザの造形は、明らかに『シザーハンズ』を踏まえている。『レ・ミゼラブル』が『スウィニートッド』の男女のズレた合唱を踏まえていたように、20世紀以後のミュージカルを考える上で、1950年代の流れとは別に、ティム・バートンの影響の強さを考えるべきだというのが自分の見解である。
by unuboreda
| 2017-03-06 23:42
| 映画 ら・わ行
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