第三の空虚 ー 是枝裕和『三度目の殺人』 |
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2017年 09月 12日
今回はリード文さえネタバレ前提です。(しかもこれは~の引用、という話ばかりです。)とにかくラストシーンを見てから、読んで下さいな。 悪のカリスマを描く際にどうすればいいか。簡単である。そのキャラクターを「空虚」にすればいい。 何かしらの人格や心情、目的があれば、キャラクターは個としての弱さを抱えこみ、結果、ぼろがでてしまう。空っぽであれば、何にも束縛されずに、相対する信条や人格の「不合理」を突き、瓦解させえる。その空白に、人々が諸々の感情や勝手なイメージを放り込んでくれさえすれば、万華鏡のように怪物の容貌は変化していく。まるで鏡のように・・・。 日本映画の二十年とは、そのような空虚な偶像との戯れの歴史であった。ビデオカメラやセルアニメといった貧しい映像は、普遍的な真実などないことを示唆してしまう。その中で多くのジャンルが、観るものの投影対象としてのキャラクターを描き出していった。ドキュメンタリー、アニメーション、ホラー…。そのどれもが、私たちの主観を投影し、そして瓦解させてしまうような偶像を画面に残してきたのだ。ドキュメンタリー出身の是枝が『三度目の殺人』で目指したのは、そのような虚像による日本の表象と総括ではないだろうか。そこには様々な映画史の痕跡を見てとることができるが、その中心となるのが、空白を抱え込んだ偶像の影である。まるで、それが日本という国を象徴するとでいいたいかのような、空虚自身のコラージュとして、三隅高司という怪物は描かれている。 黒沢清『CURE』という始点 福山雅治演じる弁護士が、殺人犯の来歴を探る内に、感化されていく。この構図に、私たちはどうしても黒沢清『CURE』を想起せずには入られないだろう。個人を瓦解させていく空虚たる「伝道師」に近づいていく内に、それを追うはずだった刑事自身が同化し、そして継承してしまう。その刑事を演じた役所広司が、弁護士が提示してくる物語を次々に解体し、事件を迷宮へと誘っていく。 そこに、「真実など存在しない」とし、世界を主観の折り重なりとして見る「ポストトゥルース」が投影されているのは確かだろう。弁護士など人々が主観から「物語」を織っていくが、そのどれもが真実に到達しえない。象の寓話が象徴するように、世界は一様ではなく、思い思いの光景を人々は夢見ていく。ラストの「器」というセリフに、自己の欲望に沿った「物語」を見る私たちへの批評が込められているのである。 …だが、本当にそれだけの話なのだろうか。 二つ目の空虚 ここで重要なのは、もう一つの空虚の引用である。役所の来歴を、弁護士達が聞き取り調査していくシーンを思い出してほしい。東京の荒涼とした風景を歩き回りながら、コートを来た男二人が犯人の足取りを辿っていく。その軌跡が、まざまざと開発されないまま放置された東京の貧しさを印象づける。 この構図は、西谷弘の諸作品を彷彿とするが、それ以上に押井守『機動警察パトレイバー the Movie』の引用であることは明らかだろう。三隅高司の造形は、『CURE』の伝道師と帆場暎一のキメラなのだ。 帆場暎一が自身の死によって日本の構造上の不備を暴露したように、三隅高司は、自身の殺人の否認によって日本という国の正義なき姿を暴き出していく。食品偽装や忖度といったキーワードを散りばめつつ、イメージに振り回されるだけの寄り合い衆でしかない日本の社会の縮図として裁判所は機能していくのだ。また、そういった映画史への目配せは、山中咲江の造形にも表れている。弁護士の重盛は、咲江を核として真実へ辿り着こうとしていくのだが、その営みはその咲江自身によって瓦解されることになる。それは、赤い少女=ファム・ファタールを追いながらそこへと辿り着けないという押井のお決まりのパターンの反復だろう。そしてここからが重要なのだが、その押井守の主題をなぞることで、神=普遍的な存在の影が、物語に織り込まれていくことになる。 神の視点としての俯瞰 役所が広場で殺人をする場面ではじまった映画は、最初空撮によって東京の景色を映し出していく。その俯瞰によって「神の視点」と呼ぶべきものが印象づけられることに注目したい。その主題が明示されるのが、弁護士達が殺人現場に向かうシーンだろう。二人は焼け痕を見ながら、ガソリンの匂いなどを気にする。すると、その焼け痕が十字になっていることが、俯瞰ショットによって弁護士の視点とは別の形で示されることになる。この十字は三度の反復によって表現されており、二度目は三隅の家を探索するシーンで登場する。重盛は鳥が埋まっている墓を発見する。そこで記された十字を見下ろした彼は、墓を掘り起こすことでその十字を消してしまうのだ。…まるで、神を否定するかのように。 ここから、まるで重盛は神の視点を獲得したいと欲望したかのように、真実を追い求めるようになる。だが、その彼が真実として上から見下ろしたのは、咲江という赤い少女が涙を浮かべる姿だった。涙は自身の娘が虚偽として提示したものであり、少なくとも「真実」ではないことを、彼は知っていたはずだ。俯瞰する神の視点を手に入れることは人間には叶わないのである。 むしろ、真実を探るために咲江と公園で話した場面での、風を感じ、二人で空を見上げた瞬間にこそ、神の存在を感じるべきなのだろう。三隅と咲江は、時折何かを確信したかのように空を見上げ、虚ろな目を輝かせる。そのような彼らに触れていくにつれて、重盛は真実=神という普遍的存在を意識したのではないか。 …そう、この映画において「真実は存在しない」というポストトゥルースの問題に、「神は存在するのか」という普遍的な問いが重ねられているのである。私たちは「三度目の殺人」という題名の意味を今一度噛みしめなければならない。役所自身の殺人が、何故「三度目」とカウントされるのか。それは、どの殺人も、神という第三審級の選別に他ならないからだ。裁判のシークエンスでは時折三隅が俯瞰で見下ろされるカットが挿入される。そして、刑をいい渡された三隅が裁判所を「見上げ」ながら去ることによって、神は映画の中で証明されることとなる。(三度目の十字が、あの殺風景な建物によってもたらされることを思い出したい。) その神は、人間を助けることなく、ただ理不尽に人を選別していく。そのようなこの世の不条理と生の寄る辺なさに対して、映画は意味を見出そうとする弁護士を対峙させる。その生の不条理を、暗澹とした照明による役所のクローズアップに象徴させる映画は、押井守が敬愛したイングマール・ベルイマン『沈黙』へと近接していくだろう。…そう、この映画は、新たな時代の問題と対峙するために、押井守を飛び越してベルイマンの、あのクローズアップに映画のすべてを託すスタイルを継承していくのだ。弁護士と犯人は、まるで『第七の封印』の人間と死神のように、私たちの生きる意味はあるのか、生は何故存在するのかと、答えのない問答を続けていく。そういった問答とクローズアップへの執着が、他のポストトゥルースを描いた映画とは、異なる感触と迫力を『第三の殺人』にもたらしている。 虚実を超えて 弁護士と犯人は、鏡像関係にある。それは重盛の娘と咲江の対応関係からも明らかだ。咲江が話す「真実」が虚偽かもしれないということが、序盤で万引きをした弁護士の娘の涙によって表象される。涙を流すシーンは三度反復され、三度目の決定的な告白を聞いたことで見下ろす視点を獲得したはずの弁護士を、虚偽の迷路へと投げ込む…ように見える。 だが、今一度考えてほしい。冒頭の娘の涙は、果たして本当に虚偽だったのだろうか。虚偽であるならば、あの涙の後、父の姿をじっと見つめる娘のクローズアップを、果たして映画は切り取っただろうか。あのコンビニでの涙は、父へのある種の気持ちの表れとして受け取るべきなのではないか。この映画における人々の所作は、虚偽や真実として腑分けできるものとして描かれているようには見えないのだ。 だから、この映画の主眼はデヴィット・フィンチャー『ゾディアック』のような、真実への非到達性と無力感ではない。そうではなく、普遍と人間との隔絶を踏まえつつ、その中で人はどうあるべきかを考えていく答えのない対話なのだ。弁護士の「物語」が嘘だとこの映画のどこにも明記されていない。彼は役所を追い求めた結果、父としての自己を取り戻すという変化が、中盤に訪れることを見逃してはならないだろう。 鏡像のような二人が対話していく内に、「不条理」と「物語」は重なり合っていき、一つの解釈を生み出していく。それは確かに真実の一面を切り出したにすぎないのかもしれない。だが重要なのは、不条理かもしれない人物を「信じた」、その交感だったのではないか。彼が信じたからこそ、この物語は完遂されたのだ。そう、手と手を合わせた、あの温もりこそが…真実だったのである。例え、それは瞬間に消えてはなくなるものだとしても。 その「物語」は、普遍を追い求め信じ苦悩しなければ、つまり、弁護士が職務を遂行する機械として振る舞えば、到達しえなかった一つの結論であったのではないだろうか。それが自分には、不条理に人を殺していく神への反逆だったように見えたのだ。或いはそれは、他者や普遍を相対化するという名目の元に、自己に埋没し他者と連帯できなくなった私たちの世界への、ささやかな足掻きだったのかもしれない。 終わりに ラストの引用について 映画はラスト、90年代の日本映画を象徴する、あの電線がはりめぐらされた空を弁護士が見上げる場面で閉じられる。神の視点から始まった映画は、それを到達しえない人々の錯綜へと着地していく。映画はここで確信犯的にポストトゥルースのスタート地点に立ち戻っていく。ネットワーク社会を偶像によって表象した深夜アニメ、中村隆太郎『Serial experiments lain』の一場面 を引用することで、虚偽と偶像に彩られた日本映画史をそれこそ「総括」してしまうのだ。 クリント・イーストウッドの『ミスティック・リバー』のような空撮から始まった映画は、もっともハリウッドから遠いスタイルを継承しながら日本社会そのものを描き出す。その着地点は、「問い」が永遠であることを示すともに、この二十年が決して無駄な消費ではなかったことを示しているように思えた。傑作でしょう。
by unuboreda
| 2017-09-12 00:35
| 映画 さ・た行
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