昨日BSでやっていた |
特にチャップリンの『ライムライト』の話を聞いていたらこっちまで泣きそうになってしまったから困ってしまった。
駄目な映画なんて存在しない、という境地は僕には絶対無理だけど、画面をちゃんと見て、拾うところは拾っていければなぁ、とは思う。
スモーキンエース 暗殺者がいっぱい
B級映画のような設定と演出で始りながら、そこから描かれるのは煙が立ち込めるビルの中での、疑心暗鬼と事実誤認から始まる血みどろの争い・・・。
ふざけているように見えながらこの映画が9:11とそれ以後のアメリカの振る舞いを暗喩していることは明白で、例えばそれはホテルの中で暗殺者達のターゲットであるマジシャンのエースが、冒頭のマジシャンとしての彼とは似ても似つかない髭面で出てくるところなどからも伺える。(まるで、ピン・ラディンのように!)
そのエースが彼の裏切りを疑っている側近にたいして言うように「実体はたいしたことない」のに「人は見たいものしか見ない」からこそ、勝手に人が敵を作り、勝手に人が争いをはじめることになる。そういった物語の流れが、イラクへと攻撃を仕掛け国内外を混乱に陥れてしまったアメリカの姿の描写になっているように、自分には見えた。(またこの映画が、50年代のレッドパージなども視野に捉えているだろうことは、マフィアに潜入したFBI捜査官のエピソードが繰り返し語られている点からも伺える。)
そしてラストのどんでん返しによって、現代のアメリカの「空虚」な行いが糾弾されることになるわけなのだが、残念なことにその糾弾に驚きも痛烈さもあまり感じることができなかった。むしろ、ラストを観ながら少し冷めた目で、タランティーノの映画とこの映画とを比べている自分がいた。
中身のない空虚な映画の設定を作って、それを現実に見立てて「空っぽな箱だ」と糾弾するこの映画は、結局のところ現実を糾弾するために設定とキャラクターを使っていて、キャラクターに対する愛着がない。だからこそ、映画を観ているこっちも感情を揺さぶられることがなかった。新しい新しくないという問題よりも、その辺がタランティーノの映画、自分の映画に出てくるどのようなキャラクターにも愛着を持ちすぎていて、時には冗長としか思えないような演出をするタランティーノの映画との最大の差であるように感じる。
どうでもいい内容のダラダラした会話や、数々のB級・娯楽映画のような空虚なものに豊かさを見出したタランティーノの映画を観た後では、この映画で興奮はできなかった。凄く惜しい気がする。