GRAPEVINEが今のロキノンで浮いている理由。そして田中和将のアーティスト神話に対する不信 |
Everymaneverywhereのインタビューの時もスイマーの一節にひたすら固執して、それに田中が内心ではカケラも同意してなさそうな相槌を打つ、という感じで見るとこが何にもなかった。音人が「メジャーとマイナーの中間でどんな音を出せばいいのか分からない」という田中の本音を酒を交えて引き出しているのとは大違いで、(これはメジャーとマイナーの中間、というよりはスピッツやミスチルなどメロディバンドとブランキーやミッシェルなどロックバンドの中間だと思うんだけど、田中はドーンオブザデッドとか例に出してメジャーとマイナーの中間、と言っていた。ここで面白いと思ったのがドーンオブを「エンタメ」と定義していたとこ。田中にとってはメロディ=メジャー=客に媚びる商売でロック=マイナー=作品なのか?と笑ってしまった。)
なんでここまで同じような雑誌で差が出るんかね?と常々疑問に思っていたんだが、格闘技の有名プログの邦楽を聴かなくなった理由みたいな記事を読んで「ああ、なるほど」と疑問が綺麗さっぱり解けた。
ようは「ロックスター」というイメージを作り上げようとする雑誌と、その「ロックスター」というイメージに対してかなり深い不信感を持っている田中とではそりが合わないのは当然、という話。
GRAPEVINEというバンドはシングル「スロウ」でヒット、その後出たアルバム「LIFETIME」で50万枚も売れて人気バンドとなる。(今考えると嘘みたいな話だ・・・)
その直後のシングル「羽根」がヒットしてある程度有名になったことへの疑問・不信の歌を歌い、(結構それっておごがましいテーマだけどね)押し上げてくれたロキノンからいくらロックスターになることを期待されても「ロックスターがいるなら横で笑っていたい」とやんわりと断っていた。やっぱ元々田中はギタリスト志望で、ボーカルになるのが嫌でバンドから逃走した、という初期の時期とたいして心境が変わってないのだろう、多分今でも。(それがいいか悪いかは別として)
その不信の表現はだんだんオブラートがはがれてきて、最後にバンド自体を有名にさせたイメージ「ポストミスチル」(と当時の分類できる、ヒップホップを掲げた改革者・青春の謳歌者などの音楽的キャラクターイメージ達)を自分自身で滅多打ちにしてしまい、リーダーが怪我で脱退という事情と共にバイン自体の人気を急降下させる。ロキノンがそういう批判者・シーンの批判者というイメージをバインに求めていてそれに田中が乗っちゃったんだけど、誰もファンはそんなこと期待してなかった、というわけ。(多分これがアナザースカイ期の状況)
フリジットスター氏の言うキャラクター消費は、日本古来の作品への接し方だろう。なんていったって文学作品からもうその消費の仕方をされていたわけで、(宮沢賢治とか特にそう)「萌え」もキャラクター消費の仕方の一種であり、(これがオタク文化の大衆化を示していたりしてね)マスコミがやたらめったらこのキャラクター消費を指針として出すのはこの消費の仕方が日本人にとってとても親しみのあるものだから、じゃないかと推測している。だから誰かがマスコミが政治をプロレスにしてしまった、と嘆いていたわけだ。アカデミー賞の報道もディカプリオ、というキャラクターに拠って紹介されていたわけだし。
「キャラクターを売る」というやり方、いや最近の邦楽の「アーティスト性を売る」というやり方を意図的に始めたのが椎名林檎ではないか。彼女は「新宿系自作自演屋」と明確にキャラクターを提示して「歌舞伎町の女王」からイメージを定着させていったのは非常にクレバーだった。彼女がキャラクター性に支えられた歌手であることは、キャラクター性が付随していなかった1rdシングルの「幸福論」がセールス的に売れなかったことと、1rdアルバム「無罪モラトリアム」において幸福論は改変されられキャラクターに沿った別物の曲になったことが証明している。(オレは彼女の曲の中で一番幸福論が好きだけどね。)同時期にアーティスト性で売っていた二人、COCCOはここまで明確にはイメージを打ち出していなかった気がするし、川本真琴は新型のアイドル、今で言う大塚愛みたいな売り出し方をしていたから多分林檎姫が始めたんだよ、うん、きっとそうさ。
オレンジレンジがネットで思いっきり叩かれているのも、サンボマスターがあんだけ売れたのもキャラクターに拠るものと考えるとしっくり来る。同じパクリ疑惑が出ている河口恭吾はほとんど叩かれてないんだから。ミッシェルガンエレファントはロックスターの幻想を維持しようとしたせいで崩れさってしまった、とか色々考えさせるものがあるよ、ホント。
逆にキャラクターイメージが形成されていないアーティスト、例えばキリンジなどはいいといわれても多くの人に浸透してはいない。雑誌にほとんどバックアップを取ってもらえなかったThe pillowsがシーンで埋没していたこともそれに基づくものと思われる。ようは雑誌に「アーティスト神話」を付けられなかったんだよね。(そういう意味じゃ坂本真綾って凄いアーティストなんだよな。「声優」なんてのは邦楽にとっちゃマイナスイメージでしかないんだから。)
田中が「自己主張、キモ」とかいうのも演奏能力があまりに稚雑なのにそういうキャラクターイメージだけでロックを語る奴らに対して不信感を抱いているからだろう。「バンプとアジカンどっちが好きかといえば、どちらかといえばバンプ」というのもアジカン後藤がロックロックうるさいからだろう、きっと。
より露骨にロックスター幻想を押し付けるようになったロキノンとバインは全く合わないものになっているんだけど、元々バインをこの位置まで押し上げてくれたのはロキノンの功績が大きいわけだし、フェスには上がらしてもらえるし、ぶっちゃけ離れたら広告出せるとこホントになくなるし・・・。と離れられるわけがなく、意味のない記事が並ぶ状況なのだろう。ロキノンの批評者という位置づけはある意味正しかったわけだ。
そういう今の音楽業界に感じている違和感を感覚だけで無闇に叩くんじゃなくて、「聞き手は音楽を聴いているんじゃなくて、その演奏者の姿を見ているんじゃないか」とかしっかり言ってくれればいいのに。アーティスト幻想をもたれないようにやる気のない+スカしたキャラをやっているんだろうけど、あんたのやっている職業は多かれ少なかれそういうのをもたれる職業なんだからもっとファンの期待を背負ってくれよ。
お前は田中買いかぶりすぎだって?だってファンですから。
しかし、少なくとも90年代後半以降(山崎編集長時代末期~)のジャパンは、売れ線のスターとは一線を画す(と、ジャパンが規定する)「スター」を押し出してきたと思います。「あれらのスターはダメだけど、ウチが推すスターは信用出来ますよ」ってな感じで。「ウチらのスターが、20000字語りますよ」って。
いわゆるジャパン系と呼ばれるようなアーティスト(スヌーザー=加藤亮太云うところの「98年の世代」に相当)が商業的に成功したのは、こう云う一種のスターシステムがあったからでしょう。それに乗ったか否かで、商業的な意味合いにおける「勝ち組」と「負け組」が分かれたような気がします。
勝ち組の最たる例はDragon Ashだと思うんですが、降谷と云う人はとても明晰な人間なので、多分そういう構図を全部理解した上で「乗った」んだと思います。でもやっぱそれは傍目には美しいものには映らなかったし、結果的にミイラ取りが…てな感じは否めないですよね。
なんか「紙のプロレス」が連想される・・・。どっちも最初小さかったらしいし。
>>ジャパン系と呼ばれるようなアーティスト
結局98年の世代で今一番商業的に成功しているのは、その中でスターシステムに明確にのった中村一義で、後はそこそこ、という感じがしますからね。くるり除いて
ただTRICERATOPSみたいに「スターシステムに乗ったが故に方向性を失って潰れた」というバンドもいますから一概に乗れば勝ち組、とも言えませんけど。しかし確かに意識的に乗った人が爆発的に売れていますね。
>>勝ち組の最たる例はDragon Ash~
革命とまで謳ってそれでミリオン突破しましたものね。
ミイラ取りがミイラになってしまったのは、革命歌って売れた後、新政権として、海外のHIPHOPグループ同様に徒党を組んでしまったことかと。
Dragon Ashに集まった人達、TMCが内輪の狭いサークルしか形成できなかった、そしてそのサークルの形成に降谷が力を入れすぎたばっかりにDragon Ash自体まで・・・という感じがします。
98年までは「音楽性のためのスター性」だったと思うんですよ。スターシステムといってもまだ音ありきでのスターシステムだった。
でも今は解散などでその上位にいた人達がいなくなり、その変わりのロックスターを探すのにヤッキになっている「スター性のための音楽性」となってしまっているからあの雑誌が駄目になっているような気がします。レミオロメンというバンドのプッシュとロキノン読者の2ちゃんでの拒否ぶりが、一時期のWWEのブロック・レスナープッシュとファンの反応とダブって見えるのですよね。プロレス団体に例えるのもなんか的外れな話なんですけども。
フェスとかやるようになって権力がつき、レコ社の宣伝用雑誌に成り下がってしまった、ということなんでしょう、きっと。
日本の音楽シーンとバンドのキャラクター性、とても良い指摘だと思います。あまり内容も偏らず、文章も読みやすかったです。
冷静ながらも音楽シーンに対する愛を感じました。
日本人の耳がまだまだ稚拙なこと、
(だからといって手放しに洋楽サイコー!とも思いませんが)
つまりはバンドやアイドルに何かしらのコピー、キャラクター性を持たせて
落ち着きたいのではないかと。
そのキャラクター性に疑問を感じ、世間的に言えば「迷走」するタレントやミュージシャンに対して、マスコミやファンは冷たいなあ、とも感じます。
迷走してるのはロキノンの方ではないか、と個人的には感じますが。
90年代〜00年代初期ほど音楽シーンが盛り上がってないのは、
メディアの怠慢や諦めもあるのではないかと。
まあ個人でメディアを容易に立ち上げられる現代なので、
それこそ自称アングラやサブカルシーンに人気が出て来ているのかもしれませんね。
長々と書いてしまいましたが、GRAPEVINEは良いバンドだと思うし、
音楽に対して真面目なところに好感がもてます。
というか大好きです。
コメントありがとうございます。五年前の文章について今もまだ言及してもらえていることに、凄く幸福を覚えています。・・・残しといて良かった。
多く考えていたことは最新記事に書いたのですが、書き漏らしたことが一つあって、音楽というものを言語化する難しさ、音楽の質を選定することの難しさといったものも、メディアの迷走の一つとしてあると思います。実際僕は音楽の歴史については不勉強なのですが、一方でそういったバックボーンについて知識を並べていった記事を見てもその音楽を言い表しているとは到底思えない。
僕が音楽についての話をブログでほとんどしなくなったのも、アーティストが背負う物語性といったものや、状況論や詞の分析など音楽それ自体を避けた上でしか音楽を語ることができない自分の限界を感じたからで、ロキノンの今のやり方が悪いとしてじゃあどうしたらいいのかが全然分からないのが実情だったりします。
おおよそ15万枚です。とは言っても彼らの中では売れたほうですよね。
Σ(゚◇゚;)マジデッ!
10年間位自分で信じていました(笑)ご指摘ありがとうございます。
・・・しかし、15万は15万でCD自体が相当売れていたんだなぁって感慨を覚えてしまう数字ですよね。今の音楽業界って、1万人程度の顧客しかいないGRAPEVINEが「売れている」ラインに来てしまうんだものなぁ。
ちなみに、最近出たベストの限定盤を買ったのですが、プレイボタンが動かなくなってしまって・・・。なんでOUTSIDE2、CDにしてくれなかったのか・・・。
アザーッスです(>_<)
昔の文章は今読むと「あわわわわ」となる表現の拙さがあるのですが、一方でネットの文章でここまで長いスパンで多くの反応をいただけるなんて!と消したりしないで良かったと思うことしきりです。
それも、好きなバンドが長い期間、コンスタントに新作を出しつつ活動しているという幸福な状況故のことなのですが。ウディ・アレン位続けて欲しい(笑)
1977は、現在形の歌詞が最後のフレーズでふっとすべて過去に変わってしまう、そこで曲のアウトロに入るとこで最初泣きそうに・・・。バインらしい、穏やかなクライマックスがある曲ですよね。