いびつなロケット13号
2024-01-05T20:44:38+09:00
unuboreda
映画レビューサイト、のつもり。
Excite Blog
2023年 年間ベスト
http://yosntoiu.exblog.jp/33208513/
2024-01-02T11:11:00+09:00
2024-01-02T08:56:22+09:00
2024-01-02T01:44:38+09:00
unuboreda
映画(雑談・一言レビュー)
あけましておめでとうございます。
今年も1年よろしくお願いいたします。
仕事の関係で平日夜にほぼ映画が観れなくなったため、観る本数自体結構減ってしまっているのですが、それでも、今年もいくつかは映画を観て色々考えられたらと思います。
現実世界ではここ数年が勝負だとも思ってはいて、そのために色々ジタバタしているところです。PDCAのPとDだけ行ってとにかく試行錯誤していくあり方は続きそうですが、何卒よろしくお願いいたします。
年間ベスト
1、板津匡覧『北極百貨店のコンシェルジュさん』(ネタバレ)
消費社会が象徴する百貨店に喪われた相互扶助を見い出す物語や「コンシェルジュ」の役割と目の前の客との間で戸惑い引き裂かれる主人公の姿(これは『ポケモンコンシェルジュ』ともテーマが通じている)、或いは現在であるはずなのに常に過去を想起せざるをえない動物たちのあり方・・・。本作が抱えている諸々の矛盾が、今の自分が抱えていた日々の生活に重なり合うように思えて、途中から涙が止まらなくなっていた。
記憶や温情はまるで菓子細工のようで、どこかでなくなってしまうものなのかもしれない。今ある世界はもう終わりを迎えつつあるのかもしれない。それでも、横への連帯を上下運動にまとめあげ、新たな現在を見い出すことは可能だ。同時に、ただただ人のために賭けて走り続けることも、まだできるはず。こうありたいと、強く願った。
2、ダリオ・アルジェント『ダーク・グラス』
詳細はこちら に。
ここまでコロナ下の寄る辺なさと孤独を真っ当に描いた作品があっただろうかと考えながら観ていた。初期の鋭利なカット割と後期の象徴主義が調和をなしており、『歓びの毒牙』(1970)に匹敵する強度を持っているように思えた。
3、岡田麿里『アリスとテレスのまぼろし工場』
岩井俊二『キリエのうた』もそうだが、新海誠『すずめの戸締まり』(2022)に対して強く感じた違和を改めて認識させる作品が多かったように思える。どちらも大文字の他者へと奉仕することを拒絶している印象を持った。現実とイメージ(虚構)についての対比構造を無化していきながら、スクリーンと現実のつながりをただ見ろとする本作が、運動へと傾倒しないことで日本の「その未来」を捉えたとするのは言い過ぎだろうか。「ここではないどこか」への希求を許さず、「いま、ここ」に拘泥しようとしていく作品のあり方に感動した。
4、ポール・シュレイダー『カード・カウンター』
本作が通底する淡々としたトーンは、それこそ救いなぞ訪れないという諦念に似たもので、それでも、夢を見てしまったがために主人公は敗北してしまう。正常な判断からはおよそ離れた決断を行う様はサム・ペキンパーの登場人物を彷彿とさせる。だが、彼らが抱いたはずの高揚も訪れることはない。それでも賭けを辞めることはできないとする情熱を端的に捉えた本作を、自分は美しいと思った。
5、ポール・キング『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』
歌劇の中に上下運動と格差の問題を折り込んだティム・バートン『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(2008)を踏まえつつも、バートンが持っていた他者への毒を中和させながら、悪役にも愛嬌なり愛情なりを見いだすこの映画のスタイルに救われた気がした。クリスマス・ムービーらしい映画である一方、チョコにまつわるラブ・ロマンスの主要な人物たちが、恋愛映画において周縁として扱われてきた人々によって為されることなどは、多様性の称揚以上の何かがあるように思える。ウンパルンパをヒュー・グラントに演じさせることをはじめ配役のセンスが光る映画であるし、何よりラスト、現実とイメージが重なりあう空間で、大団円であるはずの光景を見つめるそのウォンカのまなざしと表情にやられた。映画が映画だけに政治的な周辺の諸々がただただ悲しい。
6、清水崇『ミンナのウタ』
ちょっと尋常ではない映画だ。ホテルでのインタビューのシークエンスに顕著だが、ショットの全てが、不快や違和が残るようなタイミングで、余韻が残るように切られている。それは読み終わって本を手放した後も、穢れたような錯覚を手に残した伊藤潤二の読後感に似ている。
双一と富江をブレンドしたかのようなヒロインの造形が、現在の若者が抱えた狂気と共鳴しているのにもニヤリとさせられる。観終わった後、サム・ライミ『ダークマン』(1991)に近い高揚を覚えた。
7、マイケル・B・ジョーダン『クリード 過去の逆襲』(ネタバレ)
登場人物達の微妙な距離や空気感をカメラは丁寧に捉えていることに成功していて、栄光を喪ったもの/全盛期を終えてしまったもの同士の内省を丁寧に捉えている。トレーニングのシークエンスが象徴するように、それはハリウッドとアクション・スターに対する自己言及の色を帯びる。鍛えられた肉体がもたらす過去の栄光を、過去と自覚しながらも信じている。ただ一点のみ、それだけで他のヒーロー映画を寄せ付けない映画としての力があった。
後日本の漫画から学びましたって話を聞いて『はじめの一歩』かと思ったら実際は『喧嘩稼業』の方だったので震撼した。ただ、後半のバトルがそうならないのは、「あいつの本質を見ろ」とコーチにクリードが忠告した後、黙々と練習するメジャーズの姿にカットを割った時点で察した。しかし…ここに書くことではないが、木多はいい加減仕事をしてくれ。
8、立川譲『BLUE GIANT』(ネタバレ)
本年度が日本のアニメーション史において最も開花した一年として挙げられるはずだが、その中で最もアニメートの力を感じたのは本作だった。ショットのリズムに即興が宿っているような力強さ、瞬間瞬間の熱情としか思えないイメージの数々。何より、原作に対して、こうあるべきだったと一線を超えたあのシークエンス。忘れがたい。
9、深川栄洋『法廷遊戯』
詳細はこちらに。
日本においてポリティカルコレクトレスは、ミステリーやサスペンスによって倒錯を含めた複雑な導入がなされているように思える。代表的なものとして黒沢清『スパイの妻』(2020)や堤幸彦『ファースト・ラヴ』(2021)などが挙げられるが、自分にとってハリウッドのそれよりも興味深いものだということはここに記しておきたい。
10、ウィリアム・ブレント・ベル『エスター ファースト・キル』
ミソジニーに近い恐怖を描いた前作を踏まえながら、『マーニー』(1964)や『レベッカ』(1940)、そして『サイコ』(1960)といったヒッチコック作品のヒロインと重ね合わせるプロットの目論見は、今年のアメリカン・ホラーが持つどれよりも野心が高い。館の空間設計が若干甘いところなど演出に瑕疵がない訳ではないが、ブラックなユーモアを持ち出す中盤の転調も成功しているように思えた。それだけでなく、本作はメロドラマによって、孤児の受け入れられない孤独をもすくい上げる。胸が張り裂けそうになる『サイコ』の引用。母への憎悪と父への憧憬などを含めて、語るべきものが多い作品。
準ベスト
ベン・アフレック『AIR エア』
リドリー・スコット『最後の決闘裁判』(2021)の製作を経た上で、ホモソーシャルと男性性をこれからどう捉え、そして肯定すべきかという答え。男子校出身者の自分としては、あまりに素晴らしく、感動するほかなかった。(劇場で観ていれば確実にベストに入れた作品)
ジャン=フランソワ・リシェ『ロスト・フライト』
1970年代のアメリカ映画が「スピルバーグかカーペンターか」の命題で、前者を撮った中で多くの作家達が映画の本質を忘れていってしまったように思える。その中で、フランス出身のジャンル映画の担い手達が「カーペンター」を忘れずに拘ったことを私たちは忘れてはならない。『要塞警察』(1976)のラストについて語る際、「世界の終わりに対して人は馬鹿な行動はしない」としたカーペンターのプロフェッショナリズムが、登場人物全員に継承されている。その中で見い出されるジュラルド・バトラーの実直さ。『ブラッド・ファーザー』(2016)から引き続いてジャンル映画とアクション・スターを愛すべき人間として画面に刻印する上品さは過去に『フライト』と銘打たれた傑作群に比肩しうる。
中田秀夫『禁じられた遊び』(ネタバレ)
中田秀夫が近年模索してきたスタイルが完成されたように思えた。とかく橋本環奈の魅力を十二分に引き出したことに尽きる。スクリーミングクイーンとして恐怖の表情をしっかり前半で撮りながら、中盤以降の転調で突っ込み役をさせるあり方などよい。
メアリー・ランバート『ペット・セメタリー』(1989)の変遷であるということは、父親についての物語でもある。本作はケビン・コルシュ デニス・ウィドマイヤー『ペット・セメタリー』(2019)のように父を明確には断罪しない。しかしながら、むしろ意識せずに欲望し、子どもを間違った方向に導き、結果として喪われた家族に拘泥する姿は、それこそ赤堀雅秋『葛城事件』(2016)の変遷だろう。怖・ポップ3部作(?)が全て男と父権にまつわる物語であり、それをジャニーズの各に演じさせたことは、中田なりの批評精神の発露だったと今にして思う。
三池崇史『怪物の木こり』(ネタバレ)
その『事故物件 恐い間取り』(2020)の返歌だと強く思ったのが本作。韓国映画のウォン・シニョン『殺人者の記憶法』(2018)を想起する、設定と展開される物語に大きなズレがある作品だが、こっちのが全然映画として落ち着いている。本作における硬質なカメラと生真面目にメロドラマを描いていく手つきは、三池が錆び付いてないことを証明していた。『事故物件』は『レベッカ』が頭によぎる作品だったが、それを踏まえてのあの抱擁。
八鍬新之介『映画 窓ぎわのトットちゃん』(ネタバレ)
本作がシンエイ動画の達成の1つであることは確かだし、本作の激昂する大人たちに自分があるべき姿を観たと思えたので、ベストに入れるか迷った。ただ、同時に以下の指摘を付記しておきたい。本作は3度の反復を厳粛に行いすぎているように思える。
例えば、本作は子どもの想像力をアートアニメーションのスタイルを導入して描き出している。それ自体は素晴らしいのだが、あれを3度繰り返す必要がはたしてあったのだろうか。切り絵アニメによって夢のシーンを描いた際、自分は「シュミラークルだ」と少し冷めてしまった。演出の方法論に厳格すぎるがために、想像力=イメージに枷が嵌められた印象を受けてしまったのだ。その印象はラストで強固になる。
ラストシークエンス、走る列車の中で、少女は最初同様に光景に目を奪われても良かったのではないか。他者のためにイメージを捨てろとシステマティックに語ってしまえば、それこそ軍国主義でしょうに。
楽しめた映画
山崎貴『ゴジラ-1.0』
本作については後でまとめて何か書くかも。ここ数年の特撮映画観ていて、『怪獣惑星』シリーズを全部劇場で観た経験は決して時間の無駄ではなかったと思ったりした。
塚原あゆ子『わたしの幸せな結婚』
本作が若者が抱えている時代の空気をもっとも表象しえているのではないか。封建的で閉塞感のある日本のメタファーとしての明治=大正。
松本優作『winny』
そういった閉塞感の現状を、最も綺麗に画面に刻印せしめているのが本作だった。吹越満がかっこよすぎるのが難点といえば難点か。吹越満とヒュー・グラント、国の映画の守護神みたいな印象を受けたな。
ジェフ・ロウ『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』
冒頭から導入されるアニメートの素晴らしさもさることながら、ハリウッド大作に求めるクライマックスってこういうのなんだよをちゃんと完遂していることが印象をよくしている。
クリストファー・マッカリー『ミッション:インポッシブル デッドレコニング PART ONE』
2時間30分という上映時間の長さがちゃんと意味がある映画で、最初から提示されている問いをトム・クルーズが身体を酷使しながら追う「迂回」によってAIやデジタルに対抗していく、というプロットと目論見自体は結構成功していると思う。ただ一方で、これは『ジョン・ウィック コンセクエンス』にも通じる話なのだけど、そういった迂回によって上映時間を長くすればするほど、ただの舞踏になって身体性が減退するのですよね。ハリウッドの隘路はそこにあると思っていて、そこに嵌まっていなかった『クリード』と『ロストフライト』に軍配をあげたい。
新城毅彦『なのに、千輝くんが甘すぎる』
ジャニーズが持っていた映画への力が結構すさまじく、アイドル映画に確かな技術と演出を持ち出してきた訳で、パチンコ業界がアニメへの影響を少なくしていくように、昨今の一件でこういった高品質の作品がなくなるのか。まぁアニメに関しては全然大丈夫そうだし大丈夫だろう。
白石晃士『戦慄怪奇ワールド コワすぎ!』
『オカルトの森へようこそ』(2022)ほどの強度やおぞましさはない。ただ、ジェンダーを主体、自らの男性性とともに考えていく作劇は胸を打たれるし、だからこそのウィリアム・キャッスルの導入は劇場で観たかったなと。
行定勲『リボルバー・リリー』
思い返してみても、本作の登場人物が持つ「色気」は同じような漫画(小説原作であっても設定は漫画のそれだろう)映画ではついぞ見られなかったものだ。吹越満と長谷川博己が綾瀬はるか演じるリリーの過去について語るシークエンス一つとっても、そこに大人の男女が抱えた執念や情感が横溢している。この手の作品がキャラクターを描けても人間を描けていなかったとでも言いたげな画面に、行定の強い批評精神を見てとれた。
アクション・シークエンスも思っていた以上に健闘している。清水尋也の印象1つをとってみても、例えば月川翔が自分の作家性を忘れてしまったようにしか思えなかった『幽☆遊☆白☆書』よりも全然いい。
デイミアン・チャゼル『バビロン』
これは少し予想なのだが、本作でブラッド・ピットが演じた役は、当初レオナルド・ディカプリオに配されていたのではないだろうか。そう思える位、タランティーノに対して喧嘩をふっかけて、そして大いに敗北している。バーヴォーベンを師としながら、冒頭の映画撮影のノリで徹底できず、使い古した感傷に浸ってしまったことが敗因だろう。ただ、この感傷に拘泥するあり方を自分は嫌いにはなれない。
岩井俊二『キリエのうた』
詳細はこちらに。
ずいぶん不格好な映画で、どうしても『バビロン』のそれと重なってしまうものがある。リアリティ・ラインが結構砕けているし、女性像が悪い意味で90年代のエロゲーみたいだなと思うし。ただ、これを撮りたかった意味も十二分に理解できるし、嫌いにはなれない。
ダニー・フィリッポウ マイケル・フィリッポウ『TALK TO ME トーク・トゥ・ミー』
よい意味でA24の映画らしくない。寓意に溺れることなく、ジャンル映画としての快楽やショットの強度で勝負していることが好印象。
入江悠『映画ネメシス 黄金螺旋の謎』
あまり顧みられていないが、アクション・シークエンスは日本映画で最も面白いことをしていた映画なので、もっと評価されていいと思う。役者もそれぞれ持ち味が発揮されているし、最初のイメージ含めて入江悠の職人気質が反映されている。ただ、物語を考えればもっとイメージにまかせてカットを飛躍させ、90年代の暴力性を持ち出しても良かったのではとも。映画納めに観た平尾隆之『劇場版「空の境界」第五章 矛盾螺旋』を観てその思いは余計強まった。
ガイ・リッチー『オペレーション・フォーチュン』
「ガイ・リッチーさん、もうちょっと真面目にアメリカ映画を撮ってください」と思いながら観ていたが、このフットワークの軽さが彼に現在のアメリカ映画を背負わせている気がする。
アンディ・ムスキエティ『ザ・フラッシュ』
本作が徹頭徹尾カートゥーンであり、その意味でジョン・ウェスドン『ジャスティス・リーグ』(2017)の後継作といった趣がある。加えて、パラレルワールドの内向きさを反復する印象はどことなくMCUのパロディのようで、それ自体がアメコミ映画への批評的なまなざしといえるかもしれない。アクションシークエンスはザック・スナイダーほどではないが、見られるレベルではある。ただ一方で、役者や過去の作品に対する敬意が全くないのが本当に駄目。ティム・バートンとマイケル・キートン、そしてベン・アフレックを何だと思っているのだと切れそうになった。
チャド・スタエルスキ『ジョン・ウィック コンセクエンス』
実をいうと、『マトリックス』シリーズのあり方を反復していく2の流れが好きだったので、アクション・シークエンスに固執する割に役者に対してあまり敬意を払っていない本作をあまり評価していない。ウィルソン・イップ『イップマン 完結』(2019)あったしなと変化球で使ったスコット・アドキンスとかぞんざいな扱いすぎるし。(キングピンやらせるならもっと堂々とさせろよ)何より本人も含めて日本人は伊澤彩織の扱いにもっとぶち切れていいと思うよ。
かなり緩くてもスコット・アドキンスがしっかりラスボスしていてトニー・ジャーが笑顔なジェシー・V・ジョンソン『トリプル・スレット』(2019)の方が好き。
駄目だと思うよ
清水崇『忌怪島 きかいじま』(何故か『心霊マスターテープ EYE』を含んだネタバレ)
前半の演出部分に味があるのだけど、後半になればなるだけ中途半端にJホラーを導入したがために味がなくなっていったように思われる。去年のJホラーがメディアを扱う際、現実感を喪失させて死を希薄化させていたのをもっと踏まえるべきだったかと。本作は90年代のアニメのように撮らなければいけない、とキャストをみれば本人も考えていたはずなのだけど。
そもそもの話ではあるのだが、VRのようなメディアが普遍化した結果、現在でそれらを黒沢清『回路』(2001)のように未知の恐怖としては描くことはできないのだ。それはただの人工的な箱庭でしかない以上、おぞましさを感じさせるためには製作者の欲望や意図にもっと焦点を絞るべきだったように思われる。それこそ、『矛盾螺旋』の小川マンションのような。
近年でそれに最も成功しているJホラーが谷口猛『心霊マスターテープ 〜EYE〜』だと自分は考えて、あれは怪異の製作者が完全に倒錯と狂気に陥っているからこそ、幽霊に女性の実体とは異なる歪みがもたらされていた。『ホムンクルス』(2021)などを観られるように、清水崇は他のJホラー作家に比して男性性に対して結構甘いところがあって、本作ではそれが悪いように作用していたと思ってしまった。(この辺の話は『ミンナのウタ』にも当てはまる)
宮崎駿『君たちはどう生きるか』
宮崎駿が近年の作品で福永武彦の諸作(『死の島』、『塔』、『未来都市』)を踏襲しており、その目配せと寓意から色々な解釈が成立していくのも理解できる。けれども、『風立ちぬ』(2013)で展開された「私たちのあり方が終焉にどう加担していたのか」という加害性の主題が、戦中を舞台にしながらごっそり抜け落ちてしまっている。そういった本作がポール・グリモー『王と鳥』(1980)の枠組やアードマンのキャラクターデザインを踏襲したことに対して、安易に肯定することの意味を今一度考えてほしい。自分はグリモーのエスプリが効いた体制批判への冒涜だと受け取った。何よりも、『風立ちぬ』の画面を彩っていた運動がほぼほぼ死んでいる。『窓ぎわのトットちゃん』を観て、そういった疑念はより強い確信へと変わった。
庵野秀明『シン・仮面ライダー』
詳細はこちらに。庵野と宮崎が内向きの世界に拘泥する中、色々世界のあり方や考え方が変わっている訳で、同じ古臭さを抱えているにしても、岩井俊二のが世界の現状を見据えているとは思う。
ルイ・レテリエ『ワイルド・スピード/ファイヤーブースト』
『オペレーション・フォーチュン』がハリウッド映画がもはやゾンビであるという話だったと思うが、そのゾンビの一例。安易にキャラを殺したり生き返らせたりさせるな。何の面白味もないわ長いわで本当に駄目。
こだま兼嗣『劇場版シティーハンター 天使の涙』
制作陣はこんなものを今つくって本気で面白いと思っているのだろうか、と劇中首をかしげることしきり。盗撮の下りとか流石にドン引きですよ。『新宿プライベートアイズ』の方はそうでもなかったので多分脚本の責任。
山田雅史『ヒッチハイク』(なぜか『黄龍の村』のネタバレあり)
『コープス・パーティー』シリーズの山田雅史がこんなものを撮っていい訳がないだろと思ったし、『きさらぎ駅』の脚本家が手癖でこんな謎時空を繰り返すなと主張しておきたい。
トビー・フーパー『悪魔のいけにえ』(1974)の原典が持っていた自主製作故のモキュメンタリー感は絶対に再現できないもので、それはトビー・フーパーが『悪魔のいけにえ2』(1986)を撮った数十年も昔から明らかなことだった。だから、この殺人一家という題材を撮るならば、アクションに注力していくしか勝ち目はない。
その好例が阪元裕吾『黄龍の村』であり、内輪受けスターシステムの匂いが鼻につくものの、中盤のツイストやアクションシークエンスによって映画は持続していた。(ただ阪元裕吾、一時期の白石晃士が陥った隘路に嵌まっているようにしか見えないので、注目されている今のうちにはやくちゃんとした新作を撮るべきだとは思う。)
本作が駄目なのは、館と周囲の空間設計を怠っているからだろう。「低予算で時空歪ませればどうにかなるやろ」というやっつけを敢行した結果、館もなおざりなままどこかよく分からない森で追いかけっこするばかりで、恐怖といったものはまともに演出されていない。撮れない厳しさがここまで映画作家を殺すのかと涙なくしては観られなかった。
ポール・バーヴォーベン『べネデッタ』
絶賛されている理由が正直全く分からない。史劇であるはずなのに空間の撮り方が弱いのが致命的で、教会で告発が起こるシークエンスやクライマックスの広場の撮られ方など、日本のテレビ映画でもここまでいい加減ではなかったと愚痴の一つも言いたくなる。デビッド・ロウリー『グリーン・ナイト』(2022)と併映すれば熱量の違いが分かってもらえるはず。
性を含めた諸々を露悪的に画面に映す。なんとはなしに宙づりをつくって寓意を想像させる。それだけで絶賛する方々には悪いが、こんな力の入っていない映画を巨匠の名だけで褒めそやすのは、悪しき作家主義以外の何者でもないでしょうよ。
ワースト
吉野耕平『沈黙の艦隊』
減点法では何もマイナスが引かれないが、加点法では何も加点されない映画。ネットドラマの凡作が持つルックを見繕っただけの意図も野心も感じられない弛緩したカット割に辟易する。インサートされるイメージの平坦さも含めて見るところがなかった。
スクリーン内スクリーンである潜水艦のレーダー通りに全てが進んでいく本作の内向きな楽天主義と、中国も中東も存在しない、紛争や食糧問題についても語らないポリティカルフィクションの茶番さは綺麗に重なり合っている。今、この時代に『沈黙の艦隊』を語り直す意義を製作陣はちゃんと考えたのかと問いただくなった。
一編の映画として区切りをつける気概さえないラストを見て、『ハケンアニメ!』(2022)を撮った気鋭が一体何をやっているのだ、配信ドラマの資本なぞに踊らされて馬鹿馬鹿しいと激昂してしまった。少なくともこんなもので満足していれば、吉野耕平は山崎貴や佐藤信介には一生追いつけないだろう。猛省して今すぐこのドラマ(泥船)から降りてほしい。
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秘匿された男性性 ー 深川栄洋『法廷遊戯』(2023)
http://yosntoiu.exblog.jp/33202094/
2023-12-25T23:11:00+09:00
2024-01-05T20:44:38+09:00
2023-12-25T11:53:35+09:00
unuboreda
映画 な・は行
2023年製作/97分/G/日本配給:東映劇場公開日:2023年11月10日
真実=メディアの不確かさ
電車の乗り口を映す監視カメラの映像によって幕を開ける『法廷遊戯』は、留まる列車とその周囲に群がる人々に私たちの視線を誘導していく。何が起こるのかと、その無味乾燥な画面を凝視していると、事件は我々が見つめる左側の電車ではなく、右側に位置する階段で執り行われることとなる。監視カメラの映像に残る痕跡は鈍い落下音と影のみであり、私たち画面を見つめる視聴者には事件を見ることはできない。 …この視線誘導を介したトリッキーなオープニングシーンは、画面を見つめる私たち視聴者が、「真実」を認識することはできないという確信めいたテーゼを提示しているように思える。三人の男女がある事件の中で真実を詳らかにせんと駆け引きをしてゆく『法廷遊戯』のオープニングが、このような映像=真実の曖昧さの表象であることは示唆的だ。事実、本作の演出には、観客への挑発とも受け取れるような、およそ通常の劇映画とはかけ離れた偏執さが窺える。
前半における清義のpovについて
異様な演出はまず、主人公である清義(永瀬廉)が、大学院生時代に、何者かに過去を暴かれ、脅迫される前半部に顕著に見て取れる。背後から清義を映すショットとPOVショットを中心に演出していくことで、映画における空間が主観によって歪められ、異様なものとして法科大学院が現前化されてゆくのである。
この演出によって、主人公が周りの人物と隔絶した孤独な存在であることが示唆されている。ゲームの主催者であり、友人の馨(北村匠海)とのやりとりを思い出したい。
大学の中庭で二人は出会うと、馨はナイフを取り出し、清義に自分が殺されるかもしれないと話し始める。その重要な告白が始まるやいなや、カメラは二人の視線の背後、イマジナリーラインを超えた遙か後方に移動し、長回しで両者を記録していく。だが、両者は大学の建物が形成する縦線によって区切られており、ロングショットが醸し出す異様さと冷たさによって距離感は無化されるどころか、より強調される。その中で、確かに馨は物語の重要なキーである「遺言」を清義に託すだろう。だが、馨の「遺言」を受け止める主人公はカット/カットバックによる斜めからのショットで映されるのに対し、あくまで遺言を託す馨は、主人公のPOVショット、眼差しによって規定される。両者が本来あるべき切り返しの関係を結ぶことがないことで、二人の意識がズレていることが暗喩されているのだ。
このシークエンスが端的に示しているように、秘密を隠している清義は周囲を一方的に見つめる存在として前半表象される。周囲が清義の罪を告発する時に踏みならされる足音のリズムが、3度目に至る前からどこか妄想の色を帯びているのもそのためだろう。同時に、本作の前半部における歪まれた主観の表象は、信用できない語り手として主人公を印象づける。連続殺人鬼の日常を描いたフランク・カルフン『マニアック』(2013)の例を挙げるまでもなく、POVは窃視症や加害性を連想させるものだ。そういった歪んだ主観が、暴露の被害者であるはずの主人公を印象づけることの意味は、一体何なのか。
メロドラマとしての裁判
後半は、馨の死によって諸々の秘密が暴露されていく。馨に電話で呼び出された清義は、約束された場所で、馨の死体と返り血を浴びた美鈴(杉咲花)を見つける。彼女はSDカードを託し、彼に弁護を依頼する。その裁判で黙秘を続けていた彼女は、裁判がはじまった段階で「真実」を話しはじめる。美鈴は、馨の父に濡れ衣の痴漢えん罪をかけ、その結果として馨の父は自殺してしまった。報復について法学で研究していた馨は、美鈴に、自分に殺害させることで加害者である濡れ衣を着せ、そこで過去のえん罪事件を告発するという計画を立てた、と。二人の共謀通り、事件の焦点は過去のえん罪事件に目をむけられ、加害者に仕立てられた美鈴は無罪となる。だが同時に、主人公は過去に教わった遺言から、本来の計画では、殺人未遂で済むはずだったことを知り、馨が美鈴の手によって殺されたことを知る。それを許せないとして、主人公は秘密の共犯者であり、共依存の関係を持っていた美鈴と袂を分かつ。映画は別々の場所で判決を迎えた両者のクローズアップを映し出したのち、大学生時代、仲良く法律について話し合う清義と馨が、階段を上がり、画面の向こう側へと消えていくのを美鈴が見つめるカットで閉じられる。
本作が出色なのは、法律における政治やえん罪の問題を描きながら、男女の三角関係を軸にしたメロドラマとして物語を描いていることだろう。それは例えば、主人公と美鈴の切り返しを軸にした演出にも表れている。先に見たように、前半のシークエンスにおいて、主人公は人と切り返しを為すことはなかった。それは美鈴に対してもほぼ例外ではない。唯一二人の視線は交わったのは、無辜ゲームにおいてのみなのだ。それは後半のパートでも続いていく。殺人事件が起きた後、黙秘を続ける美鈴はJホラーの幽霊のように撮られており、面会室においても両者の顔を重なり合うことはない。
彼女が真意を語り始めた後も、美鈴は真実をけたたましく語るのみであり、それを聞く清義との顔面は常にズレてしまっている。ところが、真実を知り離れ離れになってしまったラスト、判決の日において、はじめて両者の笑みがカットによって重なり合い、切り返しが結ばれる。そこでは美鈴はカラカラと笑い続ける、まるで、はじめて男が抱いていた真意に気づいたかのように。
ラストシーンが象徴するように、深川は本作を社会派を皮にかぶった、秘密の共有によって結ばれた男女の異様なメロドラマとして撮っている。とすれば、問題なのは、何故最後美鈴の視点で終わったのか、という問いである。
もう一つの共犯関係の可能性
本作の男女が共犯関係と秘密の共有によって結ばれていることは明らかだろう。主人公と美鈴は児童養護施設における殺人未遂と痴漢えん罪を着せた罪を抱えているし、馨と美鈴は過去の痴漢えん罪を明らかにするための偽装殺人といった共謀によって結ばれている。しかし、ラストシーンで示されるのは、階段に駆け上る主人公と馨の姿だった。とすれば、こうは考えられないだろうか。もう一つの事件、ビラ配りによる秘密の漏洩は清義と馨の共謀だったのではないか、と。
裁判の場面について、よくよく思い出してほしい。沼田(大森南朋)に盗聴の依頼をしたのが馨だったことは確かに示されるが、ビラ配りがだれによって為されたのかは明らかにされていない。そもそもの話、盗聴依頼の証拠として挙げられるものは、webカメラの解像度の低い映像のみでしかないのだ。本作において、冒頭の監視カメラの映像が象徴し、裁判で流される事件がそうであったように、「証拠映像」として挙げられた諸々は、真実の表象とはなり得るものではない。足踏みの演出など本作が三度の反復に忠実なのは明白であり、そうである以上、二つの事件の間に挟まったぼやけた馨の写真が、彼がビラ配りの首謀者であることの証拠とはなり得ないのではないか。
そこで思い出したいのは、ビラ配り事件において、美鈴に送られた中傷は「人生を狂わされた男達」と、複数形だったことだ。あの男達には、主人公も含まれていたのではないか。だからこそ、主人公は盗聴犯である沼田を二たび見つけることが出来たのではないだろうか。主人公と盗聴犯の共通性はカメラによっても表象されている。裁判所をぐるりと見回す沼田の視点ショットは、そのまま法科大学院の授業における清義の視点と重なり合うのだ。冒頭の偏執的なPOVは主人公の欲望、自分に不都合な人間を排除したいという異常さの表象なのではないだろうか。
自らの贖罪が主題ではなく、あくまでそれは手段にすぎない。つまり、彼は自らの過去に張り付いた女との共依存関係を断ち切りたかったのだ。少なくとも、ラストの三者の位置関係と描かれ方、そして「はじまり」と口にするナレーションは、そのようなメロドラマ的欲望を示唆していると解釈できるのである。
終わりに
以上のように、本作がえん罪の問題を軸にした社会派映画としての色を保ちつつ、切り返しを中心としたメロドラマとして物語を演出していたことについて分析していった。その二重性と演出の取捨選択は、まごうことなき映画作家の仕事だと評価したい。
最後にこの二重性がもたらす意味について触れて、本論を閉じたいと思う。清義と馨が幼稚な論理によって権威に挑戦するところは、ヒッチコックの『ロープ』(1948)を彷彿させる。そのように考えると、本作における馨が夢想した権威への公的な挑戦は、主人公の女性に対する私的な欲望へとすり替わっている、ともいえる。そこに、私はまさしく現代日本が抱える病理が仮託されているように思えたのだ。(注)
正直に告白すれば、初見時、杉咲花の演技についてはオーバーアクトだと考えていた。彼女はこうなる可能性を踏まえた上で馨の殺害を実行したのだから、あの場面で狂うのはおかしい。そう思ったのだ。しかし、彼女が秘匿された主人公の欲望を読み取ったとしたら?
本作の杉咲花の笑みばかりが強調されるラストは、男性的な欲望が顕現しないまま、女性の情動のみにフォーカスが映る、ある種の不平等を象徴している。その不平等は、法律といった父権がもたらしたルールによってコーティングされ、不可視の領域になっている。『法廷遊戯』が示唆するのは、そんなこの国のどこかしこにある一側面ではないだろうか。
本作が堤幸彦の『ファースト・ラヴ』(2021)を踏まえた作品であることは明白だが、和歌山カレー事件をモデルにしたであろう木村ひさし『99.9 刑事専門弁護士 THE MOVIE』(2021)に続いて、テレビドラマにかかわる映像作家が意地を見せる作品が劇場にかかり、ある程度観られ受け入れられていることが、この国の映画業界にとって大きな希望のようにも思えたのだった。傑作でしょう。
(注)近年、ジャニーズのアイドルに「弱い男性性」を仮託した上で、そこに横たわる暴力性を暗喩している作品が多い。そこに一番自覚的だったのが中田秀夫だったという事実はここに書いておきたい。最新作『禁じられた遊び』(2023)において隠された引用元として最も重要なのは赤堀雅秋『葛城事件』(2016)だと自分は考えているが、ある種の弱さが男性の身勝手な欲望を不可視化しているのである。
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the asylum session ー 岩井俊二『キリエのうた』(2023)
http://yosntoiu.exblog.jp/33126002/
2023-10-16T23:55:00+09:00
2023-10-16T23:55:58+09:00
2023-10-16T23:55:58+09:00
unuboreda
映画 あ・か行
2023年製作/178分/G/日本 配給:東映 劇場公開日:2023年10月13日
サバルタンの声
観た直後に思い出したのは、豊島圭介『
Wikipedia ですべてを見てください
三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』(2020)における、全共闘側で三島に相対した芥正彦が力説していた、政治と演劇についての自論だった。
官僚的に仕切られ制度化された場としての日常に対して、それを異化する別の空間を一時的に作り出し、秩序が普段覆い隠した問題を浮上させる。その一瞬こそが活動であると、芥は政治活動を芸術のイベントがもたらす非日常の空間と重ね合わせて考えて行動していた。大雑把な、そして突拍子のない連想ではあるが、震災を主題にしたドキュメンタリー『friends after 3.11』(2011)を撮った岩井俊二にとって歌がもたらすものは、そういった政治の色が濃い異化だったように思えたのだ。
だからこそ、中心となる歌い手は、震災によって声を喪われてしまった孤児、サバルタンとして表象される。その歌は絶えず、そして唐突に、国家権力によって疎外され続ける。儚さを湛えたアイナ・ジ・エンドの歌声に投影されるのは、被災者の悲しみであり、都市生活を営む女性が置かれた立場の弱さであり、この国における家制度から外れた存在が受ける疎外そのものだからだ。その声をある空間に対してぶつけるクライマックスは、今まで災害やマイノリティの声を無視してきたこの国への怒りの表明であり、だからこそ学生運動を思い起こすものとなっている。
自分にはそれが、震災を国家の秩序と結びつけてきた自らの同志や後輩に対しての、岩井俊二が打ち付けた時代遅れの、そして痛切なカウンターだったように思えたのだった。だから、樋口真嗣演じる父を振り切って走り出す少年の姿に作家のあり方が仮託されていたように受け止めていた。
父権=国家への不信
父に裏切られた復讐として、自らが嫌悪していたはずの母と同様の存在へと成り下がる逸子に象徴されるように、本作はほとんど偏見に近い父権=社会に対する不信とそれに疎外された弱者=女性の対比によって物語を駆動していく。震災のトラウマと愚かな恋人同士の応答と結びつけ、その喪失を癒やすための拠り所を、個々人が歌い、また声に耳を澄ます連帯の場として描き出していく。ただし、紐帯はつかの間のこと、制度や父が設定した状況によって裂かれてしまう。歌は、靴の一つも残さずに跡形もなく雨に流されていく。アジールはあくまで一時的な、儚い個々人の逢瀬として現出する。そして、国家はあくまで制度からこぼれた存在を疎外する存在として表象される。その描き方は、岩井の国家に対する不信が精査されないままに書き殴られているといった様相で、そこに眉をひそめる人もいるかもしれない。特に、主催者側のミスと片付けるしかない一件から警察が彼らを解散させようとする展開にそれは表れている。ただ、その展開には震災の傷を抱えたサバルタンが声を上げたとしても、国家は認めはしないだろうという確信が、自ら追ってカメラに収めた岩井の実感がそこに反映されていると、ここに付記しておきたい。(注1)
同時に弱者たる女性もまた、聖女のイメージとともに旧時代のフェティッシュと偶像主義に彩られる。その手つきは現代の寓話と呼ぶには、些か中年の感傷と欲望が横溢している。その点において、男性性を一度は突き放した『ラスト・レター』から随分後退しているように思える。
アジールの解体と歴史 ただ、そういった瑕疵を見せつけられたとしても、本作のあり方に目が離せなかった自分がいたのだった。通常のカメラを制度的と切り捨てた、ドローンの揺蕩うカメラと見切れた映像によって、三つの時間軸が緩やかに交差しながら、つかの間の連帯が人々を庇護するアジールと状況によって解体される時に伴う別離とが交互に描かれていく。家族という制度から疎外された子どもたちのセッションに、岩井は新しい政治と連帯の萌芽を見せた気さえしたのだ。根岸プロデューサーが語るように、それは永遠ではない。だが、その終焉は、また始めるために必要な課程なのだ。 時間軸の構成や妊娠がドラマの軸となっている点など、新海誠『すずめの戸締まり』(2022)を強く非難するために本作が持ち出したのが大庭功睦『滑走路』(2020)なのは明白だが、あの日本映画史を総括する強固な構成ではなく、緩やかな反復によって無軌道な若者達を描き出すことで、むしろ現状の不透明な未来を構成しようとしたことに本作の価値があるように思える。(注2)それが年代記となっていること、そのことが、現状を異化する政治活動など持続しない以上無意味なのではないかと芥正彦に語っていた三島由紀夫に対する返答のように何故か思えたのだった。傑作でしょう。
(注1)この国は、災害に対して人命を安易に切り捨ててきた。そのことは今回の一件一つ取っても明らかでしょう。
(注2)本来、あれくらいのテンションで子どもを産んだとしても、庇護されるべきなんだよなと思いつつ観ていた。『滑走路』のそれは中流の悩みなんだと。後、本作は批評のタイトルにもしたアオキタクト『アジール・セッション』(2009)を彷彿とさせるのだけど、劇中ことあるごとに「『すずめの戸締り』は糞だった、お前は雨降りしきる新宿と自主製作に立ち戻れ」とシンカイに往復ビンタする「超性欲異常者 イワイ」が脳裏に浮かんで少し笑いそうになった。スナックの描写さえ明確に悪意があったしな。帯広とはいえ、「スナック?北海道?まさか岩井…お前も…」と思ったという。(『スナックバス江』、アニメ楽しみにしてます)
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深淵を抱きしめて ー ダリオ・アルジェント『ダークグラス』(2022)
http://yosntoiu.exblog.jp/32943122/
2023-04-09T09:04:00+09:00
2023-04-09T12:11:49+09:00
2023-04-09T09:04:20+09:00
unuboreda
未分類
2022年製作/85分/PG12/イタリア・フランス合作 原題:Occhiali neri
ジャーロにおける象徴主義
車に乗っている女性が外に目をやると、人々が呆けたように虚空を見つめている。自らの後方を見つめる集団に目を奪われた彼女は、広場に誘われていく。多くの人は皆既日食に目を奪われていた。獣たちはけたたましく啼いている。日食を目にした彼女は、目を傷めてしまう。光は喪われ、辺りは闇に包まれる。帳が落ちた世界で、彼女はただ一人呆然と立ち尽くしている…。 ジャーロへの原点回帰をしたといわれている本作であるが、日食のイメージを中心に不穏さのみを演出したアバンタイトルが示しているように、『インフェルノ』(1980)以降の寓意と象徴に満ちたスタイルによって幕を上げる。もちろん、ここでは先の女性にふりかかる受難、シリアルキラーに襲われ、視覚を奪われることが予告されている。たがそれ以上に、世界の終末が訪れたかのような帳が世界に落ちてゆくこの冒頭のシークエンスは、人智を超克した何か、魔としか呼べない何かの存在が仄めかされているようにも見えるのだ。
事実、本作の殺人鬼がジャーロの定型である黒手袋を見せるのは最初のみ(注1)で、犯人は見ることのできない「ファンタズマ」(幽霊)として描写される。彼は白いバンによって訪れるが、本作において彼の到来はあくまでサーチライトの「光」によって象徴的に演出される。人の視覚を奪う死の光…。Jホラーで高橋洋が希求してきた超常的な恐怖を明晰にフィルムに刻みこんだという一点のみを取り出しも、恐怖映画史上最も優れたビジュアリストたるアルジェントの面目躍如といったところだろう。
太陽というメタファー、そして女性
しかしながら、本作における「魔としか呼べない何か」とは何のメタファーなのだろうか。本作において犬が重要な存在として度々登場する。過去作における魔女の存在がそこに仮託されているという面も当然あるだろう。前述するように、獣の匂いをまとった犯人は悪魔のような存在なのだから。
しかし、本作の製作期間がコロナによって混沌がもたらされた時期と重なっていることを踏まえて「太陽と死は直視することができない」というセリフを反芻してみれば、本作における光によって唐突にもたらされる死の不安には、コロナによる死の恐怖が仮託されているように思える。(注2)
だからこそ、本作では娼婦の仕事が克明に描かれている。彼女は自立した女性と言葉で語られるし、実際プレイを強要する客に逆襲するだけの肉体を持っていたのだが、事件によって視力を奪われた後は、仕事を中断せざるをえず、経済的に困窮していく。パンフレットで吉本ばななが信頼の重要性を示すシーンとして解釈していた客との金銭のやり取りは、むしろ彼女が娼婦として自立する術を喪ったことの表れだろう。銃にまつわる描写にしてもそうで、彼女は他の登場人物たちとは違い、銃を扱うことができない存在として表象される。本作では自立した女性は多々出てくるが、主人公にはそれをもたらす社会的地位が存在しない。
だからこそ、悪魔と光に襲われたのちに、闇の中で大切な人を喪ったもの同士が、いくあてもなく彷徨い抱擁するシーンに心が動かされた。そこに、寄る辺ない私たちの在るべき姿を見たような気がしたのだ。
倒錯される死、メメント・モリ
これはあまり言われていないことだが、映画におけるジェンダー表象において鍵となった作品の多くは、倒錯を内包しているように見える。性の価値転倒を誘発するからともいえるが、だからこそ性の加虐的な側面や暴力性を刻印されている。故に、女性に対する加虐性を内包した作家が、むしろ性の捉え直しを行うきっかけになるといった、アカデミズムの観点からすればありえないことが映画には起こりうる。例えば、日本におけるジェンダーを寓意的に表した安里麻里『劇場版 零』(2014)がアルジェントの『スタンダール・シンドローム』(1996)なしに成立しえたとは思えないが、そのアルジェントは女性への加虐性をむき出しにした作家だと語られてきた。実際、『スタンダール・シンドローム』は女性が男性社会の中で加害され、それを内面化してしまう物語だとも解釈できる。(注3)
本作にもそういった視点は存在するように思われる。加害者である男は自らの願望に固執したとたん、世俗と化し超常としての特権を奪われる。(注4)自らの体臭を指摘された鬱憤を晴らすために、その場で殺せばいいものを家へと主人公を招き入れてしまう。そして、犬が現れる。二人の飼い主の呼びかけに首をかしげていた犬は、逡巡したのちに男を食い殺し、事件は解決する。
本作における唐突な幕切れは、しかしながら主人公にとっては安堵をもたらすことはない。今まで直視しなかった死=男=加虐性と向き合ってしまう場面として切り返しによって演出される。見えていないはずの彼女は、直視してしまった死に悲鳴を上げる。それは、犬=魔に食われてしまうのは自分だったかもしれない、という深淵と暴力性に気付いているからだ。『サスペリア』(1977)のようになっていてもおかしくはなかったように。
深淵を抱きしめて
本作では、バーボーベンのように下品には明示されないものの、主人公の身体が変容していく様が描かれる。視力を喪ったことで他人と視線を合わせることができなくなり、美しさを誇示した身体は少しずつ緩んでいく。一面的に見ればそれは「見られる性」からの解放かもしれない。だが、それは一方で、男性社会で生きていくための手立てを彼女が喪いつつあることを示唆している。
だからこそ、本作のラストは、彼女が情感を交わした相棒を、銃を持つ女性に奪われるシークエンスで閉じられる。彼女は孤独を共有した存在と別離する瞬間も縦線で区切られ、彼と視線を交わすこと、切り返すことができずに、ただ指先でその感触を追おうと試みるばかりだ。そこで一人になった彼女は、もう深淵としか切り返すことができないかもしれない。だからこそ、彼女は空港のざわめきの中で、自分を殺したかもしれない深淵に語りかける。見つめることができないが、指先に確かめることのできる孤独に。
あの明滅する淡い照明に彩られた彼女の表情は、コロナ以降の私たちが抱えた寄る辺なき孤独な魂を象徴しているのではないだろうか。
(注1)被害者が外に出るとき、殺人が起こる前に建物をゆっくりと舐めるように撮るショットで「縦」を意識させた後、唐突に横から殺人鬼に現われるという緩急と空間演出のすばらしさもさることながら、この第一の惨劇が次の主人公が襲われるシークエンスでの横移動のショットに緊張感をもたらしていることの演出力に「そらもうこれよ」と一人で唸っていた。象徴を取り除いたら何も残らない作品ではないからこそ、象徴が読み取られないのが悔しくてならない。
(注2)そう考えた時、本作はロン・ハワード『インフェルノ』(2016)の返歌なのかもと思って一人で興奮した。
(注3)『ババドック』のジェニファー・ケントがラース・フォン・トリアーの助監督だったなんて話もそれを裏付けるような気がする。
(注4)その契機となるのが、疑似ながら家族の団欒への眼差しだったことの意味。彼が窃視症、視線の欲望に囚われていることは、端的な引用によって示唆される。
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2013年の絶望へ ー 樋口真嗣『シン・ウルトラマン』(2022)
http://yosntoiu.exblog.jp/32595743/
2022-05-22T18:26:00+09:00
2022-06-22T07:55:06+09:00
2022-05-22T18:26:34+09:00
unuboreda
映画 さ・た行
2022年製作/112分/G/日本配給:東宝
空間の断絶
流れるように情報だけがモンタージュで提示されていくオープニングシークエンスや室内と怪獣の様子がカットバックされる最初の駆除シークエンスは、明らかにアニメを模した演出が為されている。怪獣の動く様にそれぞれ解説として登場人物たちの語りが被せられることで、怪獣はディスプレイに映る情報として矮小化されてしまっているし、本作のほとんどの場面で、人と怪獣は空間を共有してはいないのだ。
だが、本作のそれが演出の稚雑さ故のものかといえば、どうもそうではないように思われる。
怪獣映画の思想
近年の怪獣映画において、怪獣は二つの比喩を宿したものとして描写されてきた。一つは、宗教で崇拝されるような超越論的他者としての側面である。マイケル・ドハティ『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019)が、キングギドラとゴジラにそれぞれキリスト教とアンチクライストを仮託した上で、宗教画のように荘厳な画面を顕現させたことは記憶に新しい。同時に、CGIが象徴する人間性を否定しかねない技術の脅威がそこに仮託されてもいた。『シン・ゴジラ』におけるゴジラへの分析がなされる場面が暗喩していたように、怪獣映画において、新たな技術において変容する私たち自身が問題となされてきた。重要なのは、日本において、『シン・ゴジラ』以後、そういった問題意識を引き継いで描いてきたのは、アニメーションの領域だったことだs。特に本作の外星人と人類の関係性は、虚淵玄が明確に『シン・ゴジラ』に異を唱えた静野孔文、瀬下寛之『GODZILLA 決戦機動増殖都市』(2018)を思い起こさせる。
シン・ゴジラへの批判と応答
『ゴジラ』と呼ぶには全くふさわしくないスペクタクルの弱さから忘却された『怪獣惑星』シリーズだが、そこに込められていたのは『シン・ゴジラ』への批判であり、高橋洋が語った日本人の潜在的な破滅願望だったことは、ここに来て思い出されてもいいように思われる。ゴジラという絶対的な存在に対抗するため、異星人の技術を借りることで人間性を喪失し、メカゴジラという全体主義の歯車と化していく『GODZILLA 決戦機動増殖都市』の展開は、『シン・ゴジラ』の技術礼賛と官僚主義への異議申し立てであった。さらに、無機質に増殖し全てを一元化するCGIに技術がもたらす全体主義を仮託させることで、カタストロフや恐怖を前にして現在の私たちが陥るであろう隘路を描写せしめたことは、もっと評価されていいはずだ。
事実、そういったSF的思索の材として怪獣を用いたメゾットは高橋敦史『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』(2021)に引き継がれており、どちらの作品でも怪獣は、画面や記号と戯れざるをえない私たちを映し出す鏡として機能していた。
『シン・ウルトラマン』において、何故禍特対がディスプレイばかりを見ているか。それは『シン・ウルトラマン』が先のアニメーションによる思索と問題意識を引き継いだ作品だからに他ならない。彼らはメディアを見て記号的に判断するしかない現代人のメタファーであり、そのような人間たちをメディアを自在に操作しながら管理しようとする外星人とはつまるところ、ニューメディアとネットワークの暗喩なのだ。本作が問題にしているのは、メディアに囲まれた我々の閉塞感であり、シンギュラリティだといえる。彼らはすべてに擬態し、すべての真贋を無化してしまうだろう。(ザラヴ星人)その上で、私たちの未来を確定された結末として見せ、無気力を引き起こさせるだろう。(メフィラス星人)結果として私たちは交換可能な無気力な存在として、与えられた死を待つ存在となる。その偶有的な在り方を踏まえるために、本作はあまつさえ心霊ビデオの方法論を持ち出していく。311の象徴としてゴジラよりそれがふさわしいと言わんばかりに。
庵野の最も優れた後継者たる…
これは多分に個人的願望も含むのだが、庵野秀明は元々ビックバジェットを撮るべき作家ではない。実験的な表象やモンタージュによって、私的な内的世界を展開する手つきはどちらかといえばインディペイメントのそれであって、スタイルとしては庵野が敬意をもって度々重用している塚本晋也に近い。(注1)加えて、デジタル化された映像を表現を率先して取り入れた先達でもある。デジタルカメラの安っぽい映像に自己同一性と実存を喪った現代を仮託した『ラブ&ポップ』(1998)を思い出してほしい。
技術と人類の寓話である本作の後半は、そのような庵野の秘匿されてきた作家性が強く出たものとなっている。差し込まれるスマートフォンの画像は登場人物たちを幽霊のように写し、その身体から実存を奪うだろう。そう、本作のスタイルは、ハリウッド映画のそれとは明らかに異なる、CGやビデオカメラといったジャンクな映像の集積としての日本映画である。それを用いた上で、本作はラスト、庵野の最も優れた後継者であった白石晃士が描いてみせた世界への絶望とウルトラマンを対峙させる。
311の荒廃を引き受けて
自己同一性を喪い荒廃した世界をデジタルカメラと矮小化されたCGIで描き出し、希望を抱いて意志をもって行動することが、むしろ他者を傷つけ世界を崩してしまう害悪である可能性を捉えてきたのが、白石晃士という作家だった。この主題が、『エヴァンゲリオンQ』と問題意識を共有していたことは明らかだろう。『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』シリーズにおいて、運命に逆らおうと奮戦し世界を終わらせてしまうディレクターの工藤とは、あり得たはずのもう一人のシンジなのだ。
本作において、定められた終わりとして日常の上空に揺蕩うゼットンが『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!史上最恐の劇場版』(2014)の鬼神兵に重ねられて描写された時、日本が忘れてしまった咎が突然眼前に現れたような、そんな気持ちにさせられたのだった。
そもそも『コワすぎ!』シリーズ自体が、311以後の茫漠した不安と分断を描き出した長江俊和『不安の種』(2013)を踏まえたものなのだが、あの時期のJホラーが表象した、そして私たちがなかったことにした不安と絶望を持ち出すことで、『シン・ウルトラマン』は技術に囲まれながら未来が閉ざされてしまった日本の現在に、問題を見なかったことにして終わりと衰退を待つだけの私たちに向き合おうとしている。瑕疵がいくつあったとしても、自分はそこに心が奪われてしまったのだ。
ウルトラマンがそうだったように、運命にあらがおうとする意志はより悪い運命を引き寄せるかもしれない。白石晃士『オカルト』(2009)の顛末のように、神は記号と化し、矮小化され消えてしまう宿命なのかもしれない。だが、だからこそ人間なのだと開き直り、意志と希望を謳うこと。それは『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021)では為されることはなかった『Q』に対する回答に他ならない。(注2)
生の象徴として描かれる女性の表象に色々問題があることも理性では理解している。ただ全編でアニメで用いられる平面的なクローズアップで長澤まさみの顔面を抑圧することで、最後の切り返しに全てを掛ける構成に本能であらがえなかった。(注3)傑作でしょう。
(注1)『シン・仮面ライダー』(2022)は塚本晋也『斬、』(2018)の延長線上にあるはずです。
(注2)皆さんは信じられないと思いますが、自分にとって本作は『シン・ゴジラ』や『シン・エヴァ』より遥かに上です。現代を見据えているのは本作だけだと思います。
(注3)あれは庵野では撮れないと思う。樋口真嗣が監督で良かったと思った。
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もう一つの青 ー サム・ライミ『ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』(2022)
http://yosntoiu.exblog.jp/32589890/
2022-05-16T23:10:00+09:00
2022-06-22T07:50:55+09:00
2022-05-16T23:10:47+09:00
unuboreda
映画 さ・た行
2022年製作/126分/G/アメリカ原題:Doctor Strange in the Multiverse of Madness配給:ディズニー
序盤のシークエンスでの、結婚式におけるカンバーバッチの孤独を印象づける高いレベルのクローズアップや、その後展開される序盤のアクション・シークエンスにおける的確なショットのつなぎと構図を見るにつけ、やはりサム・ライミは至高であり、MCUという作家の泥沼においても自分の映画が撮れる作家だと安堵させられた。そういった安心感の中で展開される物語に驚かされたのは、多くの制約があるはずなのに、その主題が『オズ はじまりの戦い』(2013)の延長線上にあったことだ。ライミはジェームズ・フランコの10年後の姿としてベネディクト・カンバーバッチを描き、多元宇宙に夢を見せる装置としての映画を投影し、自己言及的に語ってゆく。
サム・ライミの作家性
家族という幻想に固執し、それを追うために多元宇宙を耽溺し、他者を否定していくスカーレット・ウィッチは、夢を見ることの罪の部分を背負い、その鏡像として恋人との過去に囚われたドクター・ストレンジが対置されている。このような本作の物語が示すのは、フィクションによって欲望と記憶に囚われた現代人の姿だといえる。
だからこそ中盤、異世界において唐突に自分の過去を上映するスクリーンが現出しており、本作におけるマルチバース=多元宇宙とは、記憶と願望の投影たる映画のメタファーに他ならない。
そのような多元宇宙の表象が、未来ではなく過去に重きが置かれていることに、映画の現状に対するライミの視座を窺い知ることができる。並列されたデータベースにアクセスし、過去とシュミラークルから視聴するべき夢を選択する孤独な中年たちは、否応なく、私たちが置かれている現状を想起させる。だからこそ、ドクター・ストレンジの旅路は、他者への想像力を回復させながら、自己を見つめ直すものとなっている。対するスカーレット・ウィッチもまた、自己の怪物性と現実に向き合うことで『白雪姫』のように目が覚める。そこには過去の映画にあった快楽とはほど遠い、痛みの伴った喪失として成長が描かれており、だからこそクライマックスにおいても『オズ』のようなキスシーンは描かれてはいない。
これはあくまで推測だが、『オズ はじまりの戦い』から10年経った現在、そのバックヤードでの犠牲を題材に描かれさえする現在において、映画という夢見る機械に対する捉え方もまた、反省を以て受け止められた結果が、本作のプロットなのではないか。
当然企業の要請もあったのだろうが、本作がまさしくライミが現在撮るべき映画となっていることは祝福すべきことで、エンドロールのブルース・キャンベル含めて痛快な映画だった。
…と頭では、理解してはいる。実際、観ている間はしっかり楽しめたし、ストレンジがクリスティーンに愛を語るラストを泣きそうになりながら見守っていたのも確かだ。しかし一方で観終わった後、自分の中にしこりのようなものが残り、ずっとくすぶっている。果たして本作はスコット・デリクソン『ドクター・ストレンジ』(2016)の続編として正しかったのだろうか?
内的か外的か デリクソンの作家性と比較して
サム・ライミ作品における主題は通底している。ある時期からライミは、与えられた運命や才能のドラマとしてヒーローを描いてきた。責任と後悔がドラマの軸となり、選択の間違いをもう一度やり直す反復のドラマによって成長と再誕をスクリーンに刻印してきた作家だ。だから、本質的には彼は内省の作家だといえる。主人公の葛藤が分身によって表象され、ありうるべき自己としての色が強い存在が敵に設定される。それ故に『スパイダーマン』シリーズは等身大のヒーローを感情移入できる対象として描く古典となったといえるが、一方でそこには自閉性が内包されていたように思える。(だからこそ、ライミはホラー作品について後進に任せているようにも見える)
対して、『ドクター・ストレンジ』がMCUの中で極めて異質な作品だったのは、人間の内面とは無関係に存在する、世界そのものの不条理に軸を置くデリクソンの作家性によるところが大きい。デリクソンは人間が理解しがたい制御不能の存在に固執した、現代で最も優れた恐怖映画の名手の1人である。『エミリー・ローズ』(2005)から『NY心霊捜査官』(2014)に至るまで、人間性を否定する根源的な悪とそれに対峙する人間を描いてきた作家であり、それ故に『地球が静止する日』(2008)で興業から拒絶されたことさえある。そのようなデリクソンが、見たことない世界と条理なき出来事に相対する男の物語を、内面の葛藤を捨象した身体的な活劇として提示したのが『ドクター・ストレンジ』だった。だからこそ、死というどうしようもない出来事に対する主要人物の対話が重みを持ったものとして胸を打ったのだし、自らの痛みや個を抹消した上で成立する解決策をまるでギャグのように処理する快活なラストへと至ったはずなのだ。そして、デリクソンがジョン・カーペンター『マウス・オブ・マッドネス』(1994)を持ち出した時に念頭にあったのは、もっと人間には不可解な混沌であり、外部と対峙する覚悟だったのではないか。
そこまで考えた時、内的な想像力にのみ耽溺するマルチバースに足りないのは、他者を他者として留めておくべき慎ましさではないかと、「治療」という単語のおぞましさと共に想起してしまった。
前作のシュミラークルでしかない世界の表象を見ながら、世界の現状とコミックの世界観を融合せしめたマット・リーヴス『THE BATMAN-ザ・バットマン-』(2022)の興奮を反芻してしまう自分が妄想するのは、デリクソンが撮ったであろうあり得たはずの漆黒と青みがかった狂気だったことを、ここに告白しておきたい。
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主観から世界へ ー 草野翔吾『彼女が好きなものは』(2021)
http://yosntoiu.exblog.jp/32411437/
2021-12-16T19:00:00+09:00
2021-12-16T21:03:10+09:00
2021-12-16T16:28:45+09:00
unuboreda
映画 あ・か行
2021年製作/121分/PG12/日本配給:バンダイナムコアーツ、アニモプロデュース
異なる位相のマイノリティ出会いと別れを描く本作が、偏見を内包した上での差別意識と現状を描くという意識故に、いくつか議論すべき問題点を抱えていることは確かだろう。例えば、同じようにアニメと実写の方法論を取り入れながら、マイノリティがアイデンティティを確立する様を描き出すHIKARI『37セカンズ』(2019)が「あなた次第よ」という言葉に込めた明朗さを思い返せば、本作で自身の性的嗜好を否定し「普通」に固執しようとする主人公の在り方は旧来的な男性性に囚われすぎている。マイケル・リアンダ『ミッチェル家とマシンの反乱』(2021)が描いたような自明としての多様性とは無縁の世界がそこでは展開されている。
ただし、作家らしからぬ死を描いてしまった内田英治『ミッドナイト・スワン』(2020)のように本作を無理解として切り捨てたくはない自分がいる。というのも、本作は旧来的な価値観を含めて普通の人々が持つ差別意識を日本の現状として描いているように見えるからだ。さらに言えば、女性作家が紡いできた映画史を踏まえながら、その流れに逆らうような演出の先祖帰りを為した本作は、映画史に記憶すべき作品のように、自分には見えた。
女性作家が紡いだ映画史の踏襲
自らの同性愛を自覚しながら、「普通」の家庭を欲しいと欲する純の孤独と内面を描くために、前半部において、本作は大九明子の諸作を引用していく。『勝手にふるえてろ』(2017)と同様に無思慮な男性を渡辺大知が演じているのもそうだろうし、主人公が内省する様をモノローグを軸に展開し、アフレコの声との対話によって表象していく様は『私をくいとめて』(2020)のAとの対話を想起させる。物語における決壊点も同じく温泉に設定されることからも分かるように、本作は女性映画監督が用いた主観の表象を援用することで、若者の内面を内省的に描こうとしていく作品であると、ひとまず定義することができる。
そういった主観表象は後半で展開される山田尚子『聲の形』(2016)の語り直しへとつながっていくものであるし、山戸結希『ホットギミック ガールミーツボーイ』(2019)を彷彿とするSNSや携帯を模した撮影といった非映画的映像の導入や人工的な照明への固執にも表れている。前半部のクライマックスが、池袋の水族館でのスクリーンプロセスを用いたような浮き出た背景を背にした男女の切り返しに設定されていることは、人工に染められた私たちの淡い主観そのものを描く意識の表れだといえるだろう。だが本作が特異なのは、先に挙げた作品群とは明らかに異なる位相で映画を演出している点だ。本作は女性作家の主観性を踏まえつつも、むしろそこにあった生理やリズムを否定することで成立している。
空間への先祖帰り
現代日本映画において、モノローグ=ナレーションをカットのリズムに連動させていくことで、主観の色を濃くしていく営みが為されてきた。その急先鋒が女性の映画監督達であったことを私たちは記憶しておくべきだろう。大九明子や安里麻里の近作がそうであるように、モノローグとショットが連動しながらリズムを刻み、ある人物の主観と生理を表象していくことは、近年のトレンドだったはずだ。本来映画的ではない、映像とは剥離した語りが映画を駆動していくその営みは、日本映画独自の文脈として語るべき事項だろう。
彼女たちが一度は劇中でその主観を否定し別の「現実」を提示していたように、その生理やリズムの心地よさは、同時に独善性や視野の狭さを帯びたものであった。『彼女が好きなものは』の特質として、前半部でそういった演出スタイルを部分部分では踏襲しつつも、リズムよりも、あくまで空間に拘った演出とテイクを重ねている点が挙げられる。
例えば、二人が書店で出会った後、教室で両者が視線を交わすシークエンスでは、純と紗枝、そして紗枝に話しかける亮平の三角関係が空間的に視覚化される中、その他の生徒が各の生に没頭する様が後景に書き込まれることで、教室という世界が前景化されている。本作は純の主観世界に寄り添おうとはしていないのだ。だからこそ主観の表象たるモノローグも映画のリズムを形成するには至らないおぼつかなさを湛えているし、カメラは窓枠にはめ込まれた彼の姿を外側から切り取っていく。パンフレットで監督が語るように、月永雄太のカメラはあくまで世界における純の孤独を映し出す距離感を保っている。同時に、本作はカットがもたらす時間ではなく、空間を軸に人間関係と距離を描写していく。
これは草野翔吾の作家性であることは、『世界でいちばん長い写真』(2018)におけるパノラマ写真というモチーフや廊下での繊細な長回しなどを見れば了解されることだろう。だが、それ以上に、女性作家達の変遷をいわば逆流するように回顧する意図があるように思える。例えば、山田尚子が、当初空間演出に強い拘りを持っており、その結実が『たまこラブストーリー』(2014)だったことは記憶に新しい。だが、『聲の形』以降アニメーションの主観性に傾倒していくつれて、彼女はリズムとモンタージュの作家へと軸足を移していく。期を同じくして山戸結希もまた、『5つ数えれば君の夢』(2014)の長回しと空間表象への拘りを捨てて、イメージの坩堝であった『ホットギミック ガールミーツボーイ』を撮り上げている。モノローグとモンタージュによるイメージによって、身体が捉えた主観世界を捉えていく作風がトレンドであり、そこに比すれば本作は古風な印象を与えるだろう。だが、そうでなければ、本作の問題は描けないという強い意識が草野翔吾にはあったのではないか。
だから本作は、『私をくい止めて』の諸要素になるべく他者と世界に潜り込ませようとしている。温泉場での瓦解は文字通り他者同士の衝突として描かれるし、内省の声と思われた「ミスター・ファーレンハイト」はネット上に存在する他者として、文字通り純の言葉を否定し旅立ってしまう。『私をくい止めて』が心象風景とした海辺の書き換えが象徴しているように、本作はマイノリティの主題を、空間で生起される、あくまで実在する他者同士の衝突として描き出す。その上で、本作は『聲の形』が描いた問題を再び語り直すのだ。
同性愛と男性性の錯綜について
本作において問題とされるのは、二つのマイノリティの非対称性である。オタクと同性愛という異なる位相を重ねることに比重の不均衡があることは確かであり、前者であることの告白が後者が暴露されることとがイコールであることには当然なるはずがない。だが、その非対称性は『聲の形』が抱えていたそれよりも、錯綜としたものとなっている。
同性愛について自覚しながら「普通の家庭を築きたい」とする純は、見方を変えれば、男性性に苦悩しているように見える。性をスクールカーストに結びついて語る彼のナレーションに顕著だが、「普通」という規範を求める彼は「男らしさ」に呪縛された存在であり、だからこそ妻子を持つ男性に恋い焦がれる。同時に、その「男らしさ」故に好意を寄せてきた女性を傷つけてしまうし、心の聲だった存在を否定してしまう。本作が同性愛と男性性の問題を重ね合わせて描いており、それゆえに前者の立場からはき違えと受け取られても仕方のない描写が見受けれることも確かだ。ただ、そうすることで、日本人の「普通」とされる人々が抱える差別意識を描こうとしているように、自分には見えたのだ。だから、『聲の形』において無私の善性で癒してくれた永束のような亮平も、前半部で主人公に無思慮から身体の侵犯をする存在として描かれている。
同時に、そのような差別意識を発露する存在を単純な悪役にしないという意識もそこかしこに窺える。クライマックスである体育館のシークエンスで私は感動したのは、それまで差別意識を散々発露して「クソノンケ」と罵られていた近藤隼人に、スタイリストとしての技能と善意を披露するショットが差し込まれていたことだった。同時に、職業として身についた高圧的な言動や場への恭順を持たざるをえない存在として描かれてきた本作の担任教師が、基本的には生徒への気持ちと善意を持つことが体育館での振る舞いで描写されることも好きだ。こういった端役の一人一人に、0か1にしない、類型化しないという強い意志が感じられるのである。
偏見がこびりつく世界や私たちをそのまま映し出そうとしていく本作が、同性愛を前時代的に描いていると捉える人がいても不思議ではない。ただ、私は本作の在り方に自己の問題として差別意識を描き、他人事にもきれいごとにもしないという意志を感じ取ったし、閉じた主観で終わらせてはいけないと空間に傾斜する、いわば賭けに近いスタイルに強く感銘を受けたことを、ここに告白しておきたい。
ラストシークエンス、駅の看板と電車について
本作は体育館というパブリックな場にラストを設定せず、寂れた駅での男女の個人的な関係で物語を終える。体育館での両者の邂逅が『聲の形』の引用であるとするなら、本作のラストは『たまこラブストーリー』の駅の反復なのではないだろうか。『たまこラブストーリー』において、列車の到来によって男女の間にあった境界線が取り払われ、看板の風船が二人の将来を祝福していた。だが、本作での男女の間には列車は訪れることはない。華やかな看板を通り過ぎながら、二人は駅の片隅のベンチで、境界線を自ら越境しながら、祝福されなかったお互いの関係と自らの性=生の在り方について語っていく。「この世界でもう少し生きる」と語る純と紗絵を、カメラは少し遠くから世界と共に映し出していく。それが瀬田なつき『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』(2011、撮影・月永雄太)から『たまこラブストーリー』へと引き継がれた祝福とは別の在り方で、世界から隔絶された若者たちの希望を指し示していることに、心を動かさせざるをえなかった。傑作でしょう。
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現実と夢 ー マーク・ウィリアムズ『ファイナル・プラン』
http://yosntoiu.exblog.jp/32248102/
2021-07-31T19:50:00+09:00
2021-08-01T06:35:09+09:00
2021-07-31T19:50:33+09:00
unuboreda
映画 な・は行
2020年製作/98分/G/アメリカ原題:Honest Thief配給:ハピネットファントム・スタジオ
リーアム・ニーソンという俳優の特異性
70年代のアクション映画への旅愁と引用に浸りながらも、あくまで老いさらばえた男たちのドラマに徹したジャウム・コレット=セラ『ラン・オールナイト』(2015)が象徴するように、リーアム・ニーソンの一連の「アクション」作品はジャンルでは包括しきれない情感や哀愁を込めることに力点を置いている。彼が希有な俳優であるのはこういったジャンル映画に自らの人生を呼び込むことを厭わないからであり、喪失と虚無感を抱えながらも、あくまでもそれらと対峙するファイティングポーズを解かないジョー・カーナハン『THE GREY 凍える太陽』(2012)の陰影を彼は常に纏っている。近年はその傾向により拍車がかかっていることは、例えば息子と共に出演してい『Made in Italy』の前情報などからも明らかだ。本作もまた、ジャンル映画として適切なアクションシークエンスと共に、彼の人生が刻印された極めて優れたドラマが展開されている。本作が観客に受け入れられながらも批評家から酷評されたことは、批評家という卑近な存在がジャンルなどとという下らない枠組みに囚われて画面を観ていない証左として記憶にとどめておくべきことだろう。
偶有性と誤配の物語
著名な銀行強盗が恋をし、そこから贖罪を求め警察に自白をしたことで、多くの混乱をもらたす前半部は、印象こそ異なるがコーエン兄弟作のような「誤配」を軸にしたドラマとなっている。自白を受けたFBIは、本来赴くべきではない者たちを送り、彼らが横領を企画した結果、殺人事件が起こってしまう。この顛末は、人の意志(メッセージ)が思惑通りに受け取られることなく、人が思い描いたそれとは明らかに異なる事態へと転がっていく運命の残酷さを表象しているように思える。
そういった趣向は、およそ動機とは思えない銀行強盗を行った理由にも反映されている訳だが、重要なのはそのような偶然によって、人の命が危機にさらされることだろう。ニーソン演じる強盗が海兵隊で地雷除去の専門家だった、という設定が示唆しているように、トムというキャラクターは偶有性に翻弄され人生を狂わされてきた存在として描かれているのである。だからこそ、前半部のクライマックスは、彼が愛を告白するためにしたであろう行動が、結果として愛する人の命を奪ってしまう、という残酷な結末を迎えてしまう。そこには、人間の操作しえない運命の残酷さが横たわっている。(冒頭のシークエンスもそういった展開の伏線になっている。彼女は彼の身代わりなのだ)
重要なのは、そこからリーアム・ニーソンの人生が物語に色濃い影を落とす点だろう。彼は、現実には行わなかった蘇生を行うのだ。
ありえたはずの未来という夢
リーアム・ニーソンは愛妻家で知られており、その別れが悲痛なものだったことは、彼の映画に強い影を落としている。妻であるナターシャ・リチャードソンがスキー場での事故で脳死状態になった際、彼は生前の約束を守り、延命措置をしないで彼女を天国へと送った。当然、彼は彼女を殺したという罪の意識に苛まれ、苦しんだはずだ。本作は、『THE GREY 凍える太陽』がファーストシークエンスで妻の幻影として呼び込んだその苦難の記憶をより具体化して呼び起こす。一度脈が途切れた愛人を病院に連れていく、という展開は、ニーソンにおけるもう一つのありえたはずの未来となっているからだ。本作におけるヒロイズムとは、そのような虚構として顕現される。それを映画的な夢といってもいいかもしれないが、一方でそこには拭いきれない現実の残酷さの影がさしている。
それを象徴するのが、ニーソンが英雄となる手段であろう。地雷を無力化してきたはずの彼が、地雷を作る側に回ることは、ある種のアイロニーと悲哀が込められており、故に一命をとりとめたはずの恋人の前で爆弾をつくるニーソンは、恋人とは空間的に断絶した孤独な存在として描写されている。矛盾を抱えていることの自覚は、ヒロイズムに一抹の影を残しているのである。その隠喩の両義性がもっとも現れているのが、犯人をつかまえるための爆弾である。逃走車に地雷のシステムを用いた爆弾を設置したことで、彼は復讐をはたすことになる。そのとき、その地雷に起爆装置がなかったとFBIに告げられた彼は、失敗してしまった、と語る。
この描写は、一見すると、彼が見せかけの爆弾によって敵を取ったことを示しているように見える。それは、偶有性=地雷をコントロールできるようになったヒーローとしての彼を象徴するはずだ。だが一方で、このやりとりの中で、彼が本当に失敗した可能性を棄却することはできないのだ。だから、彼はまだ偶然と運命に翻弄された存在のように解釈することができる。そもそも、地雷を否定してきた存在が、地雷を作る爆弾魔になり下がるという矛盾は、犯人が捕まった後も解消することができない。こういったヒロイズムの傍らに大きな虚無が横たわっているのは、この映画が運命に翻弄される市政の人々が抱く夢のはかなさを見ているからだろう。それは交換可能な相似性としてドラマに刻印されてもいる。
相似のドラマ
本作では、相似するキャラクターと過ちをやり直す、という展開が多く盛り込まれている。たとえば、離婚した際に、犬を引き連れたFBIの男は、同じく離婚を経験しているトムの恋人を守ることで、自らの過ちを回復させていく。この結実として、二人によって本来あるべきだった交換が為されるという展開は、ささやかながら強く心を打つものとなっている。もう一つ、犬のつぶらな瞳とニーソンのそれとが重ねられることで、FBIとニーソンの関係性が暗喩されていることもほほえましいが、ニーソンのもう一人の分身がどうなったかを私たちは思い出したい。
汚職に手を染めた警官の二人組の中で、家庭を持つラモン・ホール捜査官は、自らの行いに懺悔し、贖罪のためにニーソンの行動に手を貸す。その動機は最初にニーソンが自白したときのそれと相似をなしている。だが、彼はニーソンに手を貸した結果、命を落とすことになる。自らの分身であるはずの若者の躯を見つめていたニーソンは、もう一つのあり得たはずの現実を自覚していたはずなのだ。それは同時に、購うことのできない自らの罪への意識を意味してもいる。
だからこそ、映画はラスト、恋人との邂逅の瞬間に映るニーソンの表情を、ジャウム・コレット=セラ『フライト・ゲーム』(2014)のラストのような明るさではなく、ノワール映画にも出てきそうな黒によって染めるのだ。この描写は、ここで描かれた夢のはかなさを象徴するだけでなく、ニーソンが抱え込んできた苦悩を画面に刻印しようとせんとする誠実さの表れに他ならない。ドラマともアクションとも括れない『ファイナル・プラン』が市政の人々の心を打つのは、この悲痛さを踏まえながらも、それでも夢を語ろうとする強い意志であり、私は本作の端的な誠実さを支持したい。
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未来は今 ー クロエ・ジャオ『ノマドランド』
http://yosntoiu.exblog.jp/32121313/
2021-05-05T21:30:00+09:00
2021-05-05T21:30:15+09:00
2021-05-05T21:30:15+09:00
unuboreda
映画 な・は行
2020年製作/108分/G/アメリカ
原題:Nomadland
配給:ディズニー
ミドルショット=中間の消失
フランシス・マクドーマンドの疲労を湛えた身体を映し出したファーストカットから通底しているのは、彼女の苦悩が刻み込まれた顔面に寄り添いながら、彼女の半径に映る世界のみを捉えていくカメラの徹底であろう。そこに表れる人物たちもクローズアップによって切り取られ、まるで彼女と他の人物は分断されているかのような印象を映画は与えている。というのも、ハリウッド映画では本来挿入されるべきエスタブリッシングショット、切り返し会話している人々が同じ空間を共有していることを示す引きのショットがほとんど除外されているからだ。アマゾンでの食事シーンがそうであったように、空間を示す引きのショットは会話の後において提示されるのみで、ほとんどその機能は失ってしまっている。それ故に、例えば前半でのノマドの集会のシークエンスでの薪を囲いながら自己の内面を独白する人々は、映画のショットにおいては空間を共有してはいないのだ。また、車の狭い空間の中でいくら移動したとしても、顔に象徴される自己のみが映るばかりで、移動にともなうはずの空間の変化も見られない。観客である我々が目にする空間は、観光地としての名所での記号的な画面とロングショットによる情景だけで、ミドルショットはほとんど本作では採用されていない。中間が存在しないのだ。
だから、この映画がアカデミー賞を撮ったという革新を私たちは重く受け止めなければならないと個人的には考えている。その革新は世間ではアジア人の新人による快挙として語られるかもしれない。だが、本作の受賞は社会派アジア映画が栄冠を勝ち取った昨年の快挙をなぞるようでいて、本質的には全く別の事態なのではないだろうか。
空間や間といった時間も乏しい、他者との関係性ではなく自己の内省へと沈み込んでいく極めてSNS的な作品がハリウッドの伝統を塗り替えてしまったことと、そしてその事実に多くの人が気づいていないということが、私たちと映像表現の関係が過去とは別のものに変容しているという事実を示唆しているように思えてならないのだ。
SNS的な、あまりにもSNS的な
本作は驚くほど夥しい属性に彩られている。ロードムーヴィーやテレンス・マリックといった映画史の引用、高齢の白人女性と放浪する非正規雇用者の孤独やそれを利用する大企業といった社会派映画としての属性、アジア人の新人監督とセミドキュメンタリー方式といった手法。様々なハッシュタグに彩られた本作が、極めて美しい情景の表出という見栄えのよい演出を軸にアカデミー賞の栄冠を収めたことに、納得はしないは理解はできる。
そこで展開されるのもまた、記号社会的であり、SNS的な生活の在り方であった。観光地という作られたモニュメントを巡りながら、日々の労働と消費をこなしていき、写真と端末を目を向けて、自らの内面と喪われてしまった過去=オリジナルに思いを馳せる。現状が何か満たされない不全なものであることを理解しながら、具体的な対象や目標が提示されることもない。分断され、記号とメディアに囲まれながら、内面と過去のイメージを求めてさまよう。現在がなおざりなのは、頻出した食事のシークエンスの魅力のなさに表れているだろう。まるで押井守が描いた世界のような反復されるだけの日々。そこに未来は影さえも姿を見せない。物語という定型が現状がよりよいものになるという願いや願望の反映であるとすれば、本作が示しているのはハリウッドが多様性を肯定した事実ではなく、社会の変革を手放したという諦念ではないか。
未来の消失
事実、本作の登場人物たちと同様に、私たちは未来の描き方を忘れてしまっている。濱野智史が『アーキテクチャの生態系』(2008)で指摘しているように、現在が記録され続けていくインターネットは時間の在り方を一変させてしまった。記録された過去と属性が全てを覆っていき、敷き詰められた先行情報は未来を想定されたコピーに変えてしまった。実際、若年期の終わりに差し掛かった自分もまた、自己の人生を彩りあるものとしてどう思い描けばいいのか、よく分かっていない。
フィクションにおいても「未来」が喪われてしまったのは当然なのかもしれないと、帰り道、マクドーマンドのように一人でポテトとハンバーガーを頬張りながら思った。そのとき、あの鳥の群が頭に浮かんだ。癌を患ったノマドの一人が、主人公に自らが目的地についたことを伝えるために送った、確かLINEでの映像である。あの矮小化された風景に映る、ヒッチコックを彷彿とさせる鳥の群れが、本作を象徴しているように思えた。現代の表裏一体の希望と絶望が描かれた作品なのだと理解はした。けれども、空間も未来も見られない映画に、納得はできなかった。
もう一つの放浪についての余談
そう考えた後日、同じ名前を冠したあるアニメを、固唾を飲んで見守っている自分がいた。陰謀論に近い飛躍した連想、つまり暴論ではあるのだけれど、自分にとって無関係と捨てることはできなかったのだ。森山洋『NOMAD メガロボクス2』である。『明日のジョー』のリメイクとして何故かSF設定を取り入れた前作が、海外からの人気を受けて第2期が決まったという事実にも驚かされたし、その物語展開も見逃せないもののように思える。移民問題や災害といったアメリカにとっての現在をちりばめながら、中年期のボクサーが喪ったヒロイズムを描く本作は、『ノマドランド』と同様の問題、「未来」或いは「希望」を私たちがどう描くべきなのか、という主題を抱えている。
『呪術廻戦』や『僕のヒーローアカデミア』をはじめとして少年マンガは現在の状況を踏まえつつ、ヒロイズムの在り方を模索している。『ノマドランド』とそれらを見比べてみて、少年マンガの現在に肩入れしたくなるのは、自分がまだ物語=虚構を信じたいのかもしれない。例えそれが気休めの鎮痛剤にすぎないとしても。
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王の帰還 ー ポール・W・S・アンダーソン『モンスターハンター』(2020)
http://yosntoiu.exblog.jp/32069317/
2021-04-02T00:39:00+09:00
2021-04-02T22:00:29+09:00
2021-04-02T00:39:02+09:00
unuboreda
映画 ま・や行
2020年製作/104分/アメリカ
原題:Monster Hunter
配給:東宝、東和ピクチャーズ
カーペンターの最も優れた…
近年こそ「ゲーム的な映画」という揶揄ばかりが目立つようになってしまったP・W・Cアンダーソンだが、私たちは、彼がデビュー当時、新世代の最も優れたジャンル映画の担い手であったことを忘れてはならないだろう。カート・ラッセルを主演に迎えた『ソルジャー』(1999)はカーペンターの演出効率に最も近接しえたアクション映画の傑作であったし、サム・ニールを軸に据えた『イベント・ホライゾン』(1997)もここ二十年の映画の在り方を予見していたエポックとして記憶すべき作品だ。シュミラークルの世界を顕現するCGIが人間性を否定する恐怖を描いた先見的な傑作抜きに、あの禍々しきアレックス・ガーランド『アナイアレイション 全滅領域』が花開いたとは到底考えられない。少なくとも、ジャンル映画の愛好家にとって、彼が王になりうる新鋭であったことは確かだ。『モンスターハンター』を観ている内に、そんな記憶がヒシヒシと思い出されたのは、決して久しぶりのハリウッド大作だから、というだけではないはずだ。
設定と境界の意味
部隊名にジョン・カーペンターのデビュー作である『ダークスター』(1981)を銘打っていることからも明らかなように、本作はジャンル映画に回帰するという強い意志を感じられる作りになっている。同時にそれは『イベント・ホライゾン』から『アナイアレイション』への返歌のような趣もある。『モンスターハンター』という題材には本来は存在しない現実世界と異世界との境界は、幾たびも反復された現実と虚構、アウラある身体とCGIという虚構との対立を想起させる。だからこそ、前半部で描かれるのは、現実世界の軍隊の潰滅という人間性の否定なのだ。巨獣や虫(バグ)による襲撃によって、為すすべもなく人間は瓦解され、浸食されていく。主人公であるはずのミラの鼓舞も即座に否定され、隊員たちが『アナイアレイション』のように風景=世界の一部に取り込まれていく様はどの『バイオハザード』シリーズよりもグロテスクなものとなっている。ジョセフ・コジンスキー『トロン・レガシー』(2010)を彷彿とさせるテクノが流れる異世界とは、現実の立地を喪い、炎と煙といったパーティクル=粒子が人の在り方を浸食してしまうCGIという現在なのだ。そこではミラでさえ、身体を脅かされることの恐怖にちぢこまることしかできない。
他者の肉体とイメージ
本作が素晴らしいのは、そのような『アナイアレイション』のような世界観に対して、私たちの在り方を映画の文法によってまざまざと見せつけている点だろう。その答えこそがトニー・ジャーという突出した身体性であり、サイレント映画という形式だ。そういった世界の中で、個と個がまみえ、絆を結んでいく。この一連の下りをセリフなしで流れるように演出していく語りこそが彼の真骨頂であり、カーペンターの後継者と呼ぶべき手腕が遺憾なく発揮されている。トニー・ジャーとミラ・ジョヴォヴィッチが格闘で殴り合うシーンのばかばかしさもまた『ゼイリブ』(1988)の延々と続くプロレスを彷彿とさせるが、ウォシャウスキー兄弟『マトリックス』(1999)に至る流れを踏まえつつ、今一度身体性を取り戻さんとする営為がそこに読み取れる。加えて、両者にはそれぞれ映画史が描いた白人と他者の関係性が仮託されている。
トニー・ジャーが演じるキャラクターには、白人にとっての他者が何重にも重ねられている。褐色の肌と弓を使う様はインディアンを想起させるし、武術の達人であり常に像に対して礼拝を欠かさない様はオリエンタリズムを纏ったアジア人の様相を呈している。公開前の差別にまつわる発現が取り沙汰されたこともあり、そこに差別性を見出す解釈も出てきている。
だが、この両者のやりとりがある一定の知性によって演出されていることは、アメリカ映画において定番である「HOME」にまつわるやりとりからも明らかだろう。ミラにとって心の拠り所である「HOME」は、トニー・ジャーにとっては存在せず、彼の拠り所は、別の何か=宗教的な偶像である。最初はそれを否定していたミラも、最後にはそれを尊重し、祈る様が三度の反復によって描かれている。「餌」や「チョコレート」のやり取りを含めて、相互的な関係の中でも異質性が保たれているのだ。少なくとも、本作はイーストウッド『硫黄島の手紙』のように自己=アメリカと他者=アジアを同一視する欺瞞を抱えてはいないし、アジアを馴致できる存在のように捉えた白人の傲慢の体現たるジョーダン・ボート=ロバーツ『キングコング 髑髏島の巨神』(2017)のような愚を犯していないように見える。だからこそ、カーペンターの映画が常にそうであったように、絶望的な世界とCGIという巨獣に対して、たった二つの個が自らの身体だけで立ち向かっていく。
世界への反抗としての生命
技術と制度に翻弄され、消費されるちっぽけな個。その個の在り方や意志を世界と対立させ、どうしようもない個を肯定しようとしたのが『ダーク・スター』だった。その意志を引き継ぎ、自分がもっとも美しいと思った身体に生命を仮託して、閉塞した世界の在り方と対峙させる。技術が人の未来や在り方を規定し、私たちが自らの生に希望がもてなくなった現状を見据えながら(だからこそ、本作のクライマックスが現実と虚構の行き来によって成される)「責任」などという使い古した大文字の抑圧ではなく、個と個の結びつきという小文字に希望を見いだしていく。映画の文法から逸脱する奔放なカメラワークも含め、世界のシステムへの反抗であるとするなら、本作はまさしくカーペンターという玉座の継承であろう。(注1)
CGの怪物とミラ・ジョヴォヴィッチを西部劇のように対峙させた後、トニー・ジャーにインディアンを重ね合わせながら弓を放たせる本作が、新時代の活劇でなくて果たして何であろうか。
批判されることを承知で書くが、相容れない他者との共闘を描く可能性を諦め、大人になったと嘘吹きながら自閉的な問答とつじつま合わせに終止した老人の戯言よりも、このバカバカしいまでに単純な肉体言語にこそ本来批評されるべき価値があると、自分は信じている。(注2)
(注1)とはいえ、たとえば山崎紘菜がリオレウスを警戒して前を見ていた時に、背後に炎が上がって襲来がはじまっている様を1カットで撮る手つきなど、空間設計や要所の間は決して外してないことは付記しておきたい。
(注2)あの作品を絶賛している方々は、果たして前作の価値を本当に理解しているのでしょうか?自分ははっきりと「落胆した」と書いておきます。後、これは塚本晋也にも感じていたことだが、モンタージュは成熟と共に捨てるべき技法なんだろう、とも思った。
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象徴としての陰画 ー 清水崇『樹海村』
http://yosntoiu.exblog.jp/32003765/
2021-02-20T00:38:00+09:00
2021-02-20T08:30:40+09:00
2021-02-20T00:38:13+09:00
unuboreda
映画 さ・た行
2021年製作/117分/G/日本
配給:東映
前作とあまりにも違う作品の肌触りについて
『樹海村』のほどんどオフビートに近い緩やかなカットと断片的な表象で思い出したのは、黒沢清『CURE』(1997)のブルーレイのコメンタリーでの高橋洋の言葉だった。
サスペンスというジャンルの定型に沿った前半部から、曖昧なイメージと象徴の映画へと変貌していく『CURE』に対して高橋は「前半はアメリカンだが、後半からヨーロピアンになる」と評している。説明が為されないままイメージが連ねられることで、解釈が一様に収束されない、統合性が喪われたような感触が『CURE』を傑作たらしめている。そのことを思い起こすだけの強度が、この映画にはあるように感じた。
ただし、『樹海村』は『犬鳴村』が持っていたジャンル映画の快楽とは距離を取っているように思えた。高橋洋の言葉を借りるなら、アメリカンとアジア映画の折衷だったはずの前作から一変して、本作は徹頭徹尾ヨーロピアンの映画となっている。しかも、『呪怨 呪いの家』に引き続いて90年代のJホラーが持っている陰湿な暴力を引き継いでいる。結果、まるでラース・フォン・トリアーが伊藤潤二を材に撮ったような、静謐で陰惨な画面が続く映画となってしまっている。
何故ここまで前作から変化したのだろうか。これは推測だが、一つはヨーロピアンホラーが日本で受容されつつあった土壌が影響しているように思える。というのも、ルカ・グァダニーノ『サスペリア』(2018)やアリ・アスター『ミッドサマー』(2019)など、宗教的なイメージと象徴の映画がその不可解故に映画ファンの間でヒットしていたからだ。映画美学校出身の中でもとりわけアルジェントの影響が強く、ファンタジー要素を入れたがる清水にとって、先の映画群は「ここまで説明しなくても通じる」という見立てになったのではないか。だからこそ、『樹海村』にはホドロスキーへの憧憬をちらつかせながら、説明セリフをまくし立てていた『こどもつかい』での躊躇が全く観られない。そのような象徴的なヨーロピアンのスタイルで頻出するのが、「コトリバコ」という説明されない呪物なのだ。
『呪怨』の形式と『犬鳴村』の主題
『樹海村』の設定と物語構造は『犬鳴村』と通底している。過去に虐げられ追いやられた者たちが存在し、その地縁に近い登場人物が否応がなく呪詛に取り込まれていく。その過程の中で日本の暗部があぶりだされるという主題はほぼ変わっていないように見える。
だが、『犬鳴村』が部落差別やダム建設といった具体的な社会事項を踏まえていたのに対して、今回の樹海に追いやられた人々は抽象的だ。子どもや障がい者、老人など「社会的弱者」と呼ばれる存在が追いやられた場として登場する『樹海村』には、歴史的な背景が薄くしか感じられない。さらに、その象徴たる「コトリバコ」についても、その性質が全く説明がなされない。インターネットで度々語られた存在であるにも関わらず、どんな由来があるのか、何故置かれるのかが全く描かれないのだ。原因や因果が説明されないまま唐突に置かれたそれは、人々を理由もなく巻き込み、取り込んでいく。唐突に人々の死が反復される映画の構成は、ビデオ版『呪怨』への残酷な先祖帰りの様相を呈している。
その不可解な陰鬱さに困惑する前に、私たちが思い出したいのが『呪怨』が日本の男性社会のメタファーであったという見立てであろう。だからこそ、この映画を語り部として設定されるのもまた、国家の現状を象徴主義によって表象していた『哭声/コクソン』(2016)のイメージを引き連れた國村隼なのである。
日本の表象としての呪い
異論があるかもしれないが、私は『哭声/コクソン』を近代以降の国家主義がけしかけた対立によって、個人が犠牲にされる様が描かれた作品だと捉えている。(注)そこでの超常的なイメージを引き継ぐように撮影された國村は、象徴としての役割も纏っているように見える。「樹海村」が描いているものもまた「日本の暗部」、社会的弱者を切り捨ててきた社会の不寛容さであろう。
二人の姉妹の内、霊感が強い妹は引きこもりであり、そこで樹海村の人々に呼ばれていると姉に告白する。彼らの呼び声とは、ある種の弱者への転落や希死願望、不安による精神の瓦解といった没落への誘いなのである。そして、そのような恐怖は誰にも理由もなく降りかかり憑く可能性がある。故に、象徴する呪物たる「コトリバコ」もまた、理由なく唐突に訪れなければならない。私たちは安易に転落し、死や狂気に駆られるような、荒廃した社会に生きているのだから。物語の最初、コトリバコはシングルマザーの下に降ってきたことを私たちは思い出したい。
自己責任と村社会という日本の病
そういった不安や転落に対して、社会がどうしてきたのかも描写されている。度々反復されるコトリバコへの男たちの解釈は日本の社会の病理を象徴しているように思える。コトリバコを祓おうとした霊能力者は、最初コトリバコを「気」の問題だとし、若者たちの危機を和らげようとしていた。その後、精神科医もまた、不安は自己の問題だとして、ことの本質を見ようとせず、死んでしまう。
明らかな外的要因があるにも関わらず、自己の内面の問題として全てを処理する姿勢は、たとえばコロナ下の危機的状況においてもマインドセットを重視する経済界の在り方などにも表れていたはずだ。コトリバコの驚異に晒された人々とは、環境や外的な論理を見いだすことを許されず、自己責任として全てを内面の問題として捉えさせられる弱者としての私たちの投影なのである。
同時に、『樹海村』には日本のムラ社会がセーフティネットではなく、むしろ弱者を切り捨て排斥していくシステムとして機能してきたことも反映されている。内藤瑛亮が『ミスミソウ』(2017)、『許された子どもたち』(2020)と繰り返し描き続けた日本の閉鎖性を引き継いだ展開は、奇しくもコロナ下の不安と人々の断絶が刻印されているかのように見えなくもない。
恐怖映画は、現実の社会において見ないようにされてきた問題や弱者を怪物として表出することで可視化し、現実の秩序に疑問をなげかけるジャンルである。故に、現実の問題に解決の糸口がないように、怪物は調伏されてはならない。誰もがコロナにかかり理由もなく何かを喪ってしまうように、深淵は私たちのすぐそこにあり、見つめているのだ。
配信文化と幽霊的身体
中田秀夫『事故物件』(2020)や寺内康太郎『心霊マスターテープ2』(2021)など、昨今のJホラーはYoutuberをはじめとした配信文化を積極的に取り込もうとしている節がある。実際、その物語展開の中で、配信者が犠牲になることも少なくないのだが、そのいずれの作品においても、配信者自体が幽霊的なアイデンティティを持つという事実が露呈しているように見受けられる。配信で一山当てようとすることで、自らの身体をネットという危険な海に晒し、何かあれば回復不可能な傷を負い、泡となり消えていく。それでも、自らが生き残るために映像を発信し、命を投げ出さなければならない配信者は、私たちの貧しさを表象しているようにも見える。
そのような身体を抱えながら、この世界で私たちの救いとなるものは果たしてあるのだろうか。姉妹と親子の感情のやり取りを重視する『樹海村』の物語展開は、他者への情感と想像力に救いを見出しているように見える。例えそれが、俯瞰された神の視点からは見えなくなってしまう、ちっぽけな存在にとっての一時しのぎに過ぎないとしても。
(注)『哭声/コクソン』のネタバレあり
霊媒師が韓国という国家を、國村隼が敵国としての日本のイメージを、そして女の幽霊が土着的なパターナリズムをそれぞれ象徴している。国家が敵国との対立を家族という概念を楯に煽ることによって、個人が搾取と犠牲の対象となっていく様を動的な撮影によって活写した傑作であった。
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母性という呪い ー 西村沙知「椎名林檎における母性の問題」の瑕疵について
http://yosntoiu.exblog.jp/31956875/
2021-01-21T22:21:00+09:00
2021-01-22T00:01:17+09:00
2021-01-21T22:21:30+09:00
unuboreda
評論
去年もすばるクリティークに『呪怨 呪いの家』と京都アニメーションの事件について論じたもので投稿したのですが結果はご覧の通り。(ただまぁ、杉田俊介氏に読んでほしいと思って投稿して、反応があっただけ良かったとも思いましたが。今の『群像』に投稿する気は全く起こらないしね)
だから、今回の文章は負け惜しみであることを了解した上で読んでくださるとありがたいです。
母性という呪い ー 西村沙知「椎名林檎における母性の問題」の瑕疵について
敗北を確認しに『すばる』を買い、すばるクリティークの受賞作と選評を読んだ。
受賞作である西村沙知氏の椎名林檎論は素晴らしく、受賞は納得の出来だった。批評するのが難しい音楽を、歌詞と音、先行論といった多角的な方向から語っていく前半部は、詩的な逸脱を含む文体の艶やかさも相まって美しく、椎名林檎の個々の作品を語る手つきは具体性を持ちつつ独特の軽やかさがある。加えて、冒頭の作品の入りも様々な問題意識を盛り込まれており、自分の文体の脆弱さを省みるには充分な文章であった。
ただ一点、審査評を読みながら「それは違うのではないか」と思った箇所がある。それがタイトルにも挙げた「母性」の問題の取り扱い方と、8章の評価だ。
母性の問題
最終候補作の五人中三人が「母性」を問題にしていたことに対して浜田氏が「時代もあって面白い」といい、杉田氏がPCと対比的にとらえていた。けれど、そもそもの話「母性」の問題自体が「サブカル批評」の構図に依拠したものである以上、今批評を書こうとする若手にとって、社会情勢関係なしに宇野常寛『母性のディストピア』の影響が殊更に強かったことの現れでしかない。事実、ネットワーク社会を「母性」としてなぞる西村氏の論もまた、『母性のディストピア』を踏まえた上での現代に対する読解としての側面が存在している。
だが、『母性のディストピア』を読んでいた時から常々疑問に思っていたことだが、「母性」という立て方自体に具体性があるようには到底思えないのだ。現在のネットワークに母としての包括的要素がどこにあるのか、或いは「母」という役割が現在の家庭においてどれだけ機能しているのか、と考えてみれば、多くの疑問が残るはずだ。せいぜい、他者依存的な日本のムラ社会の言い換え程度の意味しか見いだせないだろう。「父」と「母」という二項対立自体が批評が持ち出した象徴的な虚構なのだ。では何故批評は「父」ではなく「母」が持ち出されるのか。或いは何故日本的なムラ社会、と考えずに母性原理社会と銘打つのか。
私の見立てはこうである。批評というジャンルは日本の社会を「母性」と総括することで「具体的な攻撃対象、支配対象が存在しない社会」として読み替え、それによって具体的な政治性を忌避してきたのである。
母性という呪い ー 批評と政治について
宇野常寛が、初期の論考において、東浩紀のネットワーク論の影響下にあったことを否定する人はいないだろう。同時に『ゼロ年代の想像力』が前提としていたのは、宮台真司が展開した「終わりなき日常」という議論であった。それらは消費社会という生活基盤が崩れないことを暗黙の了解とした議論であり、社会システムを前提として肯定していたのである。
故に、彼らに共通する態度は、資本主義と社会システムに対して非を唱える政治的な社会活動に対する冷笑であった。「左翼」といったレッテル貼りを繰り返していくことで、批評は政治に対して、自らを相対的に高尚な活動だとする植え付けを行ってきたし、フェミニズムと相容れないホモソーシャル性もそこに起因していたといえる。
批評がある時期から持ち始めた、政治に対する蔑みと忌避が「母性」という社会の捉え方と実に相性がよかったことはいうまでもない。なぜなら、父権を認めるということは、具体的な権力や支配者層を想像することに他ならないからだ。metoo運動のスタートがワインスタインという権力への異議と失墜を求めたものだったことを思い出したい。確かに、政治活動が持ち出す正義には、他の在り方を認め自己の思想の不全について自省する可塑性がない。ある種の権力闘争である以上、別の父権や抑圧へと反転する可能性も否定できない。その逡巡として批評が存在するというのも理解できる。だが、一方で批評が具体的な問題を無化していくことで、現実の権力構造をより強化するという危険も無視すべきではないのではないか。ムラ社会が母性と置き換えられることで、父権の煮凝りのような村長の存在が無視されるように。
西村氏の論考は、逡巡の中で計らずともPCとフェミニズムにたいして「母性」を持ち出しており、審査員はそれを賞賛している。だが、本当にそれでいいのだろうか。むしろ政治性を距離を取る姿勢は、批評というジャンルが持つ病理そのものではないのだろうか。
事実、椎名林檎の政治的な危うさをなぞるように、8章における西村氏による社会についての論じる手つきの節々にも、この問題が表れてしまっている。「政権も都政も、良しにつけ悪しきにつけ、市民の生活に介入する術をもたない。」「我々はもはや家族問題には苦しまない」・・・。8章だけ「本当に?」と疑問付がつく言葉が目に飛び込んできては読解を阻害していく。共産主義的な懲罰主義を提案し続ける政治家や、貧困にあえぐ子ども達といった具体が不可視のものとして隠蔽されていくことで、批評は現実との接地を喪ってしまっているのだ。
・・・殊に、椎名林檎という対象を論じるために、具体的な政治性の喪失は致命的であるようにも思える。ナショナリズムの問題があるからだ。彼女のオリンピック参加を「母性原理」と結論づけることは真摯な思考の結実のように見えてその実、音楽の政治利用について考えることの放棄にすぎないのかもしれない。結論の弱さも、論点のすり替えに依るものである気がしてならない。
批評にとって「母性」とは、父権を語ることを回避するための魔法の言葉であり、呪いである。私たちは批評を再生するためには、このような言葉遊びに脱して、具体的な社会問題との接地を模索しなければならないのではないか。少なくとも、『遅いインターネット』で現実社会における政治活動を模索していった宇野常寛は、先の論と審査員の評価を読んで、ほくそ笑んでいるのではないだろうか。
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年間ベスト2020
http://yosntoiu.exblog.jp/31924291/
2021-01-02T12:06:00+09:00
2021-01-03T19:50:29+09:00
2021-01-02T12:06:41+09:00
unuboreda
映画(雑談・一言レビュー)
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
・今年、私生活も世界もあまりに多くの変動がありすぎてズタズタでしたが、まぁまだ生きて仕事もあるので良しとしよう。
・去年は、見逃した映画が多すぎて死にたい。どうしてもシネコンと配信中心になりますが観られるものをちゃんと観て答えていけたらと思います。
・ドラマシリーズ込みなら三宅唱『呪怨 呪いの家』、スコット・フランク『クイーンズ・ギャンビット』、佐藤信介『今際の国のアリス』の3作をどこかに入れます。スコット・フランクは新作の話聞いて書いたものが的外れでなかったと少し安堵した。
1、兼重淳『水上のフライト』
ロケ地の1つが自分が来たことのある場所だと気づいてからがもう駄目で、ずっと感情移入しっぱなしで泣き続け、実際観た後心が軽くなったので映画って凄い。個人的な心情と状況が重なっての1位。ベタなほど『ロッキー』であり、市井の人々を映した他愛のない映画なのですが、その市政の登場人物一人一人への視線もきっちりと継承している。後、カヌーという題材とロングショットが映画で描くスポーツとしては微妙ではあることを、表題によって肯定しているのも良い。
2、行定勲『劇場』
山崎賢人の「声」が最大限生かされている。山崎賢人、佐藤信介『今際の国のアリス』でも自転車に乗る人だったけど、『夏への扉』でもそうだったりするのかしら。
3、大庭功睦『滑走路』
インタビューで監督が『寝ても覚めても』に言及していてまぁそうだよなと思ったのだけど、濱口竜介が脚本を書いた『スパイの妻』も『キュプロクス』にかなり似ていたのでちょっと面白かった。
4、三木孝浩『思い、思われ、ふり、ふられ』
色々な意味でまともな人が撮った『ホットギミック』。今年、どう未来について考えるべきか、或いは過去をどう捉えるか、という作品ばかりをベスト10で選んでしまっているのですが、若者にむけて未来を示す映画として一番純然で誠実だと思う。
5、HIKARI『37セカンズ』
あ、こっちで告知を忘れていましたが、『アニクリvol.4s アニメートされる〈屍体〉』に寄稿しております。女性の映画監督がどうアニメーションを踏まえて表現しているか、という昨年の日本映画論になっておりますので、良かったら通販で買って読んでください。
萩原健太郎もそうだけど「日本映画」を外側から捉えた作り手が、アニメーションと実写の垣根を取っ払った演出で新しい風を吹かせていたのは、新たな希望として記憶しておくべきではないかと。後、ネットフリックスで配信された作品などの受け入れられ方も色々考えさせるものがある。三池崇史『無限の住人』の評価を引き継ぐような佐藤信介『今際の国のアリス』のヒットもそうだけど、『バキ』に関してはホントに驚いた。『鬼滅の刃』以上に考察すべきだと思っている。
6、グレタ・ガーウィグ『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』
『リズと青い鳥』を経由した後の山田尚子が『けいおん!』を撮ったらこんな風なのだろうなぁ、という気持ちで観ていた。つまりずっと心地よい。『マンク』を考えるときに、『市民ケーン』と同様に本作も比較すべきかなと。
7、沖田修一『おらおらでひとりいぐも』
丁寧に室内でフレーム内フレームによる演出を重ねながら、イマジナリーフレンドと主人公を独特な空間と距離で表象している。だからこそ、現実と空想、個と世界とが溶解し、接続されていくラストが美しい。『スパイの妻』と対というか、『スパイの妻』が否定していたものを肯定しているように思えた。
8、岩井俊二『ラスト・レター』
『ジョゼと虎と魚たち』に足りないものが、トヨエツが代弁する愛の断絶であるように思えて、あれを語りながら後半全力で感傷の肯定に振り切るとこが他の若手との業の違い。
9、清水崇『犬鳴村』
今年のJホラー楽しかったなぁ…。高橋洋『彼方より』や英勉『妖怪人間ベラ』と迷いましたが、一番観に行く前と後でのテンションが違ったこちらを。
ただ『樹海村』の予告は死ぬほどつまんなそう…なのですが、コトリバコといったら『オカルティックナイン』なのでその辺の使い方がどうなるか楽しみにしている。
10、クリント・イーストウッド『リチャード・ジュエル』
今年ジェンダーやマイノリティを主題にした映画が多い中、インセルや男性性の問題に真っ当に向き合った本作が一番響いた。
前半のリチャード・ジュエルと学校の校長とのシークエンスで、発した本人が覚えてもいないミッキーマウスについての言葉を繰り返し気味悪がられ、コミュニケーションを取ろうとすればするほどどんどん空回りしていくリチャード・ジュエルを端的に映す筆致に、自分も含めた弱者とその置かれている状況を観た気がして、画面から目を離すことができなかった。
個人とは往々にして欠陥を抱えていて、弱い存在だ。論理的に完璧な人間などいないし、欲望はだれしもが抱えている。だから、ある種の粗を探せば足はいくらでも引っ張ることが可能だ。イーストウッドが愛嬌のあるデブによって描こうとしたのは、そのような個人を押しつぶすメディアと、そこに付け入る「権力」の姿だった。
ここ最近の政治的な言及や論争の諸々を眺めていると、本作のことを思い出す。例えばさ、子どもがいかがわしい絵を書こうが政治的な主張をしようが、大人達は大人として彼/彼女らの人生に寄り添って話せばいいだけだと思うのだけど。
ベストに入れるか迷った作品
ディーン・パリソット『ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!』
この映画の時間の捉え方は本当に感動的で、この人が『ギャラクシークエスト』から一貫していることと共に深く感動した。殊、音楽というコロナに最も影響を受けた文化だけになおさらね。
高橋洋『彼方より』
多くの配信映画がZOOMという規定を守る中、1人だけどれだけフレーム内フレームで面白いことができるかという別のゲームを始めている時点で圧勝という。しかも、主題はストレートすぎるほどストレートで感動した。
オフェーリアの下りで「いや、それを引用してもミソジニーはあんま薄まってないぞ…、というか高橋洋マジで『劇場版 零』好きなんだな…分かりますその気持ち」と思いました、まる。
英勉『妖怪人間ベラ』
『スパイの妻』と対。観た後でどんどん評価が上がった作品で、かなり意欲的な脚本だと思う。
ただ、ホントに知り合いとの馬鹿話でしかしない話に「登場人物を映画監督に置き換えて物語を読む」という奴があるのですが、助演の俳優陣とヒロインの風貌のせいか、本編の森崎ウィンが「山戸結希のように撮りたいけど撮れないことを自覚している英勉」に見えて仕方なかったんですよね。微妙にアニメになり切れてないというか。
ちなみになんですが、この映画に映るスマホの画面がちょうど自分の誕生日で、しかも父親が呼んでいたように、森崎ウィンが息子のことを繰り返し叫ぶので「なんの因果だ…いやすぎる」と思ったという。
矢嶋哲生『劇場版ポケットモンスター ココ』
異種同士の争いと和解を、それこそディズニー映画とジャパニメーションのハイブリッドによって描いていく意識の高さ。個々のシークエンスの質の高さもさることながら、反復のドラマが徹底しているのも◎。
萩原健太郎『サヨナラまでの30分』
『滑走路』と対。アニメーションの問題意識をすべて引き込んでまとめている。ジャック・ドゥミのように歌うシーンで自然に感動させるとこが一番好き。
ウィルソン・イップ『イップマン 完結』
過去作の全てをひっさげてきたようなスコット・アドキンスとほとんどジャンルの歴史を背負ったドニー・イェンとが対峙する。それだけで何もいらない。
ジェニファー・ケント『ナイチンゲール』
今年ブログで1番力を入れて書いたのですが、ヒット数は雀の涙で悲しかったので、皆観て欲しい。
豊島圭介『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』
映画、というより素材が面白すぎるよなこれ。
芥正彦に対する三島の批判を踏まえた上で、『罪の声』を観ると面白い。
藤井道人『宇宙でいちばんあかるい屋根』
演者のイメージを決定づける映画ってそれだけ力があるよなぁ、と今年は『デイアンドナイト』の清原果耶と『バイロケーション』の水川あさみを思い出していたという。清原果耶、映画に出てくるたび絵を書く薄幸な少女だものね。
『ジョゼと虎と魚たち』に滅茶苦茶近い映画だと思うのだけど、アニメーションの『ジョゼ』のがイメージが現実に及ぼす力にブレーキをかけている節がある(人物と背景が、話が進むごとにレイヤーで分断されていく)のに対して、実写映画のがその力を信じているのですよね。そこが面白いという。
佐藤順一 · 鎌谷悠『魔女見習いを探して』
撮影を軸にした現代的なトレンドと幼児向けアニメの叙述を組み合わせる妙。照明による明暗の描写の素晴らしさ、徹底した上下運動の反復の美しさと美点しかない。『アニクリ』で書いた文章はこういうものを論じている訳でございます。
気分よく映画館を出た作品
五百旗頭幸男 砂沢智史『はりぼて』
…気分はよくねぇよ!この映画に出てくる政治家のパワーアップ版が今政治動かして今こんなことになっているんだなぁと暗澹たる思いで劇場を出ましたよ。
安達寛高『シライサン』(ネタバレ)
この映画、エンドロールにある仕掛けがあるのですが、そこで恐怖にすくまずに思い返してみましょう。あの話のラストに新海誠『秒速5センチメートル』を引用した乙一はストーリーテラーとして滅茶苦茶凄いのですよ、呪詛の中にある憧憬、届かなかった未来としてラストが浮かびあがる構造だから。
この引用について押井守にコメンタリーやらせる位はしても良かったと思うんですよソフト化するときにさぁ…。
画面画面が凄く決まっているわけでないけど、役者が総じて魅力的に撮られているのでよい。
エミリオ・エステベス『パブリック 図書館の奇跡』
上手い下手ではなく、今年観たアメリカの社会派映画で一番「熱」を感じた。『マンク』や『シカゴ7裁判』より映画としては弱いかもしれない。けど、一番各シーンが印象に残っている。
土井裕泰『罪の声』(ネタバレ)
エスタブリッシングショットに気を使った真っ当な映画。役者がすべからく良いが、特に受けの演技に徹する小栗旬と世の中の澱みを引き受けたような宇野祥平はベストアクトだと思うし、クライマックスのある想起はやはり心を動かされる。
ただ、芥正彦をモデルにしただろう人物の描き方にどうしても納得ができないのと、政治的な題材を家族イデオロギーに置き換えることに強烈な違和感を覚えて、ホントにこれでいいのだろうか、という思いで劇場に出る。この話では、私たちが無意識に押し込めていた呪詛=歴史を引き受けているとはいえないのではないだろうか。
サム・ハーグレイブ『タイラー・レイク 命の奪還』
『ウィンターソルジャー』のルッソ兄弟が帰ってきた、と思った。
ただ、だからこそ何故マーベル映画は『アヴェンジャーズ』から『ウィンターソルジャー』に至るまでの1カットの長回しによるスペクタクルを捨てたのか、が気になりはした。
ティアオ・イーナン『鵞鳥湖の夜』
細部が全体を食い破っている映画、楽しいけどうーむ、となる辺り、私は所詮文学部なんだなと思いました、まる。
足立岬『喜劇 愛妻物語』
後、実をいうと今年はじめて『エヴァQ』を観たのですが、そのときアスカを眺めていて「この娘、水川あさみじゃん」と思ったという。
イマジナリーな領域で夫の視点なのか妻の夢なのか分からないショットでしめるのがよい。役者が総じて魅力的に撮られている。
エンドロールの多幸感に「いいなぁ・・・」と思いました、まる。
リー・ワネル『透明人間』
リー・ワネル、多分デビッド・ゴードン・グリーン『ハロウィン』(2018)に切れていたんじゃないかなぁ…。
ロブ・ゾンビ『ハロウィン』(2007)を否定しておいてあの糞みたいなトイレのシークエンスは一体なんなのだ?ジェイミー・リー・カーティスいなかったら『サプライズ』(2013)のただの焼き直しじゃねーか。俺だったらもっとスリラーシークエンスも上手く撮れるし、ホントの「サプライズ」を見せてやるぜ!と思ったのかしらと観ながら考えていましたが、よくよく考えたら『サプライズ』の原題は『You're Next』だから携帯のメールとは関係ないか、と思いましたという。でも、最初はロブ・ゾンビ版『ハロウィン』のラストの引用なのは確かかと。
ちなみにスラッシャー映画で女性がシリアルキラーやサイコパスにリベンジする話は、アダム・ウィンガードのオリジナルって訳でもなくて、ドン・コスカレリ『ムーン・フェイス』(2005)が起源ではないかとここで書いておきます。…時代を先取りしすぎじゃねコスカレリ。
グサヴィエ・ドラン『ジョン・F・ドノヴァンの死』
こんなベタベタのベタをド直球で投げる作家を天才ともてはやすフランス人はやっぱひねくれているのかしら…。
映画館に行ったのが、コロナ真っただ中の時だからかなり感動した記憶あり。
黒沢清『スパイの妻』
ショットの強弱のブレが激しいのはドラマ故か。濱口竜介が監督だったらという妄想がどうしても入る。
中田秀夫『事故物件 恐い間取り』
ここ最近の中田秀夫ではダントツに良い。奈緒と亀梨のメロドラマにしか監督は興味がなくて、奈緒にとって亀梨がフレームの向こう側の隔たりのある存在となっていく様が丁寧に描写されている。両者が会話する化粧室や公園のシークエンスは素晴らしいの一言。物語含めて『レベッカ』を彷彿とさせたと言ったら言い過ぎか。奈緒はホラークイーンになれる逸材だと思う。
Jホラーへの目配せも真面目…だが咀嚼の仕方がなぁ(´・ω・`)まぁそりゃあのラスボスはなしだとは思いますが。けど『劇場霊』はもっと酷かったんだぞ!
佳作or好きだけど問題あり
須藤友徳『劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel] III. spring song』
よくよく思い返してみると、大作感のある大作ってこれだけだったな、という位大作がかからない年だった・・・。
実際大味なとこは大味だとも思うのですが、セイバーとライダーのシークエンスの独特の間やリズムはかなり良かったし、最後の〆の反復でいいもの観たとなるのでよかったなぁと。
ただ、この映画納得いかないとこがあって、私このシリーズ大体テンションあがっていたのは、真アサシン絡みのシークエンスなんですよ。『ヴァンパイアハンターD』のバルバロイを彷彿とさせるし、実際彼絡みのアクションシーンは最盛期のマッドハウスの香りがしたしねぇ。それがひょんなことから一瞬で退場させられてテンションの下がり方が尋常ではなかった。他に方法はなかったのか・・・。
クリストファー・ノーラン『TENET/テネット』
Twitterで書いたこと以外だと、このジャンルやこの引用していて、この結末に行くの!?と驚かされた映画で、『12モンキーズ』などいっぱいSF映画を観ながら、ここまで「個人」に引き付けた終わり方をするところに、ノーランの若さであり愛すべきところかなと。
内田英治『ミッドナイトスワン』
『ジョゼと虎と魚たち』と対。どちらもそのジャンルを突き詰めた作り手が、映像の強度をもって完成度の高いものを作っているけど、ある種の快楽や通りの良さとは別に大きな問題を抱えているように思える。いやだってさぁ、後半の展開は、普段の内田英治がこういう風に撮るかよ、と思ったもん。『下衆の愛』も『獣道』も無様でも救われなくとも生きていこう、って話だったじゃん、ねぇ・・・。
けれども、バーでのダンスシーン、あれは今年1番のシークエンスだった。
エイドリアン・グランバーグ『ランボー・ラストブラッド』
スタローンの身体性で誤魔化しているけど、ジョン・ハイアムズ『ユニバーサルソルジャー 殺戮の黙示録』の焼き直しにしかなっていないと思うんだよなぁ。前半のマフィアとのやりとりの甘さや娘の問題もジョン・ハイアムスほどソリッドだとも思えず。
ジョン・ハイアムズ『ユニバーサルソルジャー 殺戮の黙示録』は長回しへの希求含めて何度か思い出しておきたい。
アリ・アスター『ミッドサマー』(ネタバレ)
ベイルマンというキャラクターについて。彼は自分を相手にしなかったカップルを生け贄にささげ、自らも今から焼かれるという時に、最後にあのテントでどこを見つめるだろうか。あのデブを見るはずがない。そんなものは彼にとってどうでもいいはずだ。ベイルマンは、自らと同じ地獄に落とした愛する者の亡骸を見つめていなければならなかった。ベイルマンだったらそう撮るに決まっているじゃないか、と少し冷めてしまった。完全版だと違うのかしら。
文系院生の争いが一番怖かったのはここだけの話。鳥小屋のあれやレザーフェイスが登場するシーン、後ラストのテントとか、ショットがことごとく決まっていないので肝心のイメージが弱い。横移動と長回しは綺麗に決まるのだけど、縦が少し弱い。総じて色々惜しい作品だと思う。
タムラ・コータロー『ジョゼと虎と魚たち』(ネタバレ)
色々な意味で、『アンダー・ユア・ベッド』の対極に位置している。
アニメーションの良さと快楽が十二分に発揮されつつも『聲の形』にあった複雑さや迷いがほぼなくなってしまっていないか?という疑念がある。『天気の子』が『エヴァQ』の屈折をまともに捉えてはいなかったように。
いや正確には、アニメーション的快楽からの「別離」が、背景と人物を切り離した上で、あの「紙芝居」へとイメージを抑え込む営為に見て取れる本作がただ能天気な作品ではない(だからこそ、結ばれた二人は「柵」のイメージで表象される)とは理解しているけど、女性は理解できない他者そのものである私からすろと目線を合わせすぎている映画に見えた。男性側の視点や問題意識は脱臭してはいけなかったというか、「同情」という言葉は彼自身から口にされるべきだったと思う。後、エンドロールは本編の慎ましさを台無しにしている蛇足ではないかな。
外崎春雄『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』
大体書きたいことは書いたので置いとくとして、『鬼滅の刃』関係だと、尊敬して強い影響を受けている研究者の千田洋幸のツイート にがっかりして、『アニクリ』のtacker10さん のツイートにわくわくした。
『まどマギ』と比べて物語が弱いって、バックボーンが少年漫画とエロゲ―文化なんだから読者層考えたら後者のが設定が入り組んでいるのは当然だし、歴史的に踏まえても虚淵の『怪獣惑星』シリーズなどと問題意識を共有している節がある訳で。文学研究の持ち上げをする前に、『空の青さを知る人よ』を無視して今更『あの花』と2010年代を持ち上げることの恥ずかしさを自覚して欲しい。
tacker10さんは、あれだよ。自分の興味や欲求に従って書けばいいし、書かなくてもいい、位のスタンスでいて欲しいなぁ。別に批評なんて流れ者がやるもので、実は形式や規範なんてないし、いつどこでも出来るはずだから。
『アニクリ』だと京アニ作品とか本当に好きじゃないんだろうなぁということが文章から伝わってきたし、一時期あんま興味なさそうな題材が続いていたからなぁ…。
(…お前は人とテーマを合わせる努力をしろ。…という声が聞こえた気が)
中田秀夫『スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼』
今年の日本映画、普通に豊作だと思うけど、影に隠れてサスペンス映画だけ『罪の声』を除くとあららららという作品が多かった気が。ただその中では映画としてドライブ感みたいなものはあった気もする。成田凌のファンが楽しめるものにはなっているし、後半のサスペンスの種明かしがきっちり映画のサスペンスになっているのよね。他は滅茶苦茶いい加減でガタガタだけど。
所謂「邦キチ案件」といわれる突っ込みどころを楽しむ映画ではあると思いますが、一つ留意しておきたいのは、設定の統合性と演出の貴賤は実をいうとあまり関係ない。「そうはならないだろ」という描写を続けながら映画としてガンガン進んでいくものもないわけではなくて、そこらへんが確信犯で遊んでいるのか無配慮なのか判断に困る。(キム・テギュン『彼岸島』みたいな奴)
デスティン・ダニエル・クレットン『黒い司法 0%からの奇跡』
クローズアップの映画と割り切ったのか知らないけど、流石に演出が素朴すぎると思う。
駄目だと思うよ
高橋丈夫、龍輪直征『巨蟲列島』
Twitterのアニメ評論クラスタが普段シャフトをあれだけ持ち上げて「バグ…サイバースペース…」とか論じているのに、シャフト関係者が監督の本作をほぼ誰も観ていなかった(バーバーさんとあんすこむたんさん位だった気が…)ので滅茶苦茶裏切られた思いがしました。私は、シャフトアンチなのに!って。
ちなみに長廊下と『スマホ2』のせいでギターソロに変なイメージを植え付けられたのはここだけの話。一番驚いたのは『ベクターケースファイル』の人がこの作品の原作だったこと。虫ならなんでもいいのか…。
深川栄洋『ドクター・デスの遺産 BLACK FILE』
主人公の刑事の娘が、病院でドクターデスにそそのかされるシークエンスが、奥行きのある病院の廊下で長回しに撮っていくので「お、『エクソシスト3』か!」と割とわくわくしながら観ていたら、微妙なとこでカット割って「そこでカット割るんかい!」ってなったのがこの映画を象徴していたような気がする。90年代っぽさと煮詰めてなさは『アナザヘブン』っぽい。Jホラー的表象をドラマに取り込むって点だとちょこちょこ悪くないかなぁというシーンもあるし、演出はドラマだけど映像作品ではあるしね。(ワーストを眺めながら)
安楽死を題材にして、この程度の練り込みで言い訳ないですよね、知ってました。
ケビン・コルシュ デニス・ウィドマイヤー『ペット・セメタリー』
ルックと演出は結構いいのだけど、原典の抒情を全て振り捨てて駄目なフェミニズムの体現にした物語が糞すぎだと思う。
木村ひさし『仮面病棟』
今年のサスペンス映画で物語は1番まともだけど、演出は1番駄目(*'ω'*)
でもラストの選挙のシークエンスは結構面白かったと思う。
ワースト
石立太一『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』
今年は自分なりに京都アニメーションの事件について考え続けていた1年で、実際長い文章も書いた(多分世に出ることはないかな)のですが、その始点となったのが、青葉容疑者に対する京都アニメーションの声明、それに対する違和感だったのですよね。
ずっと、あの切り捨て方で本当にいいのだろうかという疑念がぬぐえないでいる。ホントに色々なことがここ数年で変わってしまったな、という気持ちと、どうにかしないという気持ちを忘れてはいけないと思った。
平川雄一朗『約束のネバーランド』
主演浜辺美波もそうだけど、撮影 今村圭佑の時点でそこまで酷くないだろうさすがにと思った私が愚かでした。
大抵演技が大根なのは撮り方と演出のせいなのですが、それでもここ数年マンガ映画を1人で成立させてきた浜辺美波が1時間位全く演技をさせてもらえない(カメラがまともに彼女を捉えずに次のカットに駆け足で飛ぶしフレームがズレているから、演者は何もできないのだ…すごいだろ…)のを目の当たりにしたときの衝撃は忘れられない。『呪術廻戦』で五条悟が獄門疆に封印された下りを思い出したよ。ヤベーよ。『ホットギミック』 の後遺症で今村圭佑がまともに映画を撮れなくなってしまった、みたいな画面が延々と続いていくのは端的に地獄。
溜めもひったくれもない総集編みたいな感じで、アクションの間は全ておかしいしそもそもカメラに収まってない、謎解きは提示された3秒後に解かれている、イメージショットは一瞬で途切れて印象に残らない、唐突すぎる展開に「?」が3つ位つく、と今まで自分が観ていた諸々がなんやかんや文句を言いながら映像作品の文法に沿っていたんだと思いました。照明をデジタル加工しているのが悪い方に作用していたのも印象的。北川景子、去年災難だったな。
ただ後半、渡辺直美が退場した辺りで画面と演出が少し落ち着くので、クライマックスで浜辺美波が復活したように見えなくもないのが救いか。渡辺直美も去年
災難だったな。
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批評という死んだ楽園 ー 東浩紀『ゲンロン戦記』(2020)のホモソーシャル性について
http://yosntoiu.exblog.jp/31918813/
2020-12-30T15:00:00+09:00
2020-12-31T10:48:27+09:00
2020-12-30T15:00:23+09:00
unuboreda
評論
コロナ下の状況は現在の日本において「文化」が危機的状況にあることを顕現化させてしまった。コロナが経済の基盤の脆弱さを表面化させ、演劇や音楽、映画といったジャンル自体が消滅の危機に瀕している。と同時に明らかになったのが、基盤の弱さと特殊な村社会故のハラスメントの問題であったことは記憶に新しい。
アップリンクやユジク阿佐ヶ谷といった有名なミニシアターで従業員に対するパワハラや労働問題が表面化したように「文化」に携わる仕事の諸々が、雇用が不安定で低賃金の中、重労働を強いる「やりがい搾取」となっている現状が伝えられている。他にもSTUDIO4℃の労働問題などもあったが、2020年は、人気の出やすくある種の宗教的な色合いを帯びやすい芸術産業が、華やかさの裏で大きな問題を抱えていたことが明らかになった年だった。ある種の人気やカリスマ性を持つ存在が「映画」や「芸術」といった旗印の下で暴君となり、その中で様々な抑圧を強いていたのである。このような問題が表面化した現在、「文化」の在り方自体が問われているといっていい。
・・・当然、そこにはカオスラウンジにおけるハラスメントも含まれている。最初の黒瀬陽平の解雇から一転し、法廷で事実関係を争うそうだ。そういった問題は顕現化しただけで、未だ続いている。そんな中出たのが東浩紀『ゲンロン戦記』であった。
「「数」の論理と資本主義が支配するこの残酷な世界で、人間が自由であることは可能なのか?」というキャッチコピーがかかれたそれは、会社の顛末記としてAmazonでも好評価で受け入れられているし、自分のTLにも批評家や研究者と呼ばれる人間たちの好評が並んでいる。思想哲学の実践、ホモソーシャルの相克、知の観客をつくる…。
この状況に対して、怒りと蔑みを噛みしめながらこの文章を書いている。『ゲンロン戦記』の内容が不愉快極まりないものだったことはまだいい。信じられないのは、あいちトリエンナーレやカオスラウンジの顛末を知りながら、あの本を手放しで賞賛する日本の言説業界や読者達の無神経さとレベルの低さだ。彼らは自分たちが今年の「文化」の状況について何も考えないまま、「批評」などという上から目線の雑文をたれ流していたのか。卑しいしっぽを振って、そんなに仕事がほしいのか。
ミニシアターの問題が表面化した時、映画監督である深田晃司は声明を出し、自作の主力上映館だったアップリンクと手を切り、上映を取りやめるというアクションを起こしていた。このような状況下において、それこそ身を切るような判断だったはずだ。それでも、彼は映画監督として、業界のためを思い、自らのスタンスを突き通した。そういった人間が存在しない「批評」はもはや死んでいるといって良いだろう。
少なくとも、『ゲンロン戦記』にかかれている文章は、独善的な経営者である東の自意識がそこかしこに見えるもので、それはカオスラウンジの顛末と地続きのもののようにしか自分には読めない。
経理Bに降りかかったことについて ー 『ゲンロン戦記』に見る労働環境
『ゲンロン戦記』は、株式会社ゲンロンを経営した10年間で起こった様を記録しつつ、その活動にどのような思想があったかと語る文章である。株式会社 ゲンロンの経営している内実を語る中で、イニシャルでいくつかの社員が登場するが、彼らについて言及していく東の口振りはあくまで否定の色が強い。その中でも、経理を担当していたBについての説明は、あんまりじゃないかという文が続いている。
2014年にはすでに社員を限界まで減らしていて、カフェイベント用の臨時バイトを除くと、ぼく、前述の上田洋子さんと徳久倫康くん、このBさんと彼のアシスタントのCさん(アルバイト)5人だけでゲンロンとカフェ両方を回す状況になっていました。そしてそのCさんもBさんとは別の理由で2014年末に退社していた。それで、ますます社員は減っちゃったけどしかたない、頑張ろうということで4人で1月2日で初詣に行ったんです。成田山は商売繁盛のお寺なので、お守りの札を買って、最後に名物のうなぎを食べて解散しました。(P77)この後、家族旅行に行った東は帰りに退職のメールをもらい「もう脱力しました。それなら初詣のときに言ってくれと。」と書き、最後にはこうしめる。
ぼくはまともな社会人経験を経ないまま、若くして有名になってしまいました。だから、偉そうな態度で社会に向きあってきた。その限界を、Xさんの使い込み、Aさんの放漫経営、そしてBさんの遁走によってついに気づかされた。当時ぼくは43歳。あまりにも遅い気づきで、恥ずかしいかぎりです。(P80) 絶賛している人間は、この一文を見て何とも思わなかったのだろうか。Bが退職したのは何故かは明白だ。元々は限界まで社員を減らし、本来必要な人出がやめた状況の中、2社分の経理を押しつけられたことが退職の原因である。「ますます社員は減っちゃったけどしかたない、頑張ろう」などという言葉で済む訳がない。経費削減とそれに補うための精神論はブラック企業の論理そのもので、三が日に会社のイベントで駆り出されたBには同情を禁じ得ない。しかも、この時系列より前には「IKEAの家具」の下りもあるのだ。横浜のIKEAの家具を購入し、チェルノブイリツアーの間に「組み立てて書類を整理してほしい」と指示したという。
それから約1週間。不安を抱えたツアーもひとまず成功して、ほっとした気持ちで日本に戻ってきました。(中略)成田着が20時近い便だったから、途中夕食を食べたりして、ゲンロンに到着したのは23時台だったと思います。
オフィスのドアを開けたら、徳久くん、Bくん、Cさんの3人がまだいました。それはまだいいんですが、玄関近くに、なんとIKEAの家具のパーツが一週間前のまま放置されていた。
これにはさすがに怒りました。「いい加減にしろ、いますぐ棚を組み立てろ。組み終わるまで絶対に帰らない」と言って、時差ぼけと長時間のフライトでフラフラだったんですが、早朝までかかって棚をすべて組み立てた。上田さんも残って手伝ってくれました。棚はいまもオフィスで使われています。(P171)
もし俺が経営者だったらこの労働環境は絶対に秘匿する。それだけ、どうみてもアウトだろ、という状況がかかれている。
1、23時台に社員が残っていることを「それはまだいい」と述べているということは通常の勤務時間ではない。
2、社外に関わらない事務作業で、早朝までの深夜労働を強要している。
3、経営者が怒りを社員にぶちまけている。
・・・いや、無理でしょ。どれか1つでも自分の職場で起きたらゾッとする(少なくとも、ブラックと言われている教員でも2はないし、23時まで学校に残ることは稀)ことが揃っており、Bは退職して当然だ。通常業務がどれだけの量だったが明記されていないことがポイントで、そもそも大の大人が数人がかりで11時から早朝までかかるような棚を設置させるなら、その時間をどこかでスケジュールで捻出しておく必要があったはずだ。そういった管理までが指示に入る。それがなされないまま、怒って深夜残業させる、というのはまともな労働環境ではない。
昨今、コロナ下における映画の撮影中に、スタッフにブチぎれるトム・クルーズが話題になっていた。トム・クルーズがスタッフに求めていることは妥当だと思ったが、それでも海外ではその怒り方に対する批判が集まった。海外では、そういったコンプライアンスと労働に対する意識が前提となっている。揚げ足取り?左翼的思考?・・・何とでも言ってほしいが、ここでかかれている状況を是とする人間が持ち出す「批評」に意味があるとは、自分には到底思えない。昨今の文化産業を取り巻く問題を考えるために、海外の姿勢や思考について何かしらの意識を持つべきだからだ。思想となればなおさらのこと。ここでかかれている状況を看過する人間に社会を語る資格はない。
しかも、そのようなBの退職について、東は「遁走」と総括しているのだ。この言語感覚への違和感を持たない人が「知的な観客」であるならば、私は知的でなくていい。まともな社会人経験を経た人間ならば、このような人間の下で働きたいとは思わないはずだ。
東のホモソーシャル性について
状況だけでなく、東の思考についても、独善性は見てとれる。東はネット記事にもかかれているように、自身のホモソーシャル性への反省を表明している。同じ仲間=自分と似たような人物と共に批評をしようとしていたが、それは間違いであり、多様性が大事だったと。
だが、その建前とは別に、本文では他者を認めない自意識ばかりが目に付く。謎も最もわかりやすいのはAについての言及だろう。彼は経済感覚がない人物とされ、「放蕩経営」を招いた元凶として語られている。ゲンロンカフェの創始者であるにも関わらず、である。そのゲンロンカフェとAの関わりについて、東は以下のように語っている。
閉店そのものへのAさんの功績は否定できませんが、開店後の収益構造は彼の計画とはまったくちがうものになっています。前章にもちらりと書きましたが、Aさんはカフェ経営に過大な夢を見ていて、昼はシェアオフィス、夜は充実させたオシャレなイベントスペース兼バーみたいなかたちを目指していました。そして実際にアルバイトを雇って五反田駅前でチラシを配ったり、自分がDJになって音楽を流したりしていたのですが、そんな生兵法でひとが来るわけもない。Aさんが在社しているあいだは売り上げは下がる一方で、頭を痛めていました。
だからAさんの退社後、ゲンロンカフェは大きく変わりました。いろいろ試行錯誤があったのですが、最終的に、スペースの性格を変え、イベントの模様をニコニコ生放送で有料配信することにしました。詳しい経緯はあとで語りますが、これが大成功でした。現在ゲンロンカフェの売り上げの大半は放送収益によるものです。コロナ禍以降は必然的に放送収益が100%ですが、そのまえでも3分の2は放送による売り上げになっていました。(P87~P88) この語りを間に受けると、Aさんは退社した後に変わったことになる。だが、そもそも「イベントスペース」としての性質自体は変化していない以上、実情はAが在籍している間の行いもまた「試行錯誤」の一環だったはずだ。新しい事業であれば、収益化する前に支出が生じるのは当然のことだし、そこで消滅したアイデアも多々出てくる。Aが放蕩経営だったのではなく、新しい事業を手がけたことによる当然の支出が発生しているだけだ。問題なのは、東がそれをまるでAの欠点としてあげつらっているという事実だ。彼は、ゲンロンカフェの成功が全て偶然の結果のように語っているが、少し考えれば詭弁でありポジショントークにすぎないことは誰の目からも明らかだろう。そのような東の精神性は、『観光客の哲学』に対する一連の文章で爆発する。東はゲンロンでの企画や諸々の活動の総決算である『観光学の哲学』を「ぼくひとりで書き上げるという判断で生まれたもの」と語っているのだ。
普通、本を書いた人間はどういったことを語るか。どの本の後書でも記されているのは周りの人々や環境への謝辞であるし、それが普通だ。会社を通してチェルノブイリツアーなどを経てきた経験を踏まえたら、当然、会社の営みの総決算としてあの本は捉えているものと思っていた。だが、ここで展開されるのは「この本について社はほとんど何もしていない」という不遜な態度と社員に対する怒りである。以下の流れに至っては狂気的な何かさえ感じる。
2017年5月には、300万円ほどをかけてゲンロンカフェに放送ブースを新設し、照明機材を新しくしました。配信の質はよくなり、放送の売り上げも伸びましたが、スタッフがブースを個室のように使って快適に仕事をしているのを見て、複雑な気持ちになりました。(中略)
缶詰先で資料でいっぱいの重いトランクを引きずって行って、マックブックに身を屈めて書いて、ゲンロンはそれを受け取るだけ。それなのに、その原稿で儲けた金でなぜ社員が先に個室をもらえるんだと、自分で決定しながらも不満が蓄積していったわけです。(P202)
ここで恐ろしいのは、「配信の質」が良くなったことに対して、スタッフが介在する要素を何一つ見いだしていない東の認識それ自体である。まるで、自分が機材を新調したから放送の質がアップしたぞ、といわんばかりの姿勢で、この会社の社員の入れ替わりが激しいのもそりゃそうだわ、としかいいようがない。宣伝記事 の「若手論客」に対する曖昧かつ謎な見下しを含めて、彼はどうも自分の手柄を独占したいらしい。
そもそもだが、日本で一番著名な思想家と呼ばれる男が、苦労や負荷を是とする旧来的なマッチョイズムに染まっていることに、多くの読者は何も思わなかったのだろうか。別に愉快な顔しても深刻な顔していても、仕事の質や内容とは関係がない。ここから判明するのは、東浩紀という人物が、気難しい顔付きをしていないと勉強していないと見なし、成功したら俺のおかげとしてしまう、まるで教師の屑のような振る舞いをしている人間だということだ。そりゃ多くの社員がこの会社辞めるよね、と思わずにはいられなかった。
今まであげつらった東の性質はあとがきにかかれたある台詞に凝縮している。私はその言葉を読んで、最近観て夢中になった佐藤信介『今際の国のアリス』のあるキャラクターを連想してしまった。
佐藤信介『今際の国のアリス』を踏まえて ー 「批評」という幻想に騙されないために
『今際の国のアリス』はネットフリックスで配信されているドラマシリーズで、低予算の映画で大量生産された「デスゲームもの」の集大成のような作品だ。過去のデスゲームで印象的だった俳優陣を揃えた上で、予算と技術によって大きくスケールアップした生死を賭けたゲームを展開していく。このようなサバイバルが突きつけられる物語に、現代社会の状況が反映されている、という宇野常寛の指摘をなぞるように、『今際の国のアリス』では、現代の日本が抱える閉塞感が物語に反映されている。(注)サバイバルゲームに参加するほとんどが社会的弱者やマイノリティとしての背景を持ち、彼らが生き残りをかけて刹那的な争いを繰り返す様は、まさしく新自由主義が軸となった後の日本が描かれている。文化と見なされていなかった日本の文化を踏まえ、日本の貧しい現状を映像化せしめたという点で、佐藤信介『今際の国のアリス』は、三池崇史『テラフォーマーズ』の正統的な後継作といっていい。
ここで問題にしたいのは、中盤以降の重要人物として登場するボーシヤというキャラクターだ。
彼はビーチというゲームを集団で攻略するコミュニティをつくり、そこでリーダーとして君臨している。彼は「ゲームクリアでもらえるトランプを全て集めることで現実世界に帰ることができる」という虚構を人々に信じさせることで団結を生み、自らのために人々を利用している。その彼が主人公に過去を語るシークエンスがある。彼は現実世界ではホストクラブを経営しており、そこで雇っていた若いホストを「教育」していった結果、自殺に追いこんでいた。彼はそのことを回想しながら語る。「あいつの死は必要だったんだよ、俺を成長させるために」と。
ボーシヤは人々に虚構を信じ込ませることで、一致団結させ、自分のために酷使し、そうではない他者は捨て駒として切り捨てていく。「ビーチ」には、新自由主義下におけるブラック企業とその搾取の構図が隠喩されている。このボーシヤの語りがおぞましいのは、「あいつ」への固有性への視点が全く欠落していることだ。同時に、以下の一文にもまた他者性を全く見ていない人間の語りのように、自分には思えてならない。
本書ではアルファベットで5名の人物が登場する(Cさんはほとんど登場しないので実質5名。)彼らは本書のなかで、ぼくが自分の愚かさに気づくきっかけとして、とても重要な役割を果たしている。だから登場してもらった。
ぼくはいまでは彼らに感謝している。彼らはみなぼくを助けてくれた。彼らの過ちはぼくの過ちだ。ぼくはXさんの流用に半年気づかなかった。Aさんの金遣いが荒かったのはぼくの金遣いが荒かったからだし、BさんやEさんが経理を放置していたのはぼくが経理を放置していたからである。ぼくが彼らのエピソードを記したのはそれなしには自分の愚かさを伝えることができなかったからにすぎない。読者のみなさんには、それ以上の詮索はしないようにお願いしたい。(P264) ここで書かれているのは、全てがトップのデッドコピーだと考える、まさしくホモソーシャルの世界に君臨する王の傲慢な認識に他ならない。彼は、何も成長してなどいない。ただ、自分を否定する存在に壁を張り、「批評」という自分の宗教を信じるものを引き連れて声高な主張を繰り返すだろう。その裏で、多くの人を否定しながらも。
私たちが反資本主義として拠り所にしてきた「文化」が、そういった多くのボーシヤによって支配されてきたことを忘れてはならない。私たちが認識すべきは、「文化」がその旗印の下に多くの人々を搾取してきたことであり、この貧しく余裕を喪った日本において「批評」などというものはとっくに死に絶えているという現実である。少なくとも、カオスラウンジの裁判の現在を踏まえずに、このような醜悪なものをもてはやす人間に何かを論じる資格などある訳がない。シュプレヒコールをあげた「批評」に携わる全ての人間は恥を知るべきだ。
(注)この作品が優れているのは、二人の元ニートである主人公とラスボスの認識が、現在の新自由主義の表層と深層を表現していることだろう。完全な弱肉強食でない、悪意によって人の尊厳を踏みにじるシステムとして新自由主義が描かれている。主人公の設定の改変は感動的な3話だけでなく終盤でも機能している。
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映像の快楽から距離を置いて ー 天野千尋『ミセス・ノイズィ』(2019)
http://yosntoiu.exblog.jp/31899774/
2020-12-19T00:45:00+09:00
2020-12-19T07:29:26+09:00
2020-12-19T00:45:35+09:00
unuboreda
未分類
2019年製作/106分/G/日本
配給:ヒコーキ・フィルムズインターナショナル
昨今のニュースについて
最近、様々な物事について考える際に、スラヴォイ・ジジェクが「動きすぎてはいけない」といったことを思い出すことが多い。
全てにおいて速報性が重視されるインターネットの言説において、何か事件や作品について考える時、どうしても短絡的な反応になり、それに基づいて行動してしまう。けれども、そのような短絡的な反応自体が間違いであり、むしろ動かない方がよいことの方がよい。だからこそ必要なのは、熟慮、止まって情報を集めて、考えることなのではないか、といった趣旨の文章だった記憶している。ある種の政治活動に対するアンチテーゼと呼ぶべきこの言に完全に同意することはできないものの、(注1)何か昨今の状況を打破する上で示唆的なものを感じている。
実際、私たちは長いスパンで物語や事象を考えていくことを忘れてしまっているような気がして、たとえば「コロナ」にまつわる諸々のことについても、数年後の社会の在り方をデザインする、という話はあまり聞かないように見受けられる。(私の勉強不足なのかも、ですが)
実際、このブログについて考えてみても、インターネット界隈で多くの人に記事を読んで欲しい、と私も心のどこかでは思っている訳ですが、どうしても即時的な反応や表現ができないとこがあって。実際ある映画を観た後、少し置いて考えていくことはとても大事なんじゃないかと最近考えていて、ああこのシーンはこんな意味だったのか、ここは一度感動したけどよくよく考えるとおかしいな、じゃあなんでここはこのショットが選択されているのだろう、と話や思考をあれこれしていくことで、最初の印象や捉え方も変化していく。「騒音おばさん」というノスタルジーさえ感じる主題を取り上げた『ミセス・ノイズィ』を観たときに、ふとそんなことを考えた。
「騒音おばさん」の背景と表現史
そもそも、「騒音おばさん」は過去にも映像化されている。2010年、まだ日本が自らの荒廃を見つめずに済んだ時代に、メディアがおもしろおかしく個人を対象化し、テレビでたびたび映像で流されたのが「騒音おばさん」であった。一方、その報道に対し、ネット上ではむしろ彼女が被害者であったという対抗言説が生成されていく。宗教団体の嫌がらせを受けた故に彼女はあのような行動に出ていた、というのである。そのような事件への疑問やメディアへの反発が表現に転じた例はいくつかあり、たとえばラッパーの般若がその代表作「その男、東京につき」でテレビの報道に異を唱えている。その般若のドキュメンタリーと本作が公開時期が重なるのは、単なる偶然にしてはなんだか出来過ぎる気がして面白い。
そして、当のテレビ業界でテレビとネットの情報を踏まえてドラマに仕立てたのが、テレビの報道への批評性を内在したモキュメンタリー『放送禁止』シリーズで知られる長江俊和であった。
放送禁止シリーズ上もっとも苦情が来たといわれる「恐怖の隣人トラブル」は、隣人トラブルの深層には家族関係の不和と宗教団体が絡んでいる、という「騒音おばさん」の状況を暗喩したプロットをドキュメンタリー風の描写を軸に描いている。本作は、テレビで描かれるもっともらしい表象の裏には、秘匿された真実が隠されている、という流布された陰謀論をなぞっていく。本編はナレーションをかぶせたドキュメンタリー風の映像を装い、見せ場では長回しを採用することでもっともらしさを演出し、最後には謡曲に合わせたモンタージュによる映像的快楽によってそれらを翻し「真相」を提示する本作は、黒沢清に対する憧憬と森達也を彷彿とする政治意識とが奇妙に融合した長江俊和の到達点といってもよい。(注2)事実、佐藤佐吉の革新的なスリラー、『黒い乙女』シリーズ(2019)など、近年長江のスタイルを踏襲する作品が登場しており、本作もそういった流れと無関係であるはずがない。
だが、天野千尋はモンタージュを、クライマックスではなく中盤、不確かな情報が拡散していく様に用いており、その部分だけが映画から浮いた印象を与えている。これは何故だろうか?そこには「陰謀論」が持つ意味自体の変化が反映されているように思える。
ポストトゥルースの時代と陰謀論の限界
「騒音おばさん」が放映された時代は、マスメディアであるテレビとネットを二項対立として扱うことができる、それだけマスとしてのテレビが力を持った時代であった。同時に、諸々の共通認識がそれなりに機能していた時代だったといってもいい。だからこそ、テレビの裏側に真相がある、善悪は反転して報じられている、という考えは変革を促す力があったといえる。
だがしかし、そういった陰謀論による反転は、ある種、プロレス的なマスメディアの単純化と矮小化を引き継いだ形で物事を「首謀者」に一元化してしまう。コインを裏返しただけで、そこに複数性や思考がもたらされる訳ではない。吉本光宏『陰謀のスペクタクル』(2012)が論じているように、陰謀論は個人では把握できない複雑な世界の在り方をとらえるために個人の主観に偏った世界観である以上、そこには当然、欲望と単純化が入り込む。
だからこそ、テレビのイメージを暴くという陰謀論的見解を持ったインターネットは、次第にテレビと同じようなキャラクタライズと単純化を、よりドラスティックな形で進めていくこととなった。そこには人種差別やある種の蔑視がより強固なものとして遍在化していくし、複雑な思考は消失していく。たとえば、ニコニコ動画や2ちゃんねるといった言論空間が、民主党の問題点を指摘していく一方で、自民党に政治利用されていったことを思い出したい。今のニコニコ動画で流れた管の放送が、世界の現状や他の首相達から考えるとあまりにバカバカしい幼稚なそれで始まるのは、悪い冗談みたいなテレビの鏡像だからに他ならない。
欲望に忠実な曲がった世界観は、絶対的な価値観の喪失から否定されえない。故に「真実」ではなくそれぞれが信じた「物語」を演じる。そういった状況で議論がなく他者否定がなされていくのが昨今の現状、ポストトゥルースであり、メディアは昨今より他者への想像力や複雑な世界を捉える視点を喪っている。長江の放送禁止シリーズの初期が極めて強い社会意識とメディア批判性、そして映像的強度を持ちながら、森達也の『A』(1998)にはなり得ていないのは、こういった世界の複雑さへの手触りだといってよい。長江の作品がそういった複雑さを手に入れるのは、内面化という精神分析的主題を持ち出した劇場版を待たなければならない。(注3) 天野はこれらの状況を踏まえた上で、『放送禁止』のスタイルとモンタージュの映像的快楽から距離を置いているように見えるのだ。
映像的快楽から距離をおいて
実際、『ミセス・ノイズィ』のスタイルは前半部、『放送禁止』のそれをなぞるようなものとなっている。
冒頭から、家族や近隣住人とのやりとりを、固定カメラによる長回しと縦線による空間表象によって演劇のように役者の演技に任せて素っ気なく演出する。娘の誕生日のシークエンスが象徴するように、もっともらしい現実で起こる断絶の在り方を平面的に描写していく。そのような描写を重ねた上で、小説として「騒音おばさん」を書く段とネットに情報が拡散していく様を描く際に、モンタージュによるリズムを導入する。手触りこそかなり異なるが、中盤までの流れは「恐怖の隣人トラブル」のそれをなぞっていく。
だが、『放送禁止』では「真相」を暴いたはずのモンタージュが、むしろ欲望と虚偽が暴走していく様を描き出していくことに、本作の特質がある。ナレーションと書いていく描写は偏見と欲望を表象し、度々挿入されるレッドブルがある種の平静でない作家の在り方を象徴する。そこには、映像的快楽、映画的技巧は私たちから考える時間を奪い、そこに映る人々への想像力を奪っているのではないか、という天野の批評的視座が見て取れるのだ。私は、日本映画に、西部劇を材にとりながら運動と活劇の快楽を抹殺したジェニファー・ケントと同質の理知を持っている作家が存在することを素直に祝福したい。(注4)
平面から立体へ
ただし、『ミセス・ノイズィ』が『ナイチン・ゲール』(2018)ほどの映像の強度を持っている、とは言い難いのも確かだ。メディアの類型化をなぞっていく中盤はかなり不快であるし、そもそも予算の制約もあるのだろうが、前半部の映像は近年の日本映画の水準を考えれば素っ気なさすぎるからだ。本人も海外から言われているように、家族描写のバランスも日本の偏見に寄りすぎている。とはいえ、教科書的に演出のレベルを物語の変化に合わせて変えていく点は評価すべきだろう。
殊、物事を立体的に見るべきだという物語のテーゼに合わせて、前半、平面的に描かれた世界が後半立体感を持ように演出されていくことは印象的だ。思い返せば「ミセスノイズィ」に遭遇するシークエンスも、小説家の平面世界に奥行きをもたらす契機として、コマ落としとズームによって表象されていたし、後半の空間設計自体が、室内を離れて立体感を持つものとなっている。殊、マスコミに対して「ミセス・ノイズィ」が一喝する場面はよく演出されている。3者が平行して歩くシークエンスの最初、先に歩く「ミセスノイズィ」が奥にいる母子を折り重なるショットなども良い。((だからこそ、その後の会話ももう少し立体感を持つようにショットを凝ってくれれば、と思ったりもしたが。)
ともあれ、『ミセス・ノイズィ』は、他者へ想像力を働かせること、ある問題について時間をかけて考えていくことについて考えさせられた映画だった。今観るべき時代性を纏った本作を経ての次回作を、楽しみにしております。
(注1)土井裕泰『罪の声』(2020)が、多くの美徳と強度を持った作品であることを認めつつも、芥正彦をモデルにしたであろう人物周りの描写が引っかかりを覚えていて、評価が定まらないまま現在に至る。
(注2)長江俊和の最高傑作は、シェアハウスという題材からネットの見られる意識を内面化し狂気にかられていく人々を描いた『SHARE』(2014)なのだけど、ウイリアム・キャッスル的ギミックがヤバすぎて多分永遠にソフト化されず、ネットにも流れてない。ホントに心の底から録画しなかったことを後悔している。ちなみにこちらも今年流れが来ていて、インターネット配信で自分を切り売りしていく若者を描いた中田秀夫『事故物件』(2020)のラストの幽霊表象は、『SHARE』の引用なんじゃないかと疑っている。(『SHARE』にもベイルマンの『第七の封印』風の幽霊が死の担い手として登場している、怖さは雲泥の差があるのだが)Twitterでラストが『イット・フォローズ』(2016)の引用だったという話も出てきていてなるほどと思ったが、『事故物件』で中田はかなり久々にまじめにホラーに向き合っている。
(注3)とはいえ、森達也が『FAKE』(2016)で佐村河内守で遊んでいた時に、長江が外国人労働者を題材にして『放送禁止』を撮っていたソリッドさは記憶しておきたい。ホントに、『FAKE』は、最悪。あれがなければ三池崇史『ラプラスの魔女』(2018)はああはならなかっただろうけど。
(注4)『ナイチン・ゲール』においてもモンタージュを冒頭で分断の象徴として用いている。
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