もう一つの青 ー サム・ライミ『ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』(2022) |
原題:Doctor Strange in the Multiverse of Madness
配給:ディズニー
※本編以外に『オズ はじまりの戦い』と『ドクターストレンジ』のネタバレを含みます。
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2022年 05月 16日
2022年製作/126分/G/アメリカ 原題:Doctor Strange in the Multiverse of Madness 配給:ディズニー 序盤のシークエンスでの、結婚式におけるカンバーバッチの孤独を印象づける高いレベルのクローズアップや、その後展開される序盤のアクション・シークエンスにおける的確なショットのつなぎと構図を見るにつけ、やはりサム・ライミは至高であり、MCUという作家の泥沼においても自分の映画が撮れる作家だと安堵させられた。そういった安心感の中で展開される物語に驚かされたのは、多くの制約があるはずなのに、その主題が『オズ はじまりの戦い』(2013)の延長線上にあったことだ。ライミはジェームズ・フランコの10年後の姿としてベネディクト・カンバーバッチを描き、多元宇宙に夢を見せる装置としての映画を投影し、自己言及的に語ってゆく。 ※本編以外に『オズ はじまりの戦い』と『ドクターストレンジ』のネタバレを含みます。 #
by unuboreda
| 2022-05-16 23:10
| 映画 さ・た行
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2021年 12月 16日
異なる位相のマイノリティ出会いと別れを描く本作が、偏見を内包した上での差別意識と現状を描くという意識故に、いくつか議論すべき問題点を抱えていることは確かだろう。例えば、同じようにアニメと実写の方法論を取り入れながら、マイノリティがアイデンティティを確立する様を描き出すHIKARI『37セカンズ』(2019)が「あなた次第よ」という言葉に込めた明朗さを思い返せば、本作で自身の性的嗜好を否定し「普通」に固執しようとする主人公の在り方は旧来的な男性性に囚われすぎている。マイケル・リアンダ『ミッチェル家とマシンの反乱』(2021)が描いたような自明としての多様性とは無縁の世界がそこでは展開されている。 ただし、作家らしからぬ死を描いてしまった内田英治『ミッドナイト・スワン』(2020)のように本作を無理解として切り捨てたくはない自分がいる。というのも、本作は旧来的な価値観を含めて普通の人々が持つ差別意識を日本の現状として描いているように見えるからだ。さらに言えば、女性作家が紡いできた映画史を踏まえながら、その流れに逆らうような演出の先祖帰りを為した本作は、映画史に記憶すべき作品のように、自分には見えた。 女性作家が紡いだ映画史の踏襲 自らの同性愛を自覚しながら、「普通」の家庭を欲しいと欲する純の孤独と内面を描くために、前半部において、本作は大九明子の諸作を引用していく。『勝手にふるえてろ』(2017)と同様に無思慮な男性を渡辺大知が演じているのもそうだろうし、主人公が内省する様をモノローグを軸に展開し、アフレコの声との対話によって表象していく様は『私をくいとめて』(2020)のAとの対話を想起させる。物語における決壊点も同じく温泉に設定されることからも分かるように、本作は女性映画監督が用いた主観の表象を援用することで、若者の内面を内省的に描こうとしていく作品であると、ひとまず定義することができる。 そういった主観表象は後半で展開される山田尚子『聲の形』(2016)の語り直しへとつながっていくものであるし、山戸結希『ホットギミック ガールミーツボーイ』(2019)を彷彿とするSNSや携帯を模した撮影といった非映画的映像の導入や人工的な照明への固執にも表れている。前半部のクライマックスが、池袋の水族館でのスクリーンプロセスを用いたような浮き出た背景を背にした男女の切り返しに設定されていることは、人工に染められた私たちの淡い主観そのものを描く意識の表れだといえるだろう。だが本作が特異なのは、先に挙げた作品群とは明らかに異なる位相で映画を演出している点だ。本作は女性作家の主観性を踏まえつつも、むしろそこにあった生理やリズムを否定することで成立している。 空間への先祖帰り 現代日本映画において、モノローグ=ナレーションをカットのリズムに連動させていくことで、主観の色を濃くしていく営みが為されてきた。その急先鋒が女性の映画監督達であったことを私たちは記憶しておくべきだろう。大九明子や安里麻里の近作がそうであるように、モノローグとショットが連動しながらリズムを刻み、ある人物の主観と生理を表象していくことは、近年のトレンドだったはずだ。本来映画的ではない、映像とは剥離した語りが映画を駆動していくその営みは、日本映画独自の文脈として語るべき事項だろう。 彼女たちが一度は劇中でその主観を否定し別の「現実」を提示していたように、その生理やリズムの心地よさは、同時に独善性や視野の狭さを帯びたものであった。『彼女が好きなものは』の特質として、前半部でそういった演出スタイルを部分部分では踏襲しつつも、リズムよりも、あくまで空間に拘った演出とテイクを重ねている点が挙げられる。 例えば、二人が書店で出会った後、教室で両者が視線を交わすシークエンスでは、純と紗枝、そして紗枝に話しかける亮平の三角関係が空間的に視覚化される中、その他の生徒が各の生に没頭する様が後景に書き込まれることで、教室という世界が前景化されている。本作は純の主観世界に寄り添おうとはしていないのだ。だからこそ主観の表象たるモノローグも映画のリズムを形成するには至らないおぼつかなさを湛えているし、カメラは窓枠にはめ込まれた彼の姿を外側から切り取っていく。パンフレットで監督が語るように、月永雄太のカメラはあくまで世界における純の孤独を映し出す距離感を保っている。同時に、本作はカットがもたらす時間ではなく、空間を軸に人間関係と距離を描写していく。 これは草野翔吾の作家性であることは、『世界でいちばん長い写真』(2018)におけるパノラマ写真というモチーフや廊下での繊細な長回しなどを見れば了解されることだろう。だが、それ以上に、女性作家達の変遷をいわば逆流するように回顧する意図があるように思える。例えば、山田尚子が、当初空間演出に強い拘りを持っており、その結実が『たまこラブストーリー』(2014)だったことは記憶に新しい。だが、『聲の形』以降アニメーションの主観性に傾倒していくつれて、彼女はリズムとモンタージュの作家へと軸足を移していく。期を同じくして山戸結希もまた、『5つ数えれば君の夢』(2014)の長回しと空間表象への拘りを捨てて、イメージの坩堝であった『ホットギミック ガールミーツボーイ』を撮り上げている。モノローグとモンタージュによるイメージによって、身体が捉えた主観世界を捉えていく作風がトレンドであり、そこに比すれば本作は古風な印象を与えるだろう。だが、そうでなければ、本作の問題は描けないという強い意識が草野翔吾にはあったのではないか。 だから本作は、『私をくい止めて』の諸要素になるべく他者と世界に潜り込ませようとしている。温泉場での瓦解は文字通り他者同士の衝突として描かれるし、内省の声と思われた「ミスター・ファーレンハイト」はネット上に存在する他者として、文字通り純の言葉を否定し旅立ってしまう。『私をくい止めて』が心象風景とした海辺の書き換えが象徴しているように、本作はマイノリティの主題を、空間で生起される、あくまで実在する他者同士の衝突として描き出す。その上で、本作は『聲の形』が描いた問題を再び語り直すのだ。 以下から作品後半部分への言及に入ります。 #
by unuboreda
| 2021-12-16 19:00
| 映画 あ・か行
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2021年 07月 31日
リーアム・ニーソンという俳優の特異性 70年代のアクション映画への旅愁と引用に浸りながらも、あくまで老いさらばえた男たちのドラマに徹したジャウム・コレット=セラ『ラン・オールナイト』(2015)が象徴するように、リーアム・ニーソンの一連の「アクション」作品はジャンルでは包括しきれない情感や哀愁を込めることに力点を置いている。彼が希有な俳優であるのはこういったジャンル映画に自らの人生を呼び込むことを厭わないからであり、喪失と虚無感を抱えながらも、あくまでもそれらと対峙するファイティングポーズを解かないジョー・カーナハン『THE GREY 凍える太陽』(2012)の陰影を彼は常に纏っている。近年はその傾向により拍車がかかっていることは、例えば息子と共に出演してい『Made in Italy』の前情報などからも明らかだ。本作もまた、ジャンル映画として適切なアクションシークエンスと共に、彼の人生が刻印された極めて優れたドラマが展開されている。本作が観客に受け入れられながらも批評家から酷評されたことは、批評家という卑近な存在がジャンルなどとという下らない枠組みに囚われて画面を観ていない証左として記憶にとどめておくべきことだろう。 偶有性と誤配の物語 著名な銀行強盗が恋をし、そこから贖罪を求め警察に自白をしたことで、多くの混乱をもらたす前半部は、印象こそ異なるがコーエン兄弟作のような「誤配」を軸にしたドラマとなっている。自白を受けたFBIは、本来赴くべきではない者たちを送り、彼らが横領を企画した結果、殺人事件が起こってしまう。この顛末は、人の意志(メッセージ)が思惑通りに受け取られることなく、人が思い描いたそれとは明らかに異なる事態へと転がっていく運命の残酷さを表象しているように思える。 そういった趣向は、およそ動機とは思えない銀行強盗を行った理由にも反映されている訳だが、重要なのはそのような偶然によって、人の命が危機にさらされることだろう。ニーソン演じる強盗が海兵隊で地雷除去の専門家だった、という設定が示唆しているように、トムというキャラクターは偶有性に翻弄され人生を狂わされてきた存在として描かれているのである。だからこそ、前半部のクライマックスは、彼が愛を告白するためにしたであろう行動が、結果として愛する人の命を奪ってしまう、という残酷な結末を迎えてしまう。そこには、人間の操作しえない運命の残酷さが横たわっている。(冒頭のシークエンスもそういった展開の伏線になっている。彼女は彼の身代わりなのだ) 重要なのは、そこからリーアム・ニーソンの人生が物語に色濃い影を落とす点だろう。彼は、現実には行わなかった蘇生を行うのだ。 ありえたはずの未来という夢 リーアム・ニーソンは愛妻家で知られており、その別れが悲痛なものだったことは、彼の映画に強い影を落としている。妻であるナターシャ・リチャードソンがスキー場での事故で脳死状態になった際、彼は生前の約束を守り、延命措置をしないで彼女を天国へと送った。当然、彼は彼女を殺したという罪の意識に苛まれ、苦しんだはずだ。本作は、『THE GREY 凍える太陽』がファーストシークエンスで妻の幻影として呼び込んだその苦難の記憶をより具体化して呼び起こす。一度脈が途切れた愛人を病院に連れていく、という展開は、ニーソンにおけるもう一つのありえたはずの未来となっているからだ。本作におけるヒロイズムとは、そのような虚構として顕現される。それを映画的な夢といってもいいかもしれないが、一方でそこには拭いきれない現実の残酷さの影がさしている。 それを象徴するのが、ニーソンが英雄となる手段であろう。地雷を無力化してきたはずの彼が、地雷を作る側に回ることは、ある種のアイロニーと悲哀が込められており、故に一命をとりとめたはずの恋人の前で爆弾をつくるニーソンは、恋人とは空間的に断絶した孤独な存在として描写されている。矛盾を抱えていることの自覚は、ヒロイズムに一抹の影を残しているのである。その隠喩の両義性がもっとも現れているのが、犯人をつかまえるための爆弾である。逃走車に地雷のシステムを用いた爆弾を設置したことで、彼は復讐をはたすことになる。そのとき、その地雷に起爆装置がなかったとFBIに告げられた彼は、失敗してしまった、と語る。 この描写は、一見すると、彼が見せかけの爆弾によって敵を取ったことを示しているように見える。それは、偶有性=地雷をコントロールできるようになったヒーローとしての彼を象徴するはずだ。だが一方で、このやりとりの中で、彼が本当に失敗した可能性を棄却することはできないのだ。だから、彼はまだ偶然と運命に翻弄された存在のように解釈することができる。そもそも、地雷を否定してきた存在が、地雷を作る爆弾魔になり下がるという矛盾は、犯人が捕まった後も解消することができない。こういったヒロイズムの傍らに大きな虚無が横たわっているのは、この映画が運命に翻弄される市政の人々が抱く夢のはかなさを見ているからだろう。それは交換可能な相似性としてドラマに刻印されてもいる。 相似のドラマ 本作では、相似するキャラクターと過ちをやり直す、という展開が多く盛り込まれている。たとえば、離婚した際に、犬を引き連れたFBIの男は、同じく離婚を経験しているトムの恋人を守ることで、自らの過ちを回復させていく。この結実として、二人によって本来あるべきだった交換が為されるという展開は、ささやかながら強く心を打つものとなっている。もう一つ、犬のつぶらな瞳とニーソンのそれとが重ねられることで、FBIとニーソンの関係性が暗喩されていることもほほえましいが、ニーソンのもう一人の分身がどうなったかを私たちは思い出したい。 汚職に手を染めた警官の二人組の中で、家庭を持つラモン・ホール捜査官は、自らの行いに懺悔し、贖罪のためにニーソンの行動に手を貸す。その動機は最初にニーソンが自白したときのそれと相似をなしている。だが、彼はニーソンに手を貸した結果、命を落とすことになる。自らの分身であるはずの若者の躯を見つめていたニーソンは、もう一つのあり得たはずの現実を自覚していたはずなのだ。それは同時に、購うことのできない自らの罪への意識を意味してもいる。 だからこそ、映画はラスト、恋人との邂逅の瞬間に映るニーソンの表情を、ジャウム・コレット=セラ『フライト・ゲーム』(2014)のラストのような明るさではなく、ノワール映画にも出てきそうな黒によって染めるのだ。この描写は、ここで描かれた夢のはかなさを象徴するだけでなく、ニーソンが抱え込んできた苦悩を画面に刻印しようとせんとする誠実さの表れに他ならない。ドラマともアクションとも括れない『ファイナル・プラン』が市政の人々の心を打つのは、この悲痛さを踏まえながらも、それでも夢を語ろうとする強い意志であり、私は本作の端的な誠実さを支持したい。 #
by unuboreda
| 2021-07-31 19:50
| 映画 な・は行
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2021年 05月 05日
2020年製作/108分/G/アメリカ 原題:Nomadland 配給:ディズニー ミドルショット=中間の消失 フランシス・マクドーマンドの疲労を湛えた身体を映し出したファーストカットから通底しているのは、彼女の苦悩が刻み込まれた顔面に寄り添いながら、彼女の半径に映る世界のみを捉えていくカメラの徹底であろう。そこに表れる人物たちもクローズアップによって切り取られ、まるで彼女と他の人物は分断されているかのような印象を映画は与えている。というのも、ハリウッド映画では本来挿入されるべきエスタブリッシングショット、切り返し会話している人々が同じ空間を共有していることを示す引きのショットがほとんど除外されているからだ。アマゾンでの食事シーンがそうであったように、空間を示す引きのショットは会話の後において提示されるのみで、ほとんどその機能は失ってしまっている。それ故に、例えば前半でのノマドの集会のシークエンスでの薪を囲いながら自己の内面を独白する人々は、映画のショットにおいては空間を共有してはいないのだ。また、車の狭い空間の中でいくら移動したとしても、顔に象徴される自己のみが映るばかりで、移動にともなうはずの空間の変化も見られない。観客である我々が目にする空間は、観光地としての名所での記号的な画面とロングショットによる情景だけで、ミドルショットはほとんど本作では採用されていない。中間が存在しないのだ。 だから、この映画がアカデミー賞を撮ったという革新を私たちは重く受け止めなければならないと個人的には考えている。その革新は世間ではアジア人の新人による快挙として語られるかもしれない。だが、本作の受賞は社会派アジア映画が栄冠を勝ち取った昨年の快挙をなぞるようでいて、本質的には全く別の事態なのではないだろうか。 空間や間といった時間も乏しい、他者との関係性ではなく自己の内省へと沈み込んでいく極めてSNS的な作品がハリウッドの伝統を塗り替えてしまったことと、そしてその事実に多くの人が気づいていないということが、私たちと映像表現の関係が過去とは別のものに変容しているという事実を示唆しているように思えてならないのだ。 SNS的な、あまりにもSNS的な 本作は驚くほど夥しい属性に彩られている。ロードムーヴィーやテレンス・マリックといった映画史の引用、高齢の白人女性と放浪する非正規雇用者の孤独やそれを利用する大企業といった社会派映画としての属性、アジア人の新人監督とセミドキュメンタリー方式といった手法。様々なハッシュタグに彩られた本作が、極めて美しい情景の表出という見栄えのよい演出を軸にアカデミー賞の栄冠を収めたことに、納得はしないは理解はできる。 そこで展開されるのもまた、記号社会的であり、SNS的な生活の在り方であった。観光地という作られたモニュメントを巡りながら、日々の労働と消費をこなしていき、写真と端末を目を向けて、自らの内面と喪われてしまった過去=オリジナルに思いを馳せる。現状が何か満たされない不全なものであることを理解しながら、具体的な対象や目標が提示されることもない。分断され、記号とメディアに囲まれながら、内面と過去のイメージを求めてさまよう。現在がなおざりなのは、頻出した食事のシークエンスの魅力のなさに表れているだろう。まるで押井守が描いた世界のような反復されるだけの日々。そこに未来は影さえも姿を見せない。物語という定型が現状がよりよいものになるという願いや願望の反映であるとすれば、本作が示しているのはハリウッドが多様性を肯定した事実ではなく、社会の変革を手放したという諦念ではないか。 未来の消失 事実、本作の登場人物たちと同様に、私たちは未来の描き方を忘れてしまっている。濱野智史が『アーキテクチャの生態系』(2008)で指摘しているように、現在が記録され続けていくインターネットは時間の在り方を一変させてしまった。記録された過去と属性が全てを覆っていき、敷き詰められた先行情報は未来を想定されたコピーに変えてしまった。実際、若年期の終わりに差し掛かった自分もまた、自己の人生を彩りあるものとしてどう思い描けばいいのか、よく分かっていない。 フィクションにおいても「未来」が喪われてしまったのは当然なのかもしれないと、帰り道、マクドーマンドのように一人でポテトとハンバーガーを頬張りながら思った。そのとき、あの鳥の群が頭に浮かんだ。癌を患ったノマドの一人が、主人公に自らが目的地についたことを伝えるために送った、確かLINEでの映像である。あの矮小化された風景に映る、ヒッチコックを彷彿とさせる鳥の群れが、本作を象徴しているように思えた。現代の表裏一体の希望と絶望が描かれた作品なのだと理解はした。けれども、空間も未来も見られない映画に、納得はできなかった。 もう一つの放浪についての余談 そう考えた後日、同じ名前を冠したあるアニメを、固唾を飲んで見守っている自分がいた。陰謀論に近い飛躍した連想、つまり暴論ではあるのだけれど、自分にとって無関係と捨てることはできなかったのだ。森山洋『NOMAD メガロボクス2』である。『明日のジョー』のリメイクとして何故かSF設定を取り入れた前作が、海外からの人気を受けて第2期が決まったという事実にも驚かされたし、その物語展開も見逃せないもののように思える。移民問題や災害といったアメリカにとっての現在をちりばめながら、中年期のボクサーが喪ったヒロイズムを描く本作は、『ノマドランド』と同様の問題、「未来」或いは「希望」を私たちがどう描くべきなのか、という主題を抱えている。 『呪術廻戦』や『僕のヒーローアカデミア』をはじめとして少年マンガは現在の状況を踏まえつつ、ヒロイズムの在り方を模索している。『ノマドランド』とそれらを見比べてみて、少年マンガの現在に肩入れしたくなるのは、自分がまだ物語=虚構を信じたいのかもしれない。例えそれが気休めの鎮痛剤にすぎないとしても。 #
by unuboreda
| 2021-05-05 21:30
| 映画 な・は行
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2021年 04月 02日
カーペンターの最も優れた… 近年こそ「ゲーム的な映画」という揶揄ばかりが目立つようになってしまったP・W・Cアンダーソンだが、私たちは、彼がデビュー当時、新世代の最も優れたジャンル映画の担い手であったことを忘れてはならないだろう。カート・ラッセルを主演に迎えた『ソルジャー』(1999)はカーペンターの演出効率に最も近接しえたアクション映画の傑作であったし、サム・ニールを軸に据えた『イベント・ホライゾン』(1997)もここ二十年の映画の在り方を予見していたエポックとして記憶すべき作品だ。シュミラークルの世界を顕現するCGIが人間性を否定する恐怖を描いた先見的な傑作抜きに、あの禍々しきアレックス・ガーランド『アナイアレイション 全滅領域』が花開いたとは到底考えられない。少なくとも、ジャンル映画の愛好家にとって、彼が王になりうる新鋭であったことは確かだ。『モンスターハンター』を観ている内に、そんな記憶がヒシヒシと思い出されたのは、決して久しぶりのハリウッド大作だから、というだけではないはずだ。 More #
by unuboreda
| 2021-04-02 00:39
| 映画 ま・や行
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