象徴としての陰画 ー 清水崇『樹海村』 |
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2021年 02月 20日
2021年製作/117分/G/日本 配給:東映 前作とあまりにも違う作品の肌触りについて 『樹海村』のほどんどオフビートに近い緩やかなカットと断片的な表象で思い出したのは、黒沢清『CURE』(1997)のブルーレイのコメンタリーでの高橋洋の言葉だった。 サスペンスというジャンルの定型に沿った前半部から、曖昧なイメージと象徴の映画へと変貌していく『CURE』に対して高橋は「前半はアメリカンだが、後半からヨーロピアンになる」と評している。説明が為されないままイメージが連ねられることで、解釈が一様に収束されない、統合性が喪われたような感触が『CURE』を傑作たらしめている。そのことを思い起こすだけの強度が、この映画にはあるように感じた。 ただし、『樹海村』は『犬鳴村』が持っていたジャンル映画の快楽とは距離を取っているように思えた。高橋洋の言葉を借りるなら、アメリカンとアジア映画の折衷だったはずの前作から一変して、本作は徹頭徹尾ヨーロピアンの映画となっている。しかも、『呪怨 呪いの家』に引き続いて90年代のJホラーが持っている陰湿な暴力を引き継いでいる。結果、まるでラース・フォン・トリアーが伊藤潤二を材に撮ったような、静謐で陰惨な画面が続く映画となってしまっている。 何故ここまで前作から変化したのだろうか。これは推測だが、一つはヨーロピアンホラーが日本で受容されつつあった土壌が影響しているように思える。というのも、ルカ・グァダニーノ『サスペリア』(2018)やアリ・アスター『ミッドサマー』(2019)など、宗教的なイメージと象徴の映画がその不可解故に映画ファンの間でヒットしていたからだ。映画美学校出身の中でもとりわけアルジェントの影響が強く、ファンタジー要素を入れたがる清水にとって、先の映画群は「ここまで説明しなくても通じる」という見立てになったのではないか。だからこそ、『樹海村』にはホドロスキーへの憧憬をちらつかせながら、説明セリフをまくし立てていた『こどもつかい』での躊躇が全く観られない。そのような象徴的なヨーロピアンのスタイルで頻出するのが、「コトリバコ」という説明されない呪物なのだ。 More #
by unuboreda
| 2021-02-20 00:38
| 映画 さ・た行
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2021年 01月 21日
恥ずかしいのであまり公言はしていなかったことではあるのですが、unuboredaは毎年コンスタントに評論賞に投稿し一次も通らないで討ち死にするということを繰り返す、所謂ワナビだったりします。文章が下手!文体が駄目!なのとどうしても先行論に引っ張られる傾向があり、まぁ中々難しいよなぁ、と思いつつあわい期待を抱きながら長い文章を書いては討ち死にしているわけです。 去年もすばるクリティークに『呪怨 呪いの家』と京都アニメーションの事件について論じたもので投稿したのですが結果はご覧の通り。(ただまぁ、杉田俊介氏に読んでほしいと思って投稿して、反応があっただけ良かったとも思いましたが。今の『群像』に投稿する気は全く起こらないしね) だから、今回の文章は負け惜しみであることを了解した上で読んでくださるとありがたいです。 母性という呪い ー 西村沙知「椎名林檎における母性の問題」の瑕疵について 敗北を確認しに『すばる』を買い、すばるクリティークの受賞作と選評を読んだ。 受賞作である西村沙知氏の椎名林檎論は素晴らしく、受賞は納得の出来だった。批評するのが難しい音楽を、歌詞と音、先行論といった多角的な方向から語っていく前半部は、詩的な逸脱を含む文体の艶やかさも相まって美しく、椎名林檎の個々の作品を語る手つきは具体性を持ちつつ独特の軽やかさがある。加えて、冒頭の作品の入りも様々な問題意識を盛り込まれており、自分の文体の脆弱さを省みるには充分な文章であった。 ただ一点、審査評を読みながら「それは違うのではないか」と思った箇所がある。それがタイトルにも挙げた「母性」の問題の取り扱い方と、8章の評価だ。 母性の問題 最終候補作の五人中三人が「母性」を問題にしていたことに対して浜田氏が「時代もあって面白い」といい、杉田氏がPCと対比的にとらえていた。けれど、そもそもの話「母性」の問題自体が「サブカル批評」の構図に依拠したものである以上、今批評を書こうとする若手にとって、社会情勢関係なしに宇野常寛『母性のディストピア』の影響が殊更に強かったことの現れでしかない。事実、ネットワーク社会を「母性」としてなぞる西村氏の論もまた、『母性のディストピア』を踏まえた上での現代に対する読解としての側面が存在している。 だが、『母性のディストピア』を読んでいた時から常々疑問に思っていたことだが、「母性」という立て方自体に具体性があるようには到底思えないのだ。現在のネットワークに母としての包括的要素がどこにあるのか、或いは「母」という役割が現在の家庭においてどれだけ機能しているのか、と考えてみれば、多くの疑問が残るはずだ。せいぜい、他者依存的な日本のムラ社会の言い換え程度の意味しか見いだせないだろう。「父」と「母」という二項対立自体が批評が持ち出した象徴的な虚構なのだ。では何故批評は「父」ではなく「母」が持ち出されるのか。或いは何故日本的なムラ社会、と考えずに母性原理社会と銘打つのか。 私の見立てはこうである。批評というジャンルは日本の社会を「母性」と総括することで「具体的な攻撃対象、支配対象が存在しない社会」として読み替え、それによって具体的な政治性を忌避してきたのである。 母性という呪い ー 批評と政治について 宇野常寛が、初期の論考において、東浩紀のネットワーク論の影響下にあったことを否定する人はいないだろう。同時に『ゼロ年代の想像力』が前提としていたのは、宮台真司が展開した「終わりなき日常」という議論であった。それらは消費社会という生活基盤が崩れないことを暗黙の了解とした議論であり、社会システムを前提として肯定していたのである。 故に、彼らに共通する態度は、資本主義と社会システムに対して非を唱える政治的な社会活動に対する冷笑であった。「左翼」といったレッテル貼りを繰り返していくことで、批評は政治に対して、自らを相対的に高尚な活動だとする植え付けを行ってきたし、フェミニズムと相容れないホモソーシャル性もそこに起因していたといえる。 批評がある時期から持ち始めた、政治に対する蔑みと忌避が「母性」という社会の捉え方と実に相性がよかったことはいうまでもない。なぜなら、父権を認めるということは、具体的な権力や支配者層を想像することに他ならないからだ。metoo運動のスタートがワインスタインという権力への異議と失墜を求めたものだったことを思い出したい。確かに、政治活動が持ち出す正義には、他の在り方を認め自己の思想の不全について自省する可塑性がない。ある種の権力闘争である以上、別の父権や抑圧へと反転する可能性も否定できない。その逡巡として批評が存在するというのも理解できる。だが、一方で批評が具体的な問題を無化していくことで、現実の権力構造をより強化するという危険も無視すべきではないのではないか。ムラ社会が母性と置き換えられることで、父権の煮凝りのような村長の存在が無視されるように。 西村氏の論考は、逡巡の中で計らずともPCとフェミニズムにたいして「母性」を持ち出しており、審査員はそれを賞賛している。だが、本当にそれでいいのだろうか。むしろ政治性を距離を取る姿勢は、批評というジャンルが持つ病理そのものではないのだろうか。 事実、椎名林檎の政治的な危うさをなぞるように、8章における西村氏による社会についての論じる手つきの節々にも、この問題が表れてしまっている。「政権も都政も、良しにつけ悪しきにつけ、市民の生活に介入する術をもたない。」「我々はもはや家族問題には苦しまない」・・・。8章だけ「本当に?」と疑問付がつく言葉が目に飛び込んできては読解を阻害していく。共産主義的な懲罰主義を提案し続ける政治家や、貧困にあえぐ子ども達といった具体が不可視のものとして隠蔽されていくことで、批評は現実との接地を喪ってしまっているのだ。 ・・・殊に、椎名林檎という対象を論じるために、具体的な政治性の喪失は致命的であるようにも思える。ナショナリズムの問題があるからだ。彼女のオリンピック参加を「母性原理」と結論づけることは真摯な思考の結実のように見えてその実、音楽の政治利用について考えることの放棄にすぎないのかもしれない。結論の弱さも、論点のすり替えに依るものである気がしてならない。 批評にとって「母性」とは、父権を語ることを回避するための魔法の言葉であり、呪いである。私たちは批評を再生するためには、このような言葉遊びに脱して、具体的な社会問題との接地を模索しなければならないのではないか。少なくとも、『遅いインターネット』で現実社会における政治活動を模索していった宇野常寛は、先の論と審査員の評価を読んで、ほくそ笑んでいるのではないだろうか。
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by unuboreda
| 2021-01-21 22:21
| 評論
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2021年 01月 02日
・今年、私生活も世界もあまりに多くの変動がありすぎてズタズタでしたが、まぁまだ生きて仕事もあるので良しとしよう。 ・去年は、見逃した映画が多すぎて死にたい。どうしてもシネコンと配信中心になりますが観られるものをちゃんと観て答えていけたらと思います。 ・ドラマシリーズ込みなら三宅唱『呪怨 呪いの家』、スコット・フランク『クイーンズ・ギャンビット』、佐藤信介『今際の国のアリス』の3作をどこかに入れます。スコット・フランクは新作の話聞いて書いたものが的外れでなかったと少し安堵した。 1、兼重淳『水上のフライト』 ロケ地の1つが自分が来たことのある場所だと気づいてからがもう駄目で、ずっと感情移入しっぱなしで泣き続け、実際観た後心が軽くなったので映画って凄い。個人的な心情と状況が重なっての1位。ベタなほど『ロッキー』であり、市井の人々を映した他愛のない映画なのですが、その市政の登場人物一人一人への視線もきっちりと継承している。後、カヌーという題材とロングショットが映画で描くスポーツとしては微妙ではあることを、表題によって肯定しているのも良い。 2、行定勲『劇場』 山崎賢人の「声」が最大限生かされている。山崎賢人、佐藤信介『今際の国のアリス』でも自転車に乗る人だったけど、『夏への扉』でもそうだったりするのかしら。 3、大庭功睦『滑走路』 インタビューで監督が『寝ても覚めても』に言及していてまぁそうだよなと思ったのだけど、濱口竜介が脚本を書いた『スパイの妻』も『キュプロクス』にかなり似ていたのでちょっと面白かった。 4、三木孝浩『思い、思われ、ふり、ふられ』 色々な意味でまともな人が撮った『ホットギミック』。今年、どう未来について考えるべきか、或いは過去をどう捉えるか、という作品ばかりをベスト10で選んでしまっているのですが、若者にむけて未来を示す映画として一番純然で誠実だと思う。 5、HIKARI『37セカンズ』 あ、こっちで告知を忘れていましたが、『アニクリvol.4s アニメートされる〈屍体〉』に寄稿しております。女性の映画監督がどうアニメーションを踏まえて表現しているか、という昨年の日本映画論になっておりますので、良かったら通販で買って読んでください。 萩原健太郎もそうだけど「日本映画」を外側から捉えた作り手が、アニメーションと実写の垣根を取っ払った演出で新しい風を吹かせていたのは、新たな希望として記憶しておくべきではないかと。後、ネットフリックスで配信された作品などの受け入れられ方も色々考えさせるものがある。三池崇史『無限の住人』の評価を引き継ぐような佐藤信介『今際の国のアリス』のヒットもそうだけど、『バキ』に関してはホントに驚いた。『鬼滅の刃』以上に考察すべきだと思っている。 6、グレタ・ガーウィグ『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』 『リズと青い鳥』を経由した後の山田尚子が『けいおん!』を撮ったらこんな風なのだろうなぁ、という気持ちで観ていた。つまりずっと心地よい。『マンク』を考えるときに、『市民ケーン』と同様に本作も比較すべきかなと。 7、沖田修一『おらおらでひとりいぐも』 丁寧に室内でフレーム内フレームによる演出を重ねながら、イマジナリーフレンドと主人公を独特な空間と距離で表象している。だからこそ、現実と空想、個と世界とが溶解し、接続されていくラストが美しい。『スパイの妻』と対というか、『スパイの妻』が否定していたものを肯定しているように思えた。 8、岩井俊二『ラスト・レター』 『ジョゼと虎と魚たち』に足りないものが、トヨエツが代弁する愛の断絶であるように思えて、あれを語りながら後半全力で感傷の肯定に振り切るとこが他の若手との業の違い。 9、清水崇『犬鳴村』 今年のJホラー楽しかったなぁ…。高橋洋『彼方より』や英勉『妖怪人間ベラ』と迷いましたが、一番観に行く前と後でのテンションが違ったこちらを。 ただ『樹海村』の予告は死ぬほどつまんなそう…なのですが、コトリバコといったら『オカルティックナイン』なのでその辺の使い方がどうなるか楽しみにしている。 10、クリント・イーストウッド『リチャード・ジュエル』 今年ジェンダーやマイノリティを主題にした映画が多い中、インセルや男性性の問題に真っ当に向き合った本作が一番響いた。 前半のリチャード・ジュエルと学校の校長とのシークエンスで、発した本人が覚えてもいないミッキーマウスについての言葉を繰り返し気味悪がられ、コミュニケーションを取ろうとすればするほどどんどん空回りしていくリチャード・ジュエルを端的に映す筆致に、自分も含めた弱者とその置かれている状況を観た気がして、画面から目を離すことができなかった。 個人とは往々にして欠陥を抱えていて、弱い存在だ。論理的に完璧な人間などいないし、欲望はだれしもが抱えている。だから、ある種の粗を探せば足はいくらでも引っ張ることが可能だ。イーストウッドが愛嬌のあるデブによって描こうとしたのは、そのような個人を押しつぶすメディアと、そこに付け入る「権力」の姿だった。 ここ最近の政治的な言及や論争の諸々を眺めていると、本作のことを思い出す。例えばさ、子どもがいかがわしい絵を書こうが政治的な主張をしようが、大人達は大人として彼/彼女らの人生に寄り添って話せばいいだけだと思うのだけど。 以下、観た映画で言いたいことがあるものを徒然と #
by unuboreda
| 2021-01-02 12:06
| 映画(雑談・一言レビュー)
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2020年 12月 30日
文化とハラスメントの2020年 コロナ下の状況は現在の日本において「文化」が危機的状況にあることを顕現化させてしまった。コロナが経済の基盤の脆弱さを表面化させ、演劇や音楽、映画といったジャンル自体が消滅の危機に瀕している。と同時に明らかになったのが、基盤の弱さと特殊な村社会故のハラスメントの問題であったことは記憶に新しい。 アップリンクやユジク阿佐ヶ谷といった有名なミニシアターで従業員に対するパワハラや労働問題が表面化したように「文化」に携わる仕事の諸々が、雇用が不安定で低賃金の中、重労働を強いる「やりがい搾取」となっている現状が伝えられている。他にもSTUDIO4℃の労働問題などもあったが、2020年は、人気の出やすくある種の宗教的な色合いを帯びやすい芸術産業が、華やかさの裏で大きな問題を抱えていたことが明らかになった年だった。ある種の人気やカリスマ性を持つ存在が「映画」や「芸術」といった旗印の下で暴君となり、その中で様々な抑圧を強いていたのである。このような問題が表面化した現在、「文化」の在り方自体が問われているといっていい。 ・・・当然、そこにはカオスラウンジにおけるハラスメントも含まれている。最初の黒瀬陽平の解雇から一転し、法廷で事実関係を争うそうだ。そういった問題は顕現化しただけで、未だ続いている。そんな中出たのが東浩紀『ゲンロン戦記』であった。 「「数」の論理と資本主義が支配するこの残酷な世界で、人間が自由であることは可能なのか?」というキャッチコピーがかかれたそれは、会社の顛末記としてAmazonでも好評価で受け入れられているし、自分のTLにも批評家や研究者と呼ばれる人間たちの好評が並んでいる。思想哲学の実践、ホモソーシャルの相克、知の観客をつくる…。 この状況に対して、怒りと蔑みを噛みしめながらこの文章を書いている。『ゲンロン戦記』の内容が不愉快極まりないものだったことはまだいい。信じられないのは、あいちトリエンナーレやカオスラウンジの顛末を知りながら、あの本を手放しで賞賛する日本の言説業界や読者達の無神経さとレベルの低さだ。彼らは自分たちが今年の「文化」の状況について何も考えないまま、「批評」などという上から目線の雑文をたれ流していたのか。卑しいしっぽを振って、そんなに仕事がほしいのか。 ミニシアターの問題が表面化した時、映画監督である深田晃司は声明を出し、自作の主力上映館だったアップリンクと手を切り、上映を取りやめるというアクションを起こしていた。このような状況下において、それこそ身を切るような判断だったはずだ。それでも、彼は映画監督として、業界のためを思い、自らのスタンスを突き通した。そういった人間が存在しない「批評」はもはや死んでいるといって良いだろう。 少なくとも、『ゲンロン戦記』にかかれている文章は、独善的な経営者である東の自意識がそこかしこに見えるもので、それはカオスラウンジの顛末と地続きのもののようにしか自分には読めない。 経理Bに降りかかったことについて ー 『ゲンロン戦記』に見る労働環境 『ゲンロン戦記』は、株式会社ゲンロンを経営した10年間で起こった様を記録しつつ、その活動にどのような思想があったかと語る文章である。株式会社 ゲンロンの経営している内実を語る中で、イニシャルでいくつかの社員が登場するが、彼らについて言及していく東の口振りはあくまで否定の色が強い。その中でも、経理を担当していたBについての説明は、あんまりじゃないかという文が続いている。 2014年にはすでに社員を限界まで減らしていて、カフェイベント用の臨時バイトを除くと、ぼく、前述の上田洋子さんと徳久倫康くん、このBさんと彼のアシスタントのCさん(アルバイト)5人だけでゲンロンとカフェ両方を回す状況になっていました。そしてそのCさんもBさんとは別の理由で2014年末に退社していた。それで、ますます社員は減っちゃったけどしかたない、頑張ろうということで4人で1月2日で初詣に行ったんです。成田山は商売繁盛のお寺なので、お守りの札を買って、最後に名物のうなぎを食べて解散しました。(P77) この後、家族旅行に行った東は帰りに退職のメールをもらい「もう脱力しました。それなら初詣のときに言ってくれと。」と書き、最後にはこうしめる。 ぼくはまともな社会人経験を経ないまま、若くして有名になってしまいました。だから、偉そうな態度で社会に向きあってきた。その限界を、Xさんの使い込み、Aさんの放漫経営、そしてBさんの遁走によってついに気づかされた。当時ぼくは43歳。あまりにも遅い気づきで、恥ずかしいかぎりです。(P80) 絶賛している人間は、この一文を見て何とも思わなかったのだろうか。Bが退職したのは何故かは明白だ。元々は限界まで社員を減らし、本来必要な人出がやめた状況の中、2社分の経理を押しつけられたことが退職の原因である。「ますます社員は減っちゃったけどしかたない、頑張ろう」などという言葉で済む訳がない。経費削減とそれに補うための精神論はブラック企業の論理そのもので、三が日に会社のイベントで駆り出されたBには同情を禁じ得ない。しかも、この時系列より前には「IKEAの家具」の下りもあるのだ。横浜のIKEAの家具を購入し、チェルノブイリツアーの間に「組み立てて書類を整理してほしい」と指示したという。 それから約1週間。不安を抱えたツアーもひとまず成功して、ほっとした気持ちで日本に戻ってきました。(中略)成田着が20時近い便だったから、途中夕食を食べたりして、ゲンロンに到着したのは23時台だったと思います。 もし俺が経営者だったらこの労働環境は絶対に秘匿する。それだけ、どうみてもアウトだろ、という状況がかかれている。 1、23時台に社員が残っていることを「それはまだいい」と述べているということは通常の勤務時間ではない。 2、社外に関わらない事務作業で、早朝までの深夜労働を強要している。 3、経営者が怒りを社員にぶちまけている。 ・・・いや、無理でしょ。どれか1つでも自分の職場で起きたらゾッとする(少なくとも、ブラックと言われている教員でも2はないし、23時まで学校に残ることは稀)ことが揃っており、Bは退職して当然だ。通常業務がどれだけの量だったが明記されていないことがポイントで、そもそも大の大人が数人がかりで11時から早朝までかかるような棚を設置させるなら、その時間をどこかでスケジュールで捻出しておく必要があったはずだ。そういった管理までが指示に入る。それがなされないまま、怒って深夜残業させる、というのはまともな労働環境ではない。 昨今、コロナ下における映画の撮影中に、スタッフにブチぎれるトム・クルーズが話題になっていた。トム・クルーズがスタッフに求めていることは妥当だと思ったが、それでも海外ではその怒り方に対する批判が集まった。海外では、そういったコンプライアンスと労働に対する意識が前提となっている。揚げ足取り?左翼的思考?・・・何とでも言ってほしいが、ここでかかれている状況を是とする人間が持ち出す「批評」に意味があるとは、自分には到底思えない。昨今の文化産業を取り巻く問題を考えるために、海外の姿勢や思考について何かしらの意識を持つべきだからだ。思想となればなおさらのこと。ここでかかれている状況を看過する人間に社会を語る資格はない。 しかも、そのようなBの退職について、東は「遁走」と総括しているのだ。この言語感覚への違和感を持たない人が「知的な観客」であるならば、私は知的でなくていい。まともな社会人経験を経た人間ならば、このような人間の下で働きたいとは思わないはずだ。 東のホモソーシャル性について 状況だけでなく、東の思考についても、独善性は見てとれる。東はネット記事にもかかれているように、自身のホモソーシャル性への反省を表明している。同じ仲間=自分と似たような人物と共に批評をしようとしていたが、それは間違いであり、多様性が大事だったと。 だが、その建前とは別に、本文では他者を認めない自意識ばかりが目に付く。謎も最もわかりやすいのはAについての言及だろう。彼は経済感覚がない人物とされ、「放蕩経営」を招いた元凶として語られている。ゲンロンカフェの創始者であるにも関わらず、である。そのゲンロンカフェとAの関わりについて、東は以下のように語っている。 閉店そのものへのAさんの功績は否定できませんが、開店後の収益構造は彼の計画とはまったくちがうものになっています。前章にもちらりと書きましたが、Aさんはカフェ経営に過大な夢を見ていて、昼はシェアオフィス、夜は充実させたオシャレなイベントスペース兼バーみたいなかたちを目指していました。そして実際にアルバイトを雇って五反田駅前でチラシを配ったり、自分がDJになって音楽を流したりしていたのですが、そんな生兵法でひとが来るわけもない。Aさんが在社しているあいだは売り上げは下がる一方で、頭を痛めていました。 この語りを間に受けると、Aさんは退社した後に変わったことになる。だが、そもそも「イベントスペース」としての性質自体は変化していない以上、実情はAが在籍している間の行いもまた「試行錯誤」の一環だったはずだ。新しい事業であれば、収益化する前に支出が生じるのは当然のことだし、そこで消滅したアイデアも多々出てくる。Aが放蕩経営だったのではなく、新しい事業を手がけたことによる当然の支出が発生しているだけだ。問題なのは、東がそれをまるでAの欠点としてあげつらっているという事実だ。彼は、ゲンロンカフェの成功が全て偶然の結果のように語っているが、少し考えれば詭弁でありポジショントークにすぎないことは誰の目からも明らかだろう。そのような東の精神性は、『観光客の哲学』に対する一連の文章で爆発する。東はゲンロンでの企画や諸々の活動の総決算である『観光学の哲学』を「ぼくひとりで書き上げるという判断で生まれたもの」と語っているのだ。 普通、本を書いた人間はどういったことを語るか。どの本の後書でも記されているのは周りの人々や環境への謝辞であるし、それが普通だ。会社を通してチェルノブイリツアーなどを経てきた経験を踏まえたら、当然、会社の営みの総決算としてあの本は捉えているものと思っていた。だが、ここで展開されるのは「この本について社はほとんど何もしていない」という不遜な態度と社員に対する怒りである。以下の流れに至っては狂気的な何かさえ感じる。 2017年5月には、300万円ほどをかけてゲンロンカフェに放送ブースを新設し、照明機材を新しくしました。配信の質はよくなり、放送の売り上げも伸びましたが、スタッフがブースを個室のように使って快適に仕事をしているのを見て、複雑な気持ちになりました。(中略) ここで恐ろしいのは、「配信の質」が良くなったことに対して、スタッフが介在する要素を何一つ見いだしていない東の認識それ自体である。まるで、自分が機材を新調したから放送の質がアップしたぞ、といわんばかりの姿勢で、この会社の社員の入れ替わりが激しいのもそりゃそうだわ、としかいいようがない。宣伝記事 の「若手論客」に対する曖昧かつ謎な見下しを含めて、彼はどうも自分の手柄を独占したいらしい。 そもそもだが、日本で一番著名な思想家と呼ばれる男が、苦労や負荷を是とする旧来的なマッチョイズムに染まっていることに、多くの読者は何も思わなかったのだろうか。別に愉快な顔しても深刻な顔していても、仕事の質や内容とは関係がない。ここから判明するのは、東浩紀という人物が、気難しい顔付きをしていないと勉強していないと見なし、成功したら俺のおかげとしてしまう、まるで教師の屑のような振る舞いをしている人間だということだ。そりゃ多くの社員がこの会社辞めるよね、と思わずにはいられなかった。 今まであげつらった東の性質はあとがきにかかれたある台詞に凝縮している。私はその言葉を読んで、最近観て夢中になった佐藤信介『今際の国のアリス』のあるキャラクターを連想してしまった。 佐藤信介『今際の国のアリス』を踏まえて ー 「批評」という幻想に騙されないために 『今際の国のアリス』はネットフリックスで配信されているドラマシリーズで、低予算の映画で大量生産された「デスゲームもの」の集大成のような作品だ。過去のデスゲームで印象的だった俳優陣を揃えた上で、予算と技術によって大きくスケールアップした生死を賭けたゲームを展開していく。このようなサバイバルが突きつけられる物語に、現代社会の状況が反映されている、という宇野常寛の指摘をなぞるように、『今際の国のアリス』では、現代の日本が抱える閉塞感が物語に反映されている。(注)サバイバルゲームに参加するほとんどが社会的弱者やマイノリティとしての背景を持ち、彼らが生き残りをかけて刹那的な争いを繰り返す様は、まさしく新自由主義が軸となった後の日本が描かれている。文化と見なされていなかった日本の文化を踏まえ、日本の貧しい現状を映像化せしめたという点で、佐藤信介『今際の国のアリス』は、三池崇史『テラフォーマーズ』の正統的な後継作といっていい。 ここで問題にしたいのは、中盤以降の重要人物として登場するボーシヤというキャラクターだ。 彼はビーチというゲームを集団で攻略するコミュニティをつくり、そこでリーダーとして君臨している。彼は「ゲームクリアでもらえるトランプを全て集めることで現実世界に帰ることができる」という虚構を人々に信じさせることで団結を生み、自らのために人々を利用している。その彼が主人公に過去を語るシークエンスがある。彼は現実世界ではホストクラブを経営しており、そこで雇っていた若いホストを「教育」していった結果、自殺に追いこんでいた。彼はそのことを回想しながら語る。「あいつの死は必要だったんだよ、俺を成長させるために」と。 ボーシヤは人々に虚構を信じ込ませることで、一致団結させ、自分のために酷使し、そうではない他者は捨て駒として切り捨てていく。「ビーチ」には、新自由主義下におけるブラック企業とその搾取の構図が隠喩されている。このボーシヤの語りがおぞましいのは、「あいつ」への固有性への視点が全く欠落していることだ。同時に、以下の一文にもまた他者性を全く見ていない人間の語りのように、自分には思えてならない。 本書ではアルファベットで5名の人物が登場する(Cさんはほとんど登場しないので実質5名。)彼らは本書のなかで、ぼくが自分の愚かさに気づくきっかけとして、とても重要な役割を果たしている。だから登場してもらった。 ここで書かれているのは、全てがトップのデッドコピーだと考える、まさしくホモソーシャルの世界に君臨する王の傲慢な認識に他ならない。彼は、何も成長してなどいない。ただ、自分を否定する存在に壁を張り、「批評」という自分の宗教を信じるものを引き連れて声高な主張を繰り返すだろう。その裏で、多くの人を否定しながらも。 私たちが反資本主義として拠り所にしてきた「文化」が、そういった多くのボーシヤによって支配されてきたことを忘れてはならない。私たちが認識すべきは、「文化」がその旗印の下に多くの人々を搾取してきたことであり、この貧しく余裕を喪った日本において「批評」などというものはとっくに死に絶えているという現実である。少なくとも、カオスラウンジの裁判の現在を踏まえずに、このような醜悪なものをもてはやす人間に何かを論じる資格などある訳がない。シュプレヒコールをあげた「批評」に携わる全ての人間は恥を知るべきだ。 (注)この作品が優れているのは、二人の元ニートである主人公とラスボスの認識が、現在の新自由主義の表層と深層を表現していることだろう。完全な弱肉強食でない、悪意によって人の尊厳を踏みにじるシステムとして新自由主義が描かれている。主人公の設定の改変は感動的な3話だけでなく終盤でも機能している。
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by unuboreda
| 2020-12-30 15:00
| 評論
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2020年 12月 19日
昨今のニュースについて 最近、様々な物事について考える際に、スラヴォイ・ジジェクが「動きすぎてはいけない」といったことを思い出すことが多い。 全てにおいて速報性が重視されるインターネットの言説において、何か事件や作品について考える時、どうしても短絡的な反応になり、それに基づいて行動してしまう。けれども、そのような短絡的な反応自体が間違いであり、むしろ動かない方がよいことの方がよい。だからこそ必要なのは、熟慮、止まって情報を集めて、考えることなのではないか、といった趣旨の文章だった記憶している。ある種の政治活動に対するアンチテーゼと呼ぶべきこの言に完全に同意することはできないものの、(注1)何か昨今の状況を打破する上で示唆的なものを感じている。 実際、私たちは長いスパンで物語や事象を考えていくことを忘れてしまっているような気がして、たとえば「コロナ」にまつわる諸々のことについても、数年後の社会の在り方をデザインする、という話はあまり聞かないように見受けられる。(私の勉強不足なのかも、ですが) 実際、このブログについて考えてみても、インターネット界隈で多くの人に記事を読んで欲しい、と私も心のどこかでは思っている訳ですが、どうしても即時的な反応や表現ができないとこがあって。実際ある映画を観た後、少し置いて考えていくことはとても大事なんじゃないかと最近考えていて、ああこのシーンはこんな意味だったのか、ここは一度感動したけどよくよく考えるとおかしいな、じゃあなんでここはこのショットが選択されているのだろう、と話や思考をあれこれしていくことで、最初の印象や捉え方も変化していく。「騒音おばさん」というノスタルジーさえ感じる主題を取り上げた『ミセス・ノイズィ』を観たときに、ふとそんなことを考えた。 「騒音おばさん」の背景と表現史 そもそも、「騒音おばさん」は過去にも映像化されている。2010年、まだ日本が自らの荒廃を見つめずに済んだ時代に、メディアがおもしろおかしく個人を対象化し、テレビでたびたび映像で流されたのが「騒音おばさん」であった。一方、その報道に対し、ネット上ではむしろ彼女が被害者であったという対抗言説が生成されていく。宗教団体の嫌がらせを受けた故に彼女はあのような行動に出ていた、というのである。そのような事件への疑問やメディアへの反発が表現に転じた例はいくつかあり、たとえばラッパーの般若がその代表作「その男、東京につき」でテレビの報道に異を唱えている。その般若のドキュメンタリーと本作が公開時期が重なるのは、単なる偶然にしてはなんだか出来過ぎる気がして面白い。 そして、当のテレビ業界でテレビとネットの情報を踏まえてドラマに仕立てたのが、テレビの報道への批評性を内在したモキュメンタリー『放送禁止』シリーズで知られる長江俊和であった。 放送禁止シリーズ上もっとも苦情が来たといわれる「恐怖の隣人トラブル」は、隣人トラブルの深層には家族関係の不和と宗教団体が絡んでいる、という「騒音おばさん」の状況を暗喩したプロットをドキュメンタリー風の描写を軸に描いている。本作は、テレビで描かれるもっともらしい表象の裏には、秘匿された真実が隠されている、という流布された陰謀論をなぞっていく。本編はナレーションをかぶせたドキュメンタリー風の映像を装い、見せ場では長回しを採用することでもっともらしさを演出し、最後には謡曲に合わせたモンタージュによる映像的快楽によってそれらを翻し「真相」を提示する本作は、黒沢清に対する憧憬と森達也を彷彿とする政治意識とが奇妙に融合した長江俊和の到達点といってもよい。(注2)事実、佐藤佐吉の革新的なスリラー、『黒い乙女』シリーズ(2019)など、近年長江のスタイルを踏襲する作品が登場しており、本作もそういった流れと無関係であるはずがない。 だが、天野千尋はモンタージュを、クライマックスではなく中盤、不確かな情報が拡散していく様に用いており、その部分だけが映画から浮いた印象を与えている。これは何故だろうか?そこには「陰謀論」が持つ意味自体の変化が反映されているように思える。 ポストトゥルースの時代と陰謀論の限界 「騒音おばさん」が放映された時代は、マスメディアであるテレビとネットを二項対立として扱うことができる、それだけマスとしてのテレビが力を持った時代であった。同時に、諸々の共通認識がそれなりに機能していた時代だったといってもいい。だからこそ、テレビの裏側に真相がある、善悪は反転して報じられている、という考えは変革を促す力があったといえる。 だがしかし、そういった陰謀論による反転は、ある種、プロレス的なマスメディアの単純化と矮小化を引き継いだ形で物事を「首謀者」に一元化してしまう。コインを裏返しただけで、そこに複数性や思考がもたらされる訳ではない。吉本光宏『陰謀のスペクタクル』(2012)が論じているように、陰謀論は個人では把握できない複雑な世界の在り方をとらえるために個人の主観に偏った世界観である以上、そこには当然、欲望と単純化が入り込む。 だからこそ、テレビのイメージを暴くという陰謀論的見解を持ったインターネットは、次第にテレビと同じようなキャラクタライズと単純化を、よりドラスティックな形で進めていくこととなった。そこには人種差別やある種の蔑視がより強固なものとして遍在化していくし、複雑な思考は消失していく。たとえば、ニコニコ動画や2ちゃんねるといった言論空間が、民主党の問題点を指摘していく一方で、自民党に政治利用されていったことを思い出したい。今のニコニコ動画で流れた管の放送が、世界の現状や他の首相達から考えるとあまりにバカバカしい幼稚なそれで始まるのは、悪い冗談みたいなテレビの鏡像だからに他ならない。 欲望に忠実な曲がった世界観は、絶対的な価値観の喪失から否定されえない。故に「真実」ではなくそれぞれが信じた「物語」を演じる。そういった状況で議論がなく他者否定がなされていくのが昨今の現状、ポストトゥルースであり、メディアは昨今より他者への想像力や複雑な世界を捉える視点を喪っている。長江の放送禁止シリーズの初期が極めて強い社会意識とメディア批判性、そして映像的強度を持ちながら、森達也の『A』(1998)にはなり得ていないのは、こういった世界の複雑さへの手触りだといってよい。長江の作品がそういった複雑さを手に入れるのは、内面化という精神分析的主題を持ち出した劇場版を待たなければならない。(注3) 天野はこれらの状況を踏まえた上で、『放送禁止』のスタイルとモンタージュの映像的快楽から距離を置いているように見えるのだ。 以下本編のネタバレ #
by unuboreda
| 2020-12-19 00:45
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