3時10分、決断のとき |
そういった浅はかな考えは、オープニング、影のかかったクリスチャン・ベールの顔、陰鬱さと誠実さとが入り混じったその表情を観た時に、霧が晴れたように消えていってしまった。そして何かを確信して、銀幕を見つめることができた。
この映画を体験できたことを、感謝してます。ジェームス・マンゴールドありがとう。
今までの西部劇、その様々な要素を散りばめた冒頭の駅馬車襲撃のシーンのように、過去の映画から脈々と受け継いだものをまざまざと見せ付ける場面があるかと思えば、鉄道建設に従事した中国人労働者や原住民の虐殺など、過去の西部劇の多くが取りこぼしていった「現実」にも言及し、カメラに収めていく。
もう昔のように「正義」は描けない。善良な小市民=ダンと伝説の大悪党=ウェイド、白と黒と露骨な対比をしておきながら、道中常に二人の問答を繰り返し、そういった白黒の境界線の曖昧さや揺らぎを焙り出していく。そして二人を助け合わせることによって、そういった境界線などでは括れない、人間の姿を描き出していく。
その過程は、ある人が見ればまどろっこしく、くどいものに見えるかもしれない。けれども、それは21世紀に糞真面目に西部劇をやるのに絶対に必要な描写であり、演出なのだ。
クライマックス、「正義」どころか「倫理」さえ成り立つかどうか危うい世界がダンの目の前に立ち塞がって、その世界を知り尽くしているウェイドが、ダンにあきらめろと口にする。
それでもダンは、降りない。降りずに、ある理由から絶望的な世界に対峙する。
それを見てウェイドが取った行動は・・・。
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『ターミネーター4』のトム・クルーズの代用品みたいな使われ方でもなく、『アメリカン・サイコ』や『シャフト』のように神経質さや歪みばかりがクローズアップされているわけでもない。
人間的な弱さや陰翳を抱えながら、それでも辛うじて人間としての尊厳や誠実さを保とうしているダンという役は、クリスチャン・ベールという役者のポテンシャルを十二分に引き出していて、今まで他の作品で隠されてきた彼の魅力が、スクリーン上で輝いていた。
また相対するラッセル・クロウも素晴らしく、こういってしまうと褒め過ぎなのかもしれないけど、ジョン・ウェインを彷彿とさせた。
・・・不満といったら、この作品が2年も劇場でかからなかった日本映画界の現状と、こういった時代劇が出てこない日本映画界の現状位です・・・。
・・・後者に関しては、9月で覆されるといいなぁ・・・。