「顔」の消失、または、カットバックの消失ー『アウトレイジ』 |
村瀬組の中野英雄や石橋蓮司に為される、それこそ文字通り「顔」を潰す暴力が前半の「メンツ」を軸にしたやり取りを象徴しているが、そこにおいて暴力の所在、誰が誰を傷つけたかは明らかになっており、だからこそ暴力は連鎖していく。
暴力描写以外の面をみても、ヤクザ同士それぞれが対面し、お互いの顔を観てやり取りをしていく。印象的な椎名桔平と杉本哲太のやり取りを思い起こして欲しいが、前半においてはヤクザはたびたびクローズアップで撮られ、その画面に映された顔面がカットバックで繋ぎあわされることによってお互いの感情(それは、情感と呼ぶにはあまりにも乾いているものであるが)をやり取りしていく。
椎名が杉本に「顔を立てる」という科白を述べた後で為される、ビートたけしと國村隼とのカットバックで撮られた会話劇と暴力のシークエンスをもって「メンツ」を軸にした前半の抗争はクライマックスを迎える訳だが、それ以降の抗争は「メンツ」という軸を失い、それ故に暴力は連鎖することなく、所在があいまいな一方的な虐殺へと変化していくこととなる。
その旧来の「メンツ」という軸の消失の象徴として、この映画においてもっとも魅力的な笑みを浮かべていた椎名桔平の「顔」の消失を挙げられることが出来るだろう。あの暴力シーンの残酷さが際立っているのは、今までクローズアップで撮られていた椎名の顔を奪うことによって、椎名の固有性までもを奪っているからであり、それはビートたけしが村瀬組の面々に為した暴力よりも根源的に残虐なものなのだ。(顔を傷つけられることによってその固有性が強調される中野英雄との対比)
メンツの消失はまた、怒りや劣等感や情感といったものの消失も意味しており、だからこそ裏切りの後も表情をクローズアップで捉えられ、それ故に決意や悲壮感を漂わせていた杉本哲太は死に、そういった感情とは無関係であり、誰ともまともに顔と顔のやり取りをしてこなかった(特定のだれかに感情を抱かなかった)加瀬亮が生き残るという結末に繋がっていくといえる。(生き残った面々が、上辺のやり取りをしていくラストシーンの味気なさ!)
『アウトレイジ』とは、怒りの射程の外にいる人間こそ、真の極悪非道であるという意味の言葉ではないだろうか。
そして、魅力的な顔面を持つビートたけしは、この感情のやり取りが為されない現代の中では生きていくことは叶わずに、旧来の「メンツ」のやり取りの中で死んでいくことになる。そのような結末に、北野武の現代に対する、諦めにも似た乾いた視線を感じてしまった。(組織の階層の上部から仁義を忘れた裏切りが起こり、それ故にすべての人間から情が消失していく。そのような構造に、現代の社会の現状とを重ね合わせることが出来ないだろうか?)
… これが俳優・ビートたけしの終焉のための物語ではないか、という一抹の不安が観終わった時にふとよぎった。北野武は律儀な信頼に足る演出家だと思うのだが、映画の面白さを大部分を支えているのはやはり俳優・ビートたけしの魅力ではないか。年を考えずに、もっともっと、北野映画のビートたけしを観せて欲しい。