HERE-『アブラクサスの祭』 |
青山真治『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』が描こうとして全く描けていなかったことが、中村義洋ばりの丁寧さと誠実さを持って表現されていて、商業デビューの新人としては突出しているのではないかな、この人。
・・・この映画は自分自身がノイズである、という認識がまずあって、自分が他者からはうとまれる存在かもしれない、という現実とその恐怖をしっかり描写していき、その上でそれぞれが各々の音をかき鳴らせばいい、という結論へと着地していく。僧侶の音楽が下手な共有感や一体感を招くことはなく、最後までどこか異物としての何かを残していて、それだからこその心地よさと高揚感があって。
各々の音をかき鳴らせばいいというテーマは高校生とそのバイクのエピソードに集約されている。ライブシーンの合間に高校生が旅立つバイクの音がただそれだけで鳴り響き、それぞれが違う道で、違う音が出している様が、一体化されずに配置されている。それが別々であるように見えて、旅立つ高校生の姿とラストシーンでの僧侶の姿が重ね合わせられることによって、最後に繋がっていく距離感の絶妙さ。
そう、「画面の向こう側」へと、こちらが覗き込むことができない彼方へと登場人物が歩んでいく様に、同じように観客に劇場を出てから歩いて欲しい、という監督の願いが込められているようでいて、観終わった後『クローズZEROⅡ』の金子ノブアキばりに胸を叩きたくなってしまった。「その心、受け取った」と。(・・・いや、俺はあんなカッコよくないけどさ)
忠実に起承転結に沿った脚本にも唸らされるが、その「転」の部分の死の空気が充満しているシーンの一つ一つの、その強度の強さに驚かされる。この二つが両立できている作家は日本映画では稀だ。
確かに大ヒットはしないだろうし、金がかかった大作、という訳でもない。しかしながら、丁寧に演出を積み重ねることによって、小さな劇場で観た観客一人一人に何かを残せる、こんな映画が今の日本映画に必要なのではないか。(それは『ちょんまげぷりん』を観たときにも思った。ともさかりえは今年、凄く作品に恵まれていたと思う)そう、この映画の冒頭、体育館ので自己の中で雲泥していて、うまく高校生たちに言葉を紡げなかった僧侶が、ラストのライブシーンで観客と1カットで繋がることが出来たように、ここから日本映画はどこかにつながるのではないか、と淡い期待を持っている。
・・・そう、それはいつも、小さな劇場から。