異常者として、異性へ ― 『ドラゴン・タトゥーの女』 |
異常者として、異性へ ― 『ドラゴン・タトゥーの女』
『チェンジリング』の影響を感じつつも、そこから鮮やかに飛躍してラブストーリーが展開されていく『J・エドガー』と続けて観たためなのだろうけど、今になってハリウッドでメロドラマ、ないしラブロマンスが再評価されているのかもしれない。男社会ばかりを描いてきたフィンチャーがはじめて「少女」を表題にして描き出した男女の苦い関係性を観終わった後、ふとそんなことを思い描いていた自分がいた。
この映画は、一見すると犯人は異常な欲望を持つ男性と、その被害にさらされそれに対抗していく女性との対立を軸に描いているように見える。
調査員であるリズベットと福祉科の変態との対立と、ミカエルという記者が極寒の地に潜む殺人鬼の探索とを、交互に画面に映し出すことによって同時進行で描き出していく。その同時進行はリズベットが福祉科の男を文字通り屈服させ、二人が合流した後も続いていくのがこの映画の特徴だろう。
殺人鬼にそれぞれ別の推理からたどり着いた後、「女のように」殺人鬼に囚われたミカエルをリズベットが助けだし、彼女が「男のように」銃を持って殺人鬼を追いつめていく。そして事件が解決された後、ロンドンで答え合わせをするシーンで、失踪した女性とミカエルが「被害者」という点で共通性を持つ存在であることが示唆される。そのことによって、ミカエルが天使のような中性的な存在であることが示され、一連の事件は異常な欲望を持つ男性側(福祉科のデブ、殺人鬼)を、その被害にさらされた女性側(リズベット、失踪した少女、そしてミカエル)が打倒する、そのような物語として読めるような作りになっている。
この過程の中でミカエルとリズベットは男女関係を結んでおり、それはある種男性性と女性性が逆転した関係のように見えるものになっている訳なのだが、問題なのは、そのような構成であるにも関わらず、二人の行動は合流後もあくまで「同時進行」のまま、クロスカッティングによって演出されている点だろう。そして、それはこの後の展開と、被害にさらされた女性側にたつ人間らの差異とを描き出しているように、自分には見えた。
たとえば、同じように男性に虐げられ、疑似的な父親を求めていたはずのリズベットと失踪者だが、二人はミカエルを介してしか交わらない。そして、疑似的な父親である叔父と失踪者とが抱擁する姿にリズベットは目をそむけるシーンが決定的だが、同じような病気で倒れたはずの疑似的な父親との関わりにおいて、明暗をもって対照的に、また対称的に二人の女性は描かれているのだ。その対比は、つまるところリズベットと「素晴らしき人」であるはずのミカエルとが結ばれないことを示唆しているといえないだろうか。
なぜ、結ばれないのか。それを考えるためには、もう一つの共通性に目を向けなければならない。それは、男性側と女性側に分かれているように見えてその実、異常な欲望を持つものとそれに対抗するものとが鏡像関係にあるという点だ。
ミカエルと殺人鬼は、一見対立するように見えるが、一方でその実彼らは共に「列車」からやってきたものであり、そして「嘘」をつく存在である。「嘘をつかないものなどいないだろう」という殺人鬼の言葉を反復するように、ミカエルは最後リズベットに対して嘘を付くことになる訳なのだが、リズベットの「素晴らしい人」という言葉とは裏腹に、ミカエルは不倫関係に溺れ、家族に嘘をつくことに慣れた男として描かれている。彼は、やはり女性にとって悪なのだ。
一方のリズベットについても同様に、福祉科の男と彼女の関係性を、ミカエルとの関係性においても反復している節がある。事件が終わった後、リズベットはミカエルと「福祉科の男と同じように」小切手によって金銭のやり取りをしてしまうのだ。それは理想的に見えた異性像であるミカエルに父親としての役割を求めていると読めるかもしれない。しかし一方で、自由に金をコントロールできるその関係は、福祉科の男と同じように、相手が求めるものを与えることによって、相手との肉体的なつながりを維持しようとする行いだったといえないだろうか。(ミカエルの獲物だったはずの男が殺されることによって、そのやり取りは失敗に終わることになってしまうが)彼女が拳銃によって殺人鬼に自らとどめをさすことが出来なかったように、彼女はミカエルにとっての男性的な存在に成りきることは叶わないのだ。
悪には悪だけしか勝てない、というキャッチフレーズがあったが、正確には悪には悪だけしかコミュニケーションを取ることが出来ない、とするのが正しいだろう。そして、男女の関係においては殊更、「異常者」としてある境界を踏み越えることによってしかやり取りができない人々がこの映画では描かれている。
ラスト、彼女はミカエルへのプレゼントに添える手紙の宛先は「M」となっているが、それは「男性(MAN)」を表す記号だろう。それはラストの「嘘」を予感させるものとなっているが、しかしそれ以前にリズベットは裏切られることを殺人鬼の言葉を借りれば「分かっていた」のではないか。捜査中、リズベットはふと、「列車」が通り過ぎる瞬間うしろを振り返り、「列車」を不安そうなまなざしで見つめるシーンがあるが、あれは男性が嘘をつく存在であることを直感した瞬間だったのではないか。しかし、そのような空気に触れたとしても少女は異性を求め、予定調和のように傷つき、そして女へと成長を遂げて男とは別々の道を歩んでいく。
そのような顛末が描かれるラストシーンには、今までのフィンチャーの映画とは別種の苦々しさが漂っている。