もう一人の死者は、誰? ― 『アナザー』 |
grapevineのアニメMADを深夜に作業中エンドレスリピート(http://www.nicovideo.jp/watch/sm17526793)
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あらやだ、アニメ楽しそうだし実写映画化するそうだし、原作読むっぺ
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原作読了
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実写映画版を観る。
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今ここ。
・・・つーわけで、実をいえばアニメ版はネットの知識で知ったかしているだけでまだ観てないんだ、すまない。後『みーまー』の実写映画と続いてまた「俺の解釈と違う」という話なんだ、すまない。そして古澤監督、文学フリマでセロテープを貸して頂いた恩は忘れませぬ。
・・・最後に話は変わりますが『おおかみ子どもの雨と雪』について、あの映画がgrapevineの歌詞みたいに、代入可能、感情移入可能な空白に満ちている、という点を指摘しているヒノキオさんのレビュー(http://blog.livedoor.jp/hinokio603/archives/51406904.html)をみんな読むといいと思うよ!
もう一人の死者は、誰? ― 『アナザー』
原作を映像化する時に障害になるのが、叙述トリックをどう再現するか、という点にある。語りの中で呼び方が違う人間が同一人物だった、という部分が結末に盛り込まれており、それが、実を言えば他愛のない話と受け取られかねない原作の中で、クライマックスを盛り立てるものになっているといえる。
本作では、そういったミステリーの要素はことごとく排除されており、学園ホラーとして割り切った演出が為されている。原作の伏線だったインコも祖父も出てこず、主人公の叔母が副担任であることも序盤に明らかになるし、結末の説明にも「副担任」という言葉は使われない。そこに、演出の意図として一定の理解が出来るものの、物足りなさを感じざるをえなかった。紛れ込んだ死者は誰なのか、原作をしっかり理解すれば、実写映画にもトリックを積み込むことが出来たように、自分には思えたから。
確かに、原作のような叙述トリックは、少なくとも実写映画では不可能だ。しかしながら、だ。原作は、叙述トリックの一方で、もう一つ、全く語りからは認識されていない「錯誤」が織り込まれている、という読み方が可能なのではないか。それは、玲子という死者は、つまり主人公が叔母だと思っていた女性は、実をいえば主人公の母親だったのではないか、という読み方が。
ヒロインである見崎とその姉妹である死んだ少女とを主人公が取り違えるという場延と母と叔母が写真で似ているとされる描写とが対応している点や、母親も「呪い」で殺されたと定義されている点、またはヒロインの見崎と継母の関係がクローズアップされている点などをふまえれば、主人公が死んでしまった母親への憂いと想いとに故郷で出会い、見崎というはじめて出会った「女性」=「他者」の力によって、そこから脱却していく過程、(この映画の言葉で言い換えるなら、母への想いと死とにちゃんと向き合う過程)を描いた作品だと原作を定義することが出来る。だから、記録でしかないテキストにかかれた叔母という言葉は、母親という文字が改変されたものである可能性は否定できないのではないか、というのが自分の読み方である。(こう読んだ方が、アンチ・ミステリーじゃないか?という、別にミステリー好きではない人間の考えだったりする)
勿論、この読み方が正しい原作の読み方だと言うつもりは毛頭もない。ただ、実写映画化するに際しては、「玲子叔母さん」と「三神先生」の叙述トリックを使えない以上、(アニメ版のやり方を、実写映画でやることは不可能だろう)この母と叔母との取り違えと主人公のそれに対する執着と自立を軸に物語を進めていく必要があるだろうと自分は原作を捉えていた。しかし映画版がどうだったかといえば、そうなっているとは言い難いのである。
実写映画版は、見崎と主人公とのカップル描写に大きく力を注ぎ、それ以外はアニメ版を中途半端に踏襲した上で、他の人物の描写についてはばっさりと削除してしまった。それは、選択としては間違いではない。実際、橋本愛は「綾波」になりかねない原作のキャラクターに、ふつうの女子高生っぽさと健気さを足したような感じでかなり良かったし、追加で書き込まれた継母とのやり取りは、前述のテーマを見せるものに、なるはずだったのかもしれない。しかし、そういったテーマの浮き彫りにさせる要素は、結末の一連の流れですべて台無しにしてしまっている。合宿中、何か実際の母親らしき幽霊が映り込んでいるシーンを見て落胆させられたのだが、その後、主人公が自分の手を下さないで美神先生が自殺する、というとんでもない改悪が為されていて酷くがっかりさせられてしまった。そして、ホラー映画お馴染みの「悲劇は繰り返す」という下りを作るために、登場人物の悲哀がすべて有耶無耶にされたに至っては、ジャンルに縛られて大事なことを忘れてしまっている製作陣に怒りを覚えてしまった。(鶴田法男『王様ゲーム』のそれとは似て非なるものだ。あれには少なくとも、呪いに囚われたヒロインの悲哀を見せるという意図があった)
確かに、映画は人の内面を描くものではない、かもしれない。しかし、少なくともこの作品に関しては、怪異の説明だけでは話は滅茶苦茶なだけであり、そうである以上、怪異=世界の理不尽さに対する登場人物たちの内面を描き出さなければ、滅茶苦茶を観客に飲み込ませることができないはずなのだ。学園ホラーに徹するなら徹するで、主人公とヒロイン以外の登場人物にたいして、もっと注視すべきだったのではないか。(その意味でアニメ版のアプローチは正しいといえる)勅使河原や望月がただのモブになっている点にはがっかりさせられるし、教師の心情の描き方が酷く杜撰であることにも疑問を抱かざるをえない。特に必死に生徒を助けようとしていた美神先生が災厄を呼び込んだ張本人だったという矛盾と悲哀についてはもう少ししっかり描く必要があったように、自分には見えた。
細部については好感をもてるシーンはたくさんあるのだ。例えば、人形屋敷の雰囲気はよく出来ていたし、その中での長回しも技巧が凝らされていて良い。キャストについても『静かなるドン 真章』シリーズが割と好きな自分としては、袴田吉彦を千曳にあてがったのは、原作にもアニメにも表現されなかった無力感や弱さを少し滲ませるところがあって良かったと思う。しかしそれらも、全体の構造のいびつさが打ち消してしまっている。
特にこの原作に関しては、寺内康太郎が『口裂け女2』で見せた繊細さを核にして欲しかったし、アメリカンホラーの真似をするにしても塚本晋也が『ヒルコ 妖怪ハンター』で見せた憧憬と哀愁が観たかったというのが、自分の正直な感想です。
これ見なきゃ見なきゃと思いつつ、
予告観てしまうとどうにも優先順位を下げてしまって^^;
オトシモノ、トワイライトシンドローム デッドクルーズで
2度ガッカリさせれらた事も微妙にしこりになってる気がします
「叔母」と「母親」、たしかにラストでうっすら感じました
アニメ版の最終回でも海外サイトの英語コメ探すと、結構そう思った人も多かったのが印象的で.
まぁアニメ版はアニメ版でちょっと狙いのわからない
ややこしい付け足し映像があるんでぼやけてしまうんですが、
アニメ版にせよマンガ版にせよ、ゴールは「哀しみ」に向けて作られているのは伝わってきました
そして実写の予告からそういう匂いがちょっとしなかったような、、、っていう.
むしろ『桐島』の感触が『アナザー』に求めていた何かに近かった気がして、
もはやホラーじゃなくてもいい、くらいのw
でも真っ当なサービス精神を持っていれば
実写版制作にあたってホラーとしての魅力を第1にしてしまうのもわかるんですけどね
いや、まぁひぐらしの実写版みたいな駄目駄目な作品じゃなかったよ!って言っても擁護になってないか(^_^.)
この人、インディーズで恋愛映画ばっか撮っていたせいか、主人公とヒロインのシーンはそんな悪くないのですが、如何せん脚本が・・・。後、アメリカン・ホラーやればいいっしょ、という開き直りが悪い意味で出ている映画でした。
ジャンルの再現、って実をいえば凄く覚悟がいることで、アレクサンドル・アジャやジェームズ・ワンでさえオリジナリティがあるかないかで批判される可能性があって。だったら少なくとも、黒沢清の『地獄の警備員』ぐらいやってもらわないと困るというか。イギリスの『アウェイクニング』というホラー映画を観た人はネットでもみんなそっちのが良かったと言っていて、まぁそういうことだよね、と思いました。悪いけど、『七つまでは神のうち』のが全然出来がいいですよ。後観ている映画が少ないものの、田中幸子に原作付きの脚本はやらせない方がいいのでは、とも。
ちなみに『桐島』、実をいうと観ていたりするのですが、評価にすごーく困っている映画で、「自分が何者でもない」という感覚を監督が内面化していたら、あのような描き方にするかな、というひっかかりが消せなくて。『スクリーム』シリーズとの微妙な温度差を感じてしまい、実をいうとホラー映画以上に若者を類型的に描いてしまっているんじゃないか、という疑念がぬぐえないんですよね。