怪物の系譜 - 『脳男』 |
怪物の系譜 - 『脳男』
素晴らしい。アクションの緩急こそ再構成の余地が見えるが、それにしたってこの画面の重量感と新しいダークヒーロー=モンスターの誕生は祝うべきだ。カメラのような眼を持った、善悪の彼岸に位置する脳男は、ほとんど洋画のモンスター共から突然変異的に生まれた貴種といっても差し支えないのではないか。少なくとも、フレームの使い方と人の価値観の屈折と是非を問う主題とが、絡み合った映画であることは確かだと思う。
ロブゾンビ版『ハロウィン』の再認識
まず脳男の造形の下敷きには、『ハロウィン』のマイケル・マイヤーズがみてとれる、という点から語らねばならないだろう。そのような話から始めると「首をかしげる」という部分だけをことさら取り沙汰しているように聞こえるかもしれないが、ここでいうマイケル・マイヤーズとは、画面に映り人々にあれこれと規定をされていたはずが、いつの間にかその枠組みを破壊し、レッテルを張り付けていた人間の、その先入観をたたき壊していくロブ・ゾンビ版のそれを指している。
ジョン・カーペンターは、視点ショットの多用と画面の中で明滅する幽霊のような描き方によって、街のどこにでも潜む欲望の発露としてブギーマンを造形し、それが後のホラーへと大きな影響を残したことは記憶に新しい。ロブ・ゾンビはそこから一歩踏み込んで、ガラスやドアといった「枠組み」をたたき壊し、侵入してくる存在として描くことによって、よりアメリカンホラーの暴力性に沿ったキャラクターとしてリブートしたのである。
ロブ・ゾンビ版『ハロウィン』は冒頭にマイケル・マイヤーズの過去の描写が長く描かれており、それ故に過去の家庭環境に狂気を求めた映画、といわれている。しかし、自分は決してそうではないと解釈している。
少年時代のマイケルは、画面の中で大人たちにあれこれとレッテルを張られていく存在である訳だが、その後大人になった後は、その周囲の視線や規定をことごとくつぶしていく存在に変貌する、そのことがドアやガラスといった画面の中にある「枠組み」を叩き壊すという直喩に近い表現によって描かれているのである。
それがもっとも端的に表現されているのが、クライマックス前の車の中でのマイケルの妹と精神科医が会話するシーンだろう。精神科医とマイケルの妹は車の中でマイケルを「あれは亡霊だ」とカーペンター版『ハロウィン』のような存在として規定しようとする。その刹那、マイケルは車のフロントガラスを手で叩き割って二人をその枠組みの外へと追い立てるのだ。そしてマイケルは、自らを悪魔と規定してきた精神科医の眼をその手によってつぶすことになる。妹はその後、銃で撃つことによってマイケル・マイヤーズを規定するが、(この映画において、マイケルに銃を向けることが出来るのは、マイケルの写真に関わりがある妹と精神科医だけである)それが理解の範疇から越えた存在だからこそ、安息を得たはずの彼女は叫び続けるのだ。そして、『サイコ』のノーマン・ベイツ同様、邪悪な笑みを浮かべたマイケル・マイヤーズの、内面が読みとることが出来ないクローズアップで映画は閉じられる。あの映画は、過去が語られるから狂気が説明された映画ではなく、過去が語られたとしても内面=狂気はわからない、という映画なのではないか。そして、怪物を「理解」してしまうことを真に描いているのが、『ハロウィン2』という、あの怪作であるというのが、私の観方である。
脳男 ー カメラの眼を持つ、フレームを叩き割る男
ここまで書けば脳男とマイケルに多くの共通点に気づいてもらえたかと思う。脳男も様々な画面に映っている。そして、登場人物にあれこれと評価されつつも、「画面=評価を叩き壊す」「眼を潰す」などに象徴されるようにその価値観を覆す存在であり、その過去が語られながらも、そこから逸脱した超越者としてラスト、我々と精神科医の前にクローズアップで映される存在なのだ。
特に、クライマックスの病院での爆弾犯と脳男のやりとりにその傾向が顕著にみえる。爆弾犯は脳男を自分と同じ「選ばれたもの」、人を殺すことに逡巡をしないキラーマシンだと既定し、それを殺そうと執着する。爆弾犯はその時、脳男の姿は監視カメラや車のガラス越しといった画面の中から観ている訳だが、、そこで殺すか殺さないかの攻防を繰り広げられた後、脳男は車のフロントガラスという枠組みを壊し、ロブ・ゾンビ版のマイケルがマルコム・マクダウェル演じる精神科医を引きずりだした時と同じように車内から彼女を引きずりだす。そして、彼女はそこで脳男に殺されること、つまりは脳男が自分が思い描いた何のためらいもなく人を殺せる人間であることを期待するが、精神科医の言葉に思うところがあったのか、脳男は、彼女が既定したようには行動しないのである。
脳男の過去が中盤、人の回想によって語られることによって、ロブ・ゾンビ版のマイケルよりも『ダークナイト』のジョーカーを彷彿とさせるような演出が為されており、あたかもこの映画がロブ・ゾンビ版の副読本のようになっている訳なのだが、それに加えてさらにもう一ひねり加えてある。それは、彼の眼が、カメラのように物事を捉える、という設定だ。病院の区画をすべて「そのまま」記憶するシーンや回想でも言及されているが、彼は見たものをすべてを、ありのまま記憶できる存在であり、それはあたかも「カメラ」を彷彿とさせる。そして、他の登場人物が画面や物事を価値観や思想といったものに引きずられながら観るのにたいし、彼はそのすべてを正確に捉え迷わず判断していく。その点がもっとも顕著にでているのが、精神科医と脳男、そして精神科医が更生させようとした幼児殺人犯の三人の関係性においてなのではないだろうか。
「誤読」の可能性
ヒロインである精神科医は最初、犯人と被害者の家族を会わせることによって、双方の心の傷をいやす、という治療法を、自身の弟を虐待し殺害した青年(染谷)と自身の母親に対して行うことを夢想する。そのことは一方で、他の精神科医の教授からはショック療法と非難される訳なのだが、この治療法は、スクリーンに映される形、教授や精神科医が議論する現実とは別のものとして、観客に提示される。そして、最初事件の容疑者として警察に拘束された脳男の精神鑑定をすることになる。そこで、悲惨な過去を持つ脳男に対して、深く感情移入していくようになる。
上司である教授から「患者に感情移入しすぎる」という欠点を指摘されていたヒロインは、事実自身の母親の治療の青写真に目がくらみ、染谷が更生されていない存在であること、そして人の中には更生できない悪やどうしようもないことが存在すること(これは最初、ヒロインにとって画面の向こう側にある)を見抜けない。しかし、そういった「誤読」をする人間だからこそ、脳波の数値やグラフといった「画面」から感情のない機械のような男として脳男を捉えつつも、面と向かい、過去を探り、そうではない部分があるのではないか、と脳男に深入りしていくことになる。
脳男がヒーローとして書き換えられたマイケルだとすれば、精神科医は善意を持ったマルコム・マクダウェルだといえるかもしれない。そこで脳男を自身が救うべき患者として捉えた精神科医は、スクリーンの向こう側から現れたどうしようもない存在である爆弾犯に捕まりどうしようもない現実に引き込まれた後も、脳男に「あなたが殺人マシーンなのではない」と語りかけることになる。前述のクライマックスであるシーンでは、爆弾魔同様彼女は車のガラスというスクリーン越しに脳男を観ているが、脳男に対して爆弾魔とは別の「誤読」をしているといえるのだ。
双方の殺人マシーンかそうでないか、という問いは刑事の介入によって中断される。しかしながら、精神科医の意志に反して脳男は、彼女が「誤読」した幼児虐待魔を、彼女が見落としていた腕についた子供の噛み痕から更生していないことを見抜き殺すことになる。そして、それによってはじめて、精神科医ははじめて、自身の母親が負った絶望を真に理解することになり、そして、脳男は不可解な既定できないヒーローという怪物として完成することになるのである。
この「カメラのような眼を持つ男」と「誤読する女」の関係性は、自分の価値観によって物事をねじ曲げて解釈してしまう人間の姿を描いているといえるだろう。しかしながら、彼女のその「誤読」、脳男を患者として感情移入したことを、脳男が肯定することに意味があるのではないだろうか。
ラスト、精神科医は携帯電話で脳男と会話しつつ、二人は橋という遠く離れた場所で出会い、そして、切り返し(ショット/リバースショット)を伴った会話をするシーンで閉じられる。そこで脳男は、精神科医が自分に涙を流してくれたから、自分があの幼児虐待犯を殺したと語る。そのやり取りはまさに両者が映像(映画)と閲覧者(観客)の隠喩であるかのようだ。ラストのクローズアップで脳男は自身の存在、ひいてはこの映画で描かれた倫理観を、観客に「誤読」するよう投げかけているのである。