原罪と、静かの海 - 『真夏の方程式』 |
原罪と、静かの海 - 『真夏の方程式』
※黒沢清『リアル 完全なる首長竜の日』についてのネタバレを含みます。
はじめに
現在フジテレビのドラマ部門のドンとなった西谷弘だが、彼こそがそんな映画からもっとも離れているはずの場所から映画を求道し、そして賞とは無縁ながら、明らかに一線級の映画を、多くの人に目に見える場所(シネコン)に届けてきた日本で極めて稀有な映画作家であることは確かだろう。自分はその監督の新作を観ながら劇場でまさかと叫びそうになったのだが、それは奇しくもシネフィルという存在から支持されつづけ、テレビドラマを経てついにシネコンという表舞台に帰ってきた黒沢清の『リアル 完全なる首長竜の日』と、まるで対をなすかのように、同様のテーマを描いた作品だったのである。
一、『リアル』との共鳴
『リアル』にはこんなシーンがある。リゾート開発の推進側だった男を父親に持つ主人公が、恋人の父親と、リゾートの廃墟を観ながら会話していく。そこで恋人の父親は、主人公をその父親の行いから糾弾する。それに対して主人公は、父親も好んでリゾート開発を推進していた訳ではなかった、彼は過労死してしまった、と弁明を繰り返すことになるが、しかし、その突きつけられた罪を避けきることは出来ないでいる、といったものだ。
彼はその後、物語の中で自分の責任といいがたい罪、親の世代や他者の引き起こしたものを内包した原罪に向き合い苦悩していくことになる訳だが、この場面で描かれた地方の廃墟こそが、3・11の福島の原発と重なり合う、ということはよく指摘されている。自分の直接引き起こした訳ではない、上の世代から引き継いでしまった罪=日本の現状に対して、どう向き合い、どう他者と共に歩んでいくか。SF・ホラーと様々なジャンルを映画が渡り歩き、しまいには怪獣映画を召還してしまう『リアル』が描きたかったことは、地方を犠牲にすることによって都会の便利さを享受し、当事者意識を欠いたまま現在に至ってしまった我々が、福島を含んだ日本の現状に気づき歩めることができるか?ということだったのではないだろうか。(だからこそ、荒唐無稽に見える首長竜の登場は、いわば必然なのである。)
『真夏の方程式』もまた、そういった親の世代が作り上げた罪、子供にとって自らが生まれる前提であり、享受せざるをえない罪にどう向き合うか、というテーマを、『リアル』とは別のアプローチで描いた映画である。そして、『リアル』においては佐藤健に集約された子の世代は、それぞれ成実と恭平という二人の子に託されている。
二、視点ショット -原罪ー
冒頭、視点ショットによる長回しでの、過去の殺人の場面から映画ははじまる。画面はその視点の主を明かさないまま包丁を印象づけ、横断歩道の上で女性を刺殺する場面を長回しで描き出す。そこで、殺された女性がその鞄に忍び込ませた写真、今作のテーマの一つを象徴する写真をカットを割ることで観客に印象づけ、赤い傘・耳障りな音を響かせながら通過する電車、といった事件を想起させるものを画面の中で提示されることになる。
そして、その後、親子の会話シーンへと繋がる。そこで母親は会話の中で二人だけの秘密だ、と娘に語りかけるのだが、その娘はその言葉を聞きつつも、その視線を台所にある包丁に移してしまう。このことが、先の場面の視点の主を予告しているといえる訳だが、この子どもである成実は、親の世代の恋愛沙汰により出来てしまった自分の出生の秘密と、それ故に犯してしまった罪(それは、原罪に近いものであろう)に最初から自らの視点で向き合っている人物として造形されているといえるだろう。
次のシーンに移ると、その成実が成長し、海に潜る場面がスクリーンに映し出される。そこで家族と視線のやりとりをする様が描かれ、そして、舞台が海が美しく、開発の対象にされている地方であることが明かされる。成実はその開発の反対派であり、一方で湯川はそういった開発のアドバイザーとして、彼女の罪を想起する電車でこの地にやってくることになるのである。
海を守りたい、と開発に反対する姿は、そのまま『リアル』の廃墟を見つめる父親の姿を想起させるが、『リアル』では夢という描写によって唐突に出てくることが正当化されたこの罪の意識が、父親という存在によって物語上で、親の世代の罪と明確にリンクした形で示されている。海は彼女が感じている原罪、それに対する贖罪の場であると共に、昔から今までなお継続させられてきた都市/地方のいびつな依存関係の現状を映し出す場なのである。そして、そこで彼女は、どちら側にも属さない湯川という存在に出会うことになる。
開発側と成実が議論する場面がカット割で表現しつつ、遅刻してきた湯川が初めて語るショットは、やりとりの外側に湯川がいることを、画面を侵犯する湯川の顔によって表現している訳だが、彼はこの争論に結論をつけない。ただ、それが過去から連なる日本の社会の問題点の一つであることを指摘し、それを考えるためには「すべてを知らなければならない」と口にするだけなのだ。そして、ほとんど相手の主張を読みとり、歩み寄って調整する、という本来の議論にはなっていないその場のやりとりを批判することになる。
この場面はさながらそういった調整や議論というものがなくなってしまった現在の日本の政治、ただ与党が自らの政策を強行的に可決するか、野党がその政策の是非を審議もせず、対案も出さずに拒否を突きつけるかしかない、本来の政治が失われた日本に対する批判とも受け取れるが、成実にたいしてその轍を踏まさないようにと、湯川は開発側のことをもっと勉強する必要がある、と促すのである。すべてを知る必要がある、と。
この後、湯川は彼女が抱えている原罪を暴き出し、そしてそれを含めて彼女に生きる選択をさせようとするのだが、この段階になりもう一人別の世代の子がクローズアップさせられることになる。それが、恭平という少年だ。
湯川と電車の中で出会った少年はこの家族の甥っ子であり、湯川と同じ旅館に泊まっている。その後、家族の秘密に関わる刑事がこの宿を訪れ、殺されることになるのだが、その秘密を探ろうと少年は湯川に呼びかける。
この場面はまず、前夜、少年が叔父と共に花火を打ち上げ、その花火を観る視点ショットからはじまる。そして、そこからディゾルブで少年の意識が途絶えたようにカットを切り替えられ、その後警察が宿を調べる場面が、少年の視点ショットによって描かれる。この視点ショットが、冒頭のそれと関連するものであるのは明白だが(それが明らかになるのは後半だが)、視点ショットの場面に賦与された「無意識の罪」にここでは少年は気づかない。そして、まだ事態の全容をつかんでいない湯川は少年と共に、科学の実験に赴くことになる。
この実験の場面、印象的なペットボトルロケットの一連のシークエンスは、議会をすっぽかした湯川の台詞に合わせて、クロスカッティングで描かれる。開発側と反対派の水掛け論に火が注がれていくシーン(もちろんそこには成実がいる。彼女は議論のやりとりを立ち尽くして聞いているばかりだ)と、女刑事がホステス殺しの罪で捕まり出所した男の足取りを探していくシーン、湯川と少年がペットボトルロケットに携帯電話を取り付け、海の中を見ようと悪戦苦闘するシーンとが交互に映されていくことになる。それによって、日本の現状の当事者として渦中に入り込んでいる成実(そして、罪をかぶった男の辿った経路を、貧困やセクハラといった目障りなものに晒されながら探っていく女刑事)と、そういったものから切り離されて「海」を見ようとしている少年とが対比させられているのである。そして、ここでの少年にとっての「海」が、携帯のカメラから届けられる、外界から遮断されなければ見れないものでしかないことは示唆的だろう。
この「海」は、成実が観たそれとは明らかに違う。成実はそこに美しさだけではなく、自らの父親や日本の開発の問題といった、様々な闇を包括した世界を見いだしているのに対して(そのことが、傘によって象徴的に描かれるシーンが中盤に挿入されている)少年は、自らの罪を知らないまま、そういったことを目もくれずに、ただ美しさに喜んでいるといえる。ポスターの「憎むべき真実」と「愛すべき嘘」という標語を借りれば、メディアを介さない成美が観ている海が前者であり、映像のフレームの中に収められたそれは後者なのだ。そして、写真といったメディアが、そういった守りたい幻想を象徴しているといえる。そして、それは主に中盤以降、湯川が事態に気づいたことによって暴き出していく、その家族関係で使われていくことになる。(ただし後述するが、この映画のフレームはもう一つ別の位相を持つものが存在する。そしてそれは、むしろ「憎むべき真実」を表象している。)
三、二種類のフレーム内フレーム
『任侠ヘルパー』では、一方で昔の日本のやくざ映画には存在したヒーローである「任侠」、それに成りきれない男として、アイドルとしてしか評価されないであろう草薙剛の、その英雄たらんとする行為を監視カメラやYOUTUBEを介して映すことによって、西谷弘は自身の映画についての自己言及を果たしていた。今作において、その西谷の、距離と時間、そういったものが錯綜しつつ小道具によって切り返していく手つきはさらに繊細なものになっているが、その契機となるのが同じくフレームを収まった、他愛のない写真、であることは示唆に富んでいる。特にそれは成実とその罪を被った血の繋がった「父親」との関係性において顕著だ。HPの画像の海、料理店で写された発端の契機となってしまった写真、そして湯川が撮った成長した成実の写真・・・。それらは家族を繋げるすべてであり、彼らが悲惨な現実に対するために、すがりついた幻想なのだ。そして、過去やそこにまつわる愛情を写真に仮託することによって、この映画は、そのような家族の絆が現実に比べればちっぽけなものでしかないことを示しつつも、そこに人間の生きるための必要性を示しているといえるだろう。
しかしながら、そういった幻想だけではない。憎むべき現実は生きている我々に突きつけられるものだ。そしてそれは、もう一つのフレーム、窓ガラスなど、現実の風景がフレームに収められた形で現出することになる。たとえば、回想の中で冒頭に何度も強調された凶器である包丁が、父親に受け取られる場面において、父親が、喫茶店の中にいる成実を一目、喫茶店の黒い色に染められたガラス越しに見、そこから自らが罪を被るために、愛する人であった母親と別れるという風に描かれる。(また、そこでも踏切、事件を匂わせる場所が設定される)この映画において、フレーム越しに見える風景、特に暗幕がかかったように闇を纏ったそれは、写真とは別に現実を人に突きつける、憎むべき現実を表象しているといえるのだ。
湯川が、殺人現場である旅館の一室で、窓ガラスを見つめる場面を思い出してほしい。後半の写真の契機に繰り広げられる回想が、写真を映すショットの後、現実の画面からカットを割られて示されるのに対して、ここでの回想は、1ショットの中で、闇で黒く塗りつぶされた窓に映る湯川の顔が、うらめしい刑事の顔に変わり、その後花火がおぼろげにあがる。この事件の経緯を説明するパートで、意識的に「黒いフレーム」と「憎むべき現実」との連関性が示されているといえよう。そして、その演出に深く関わるのがもう一人の父親、成実と血の繋がっていない父親、つまり犯人である。
彼は、少年に意図を知らせずに犯罪に加担させ、あるトリックから刑事を殺害させるに至る。そして、その後、湯川と警察に犯罪がバレることを予測した彼は、自首することによって家族の秘密を守ろうと考える。その自首したことが明かされる場面はこうなっている。少年と湯川が旅館を追い出され、ホテルへと向かって歩いている。そこに、車が通り過ぎる。少年の「視点ショット」、つまるところ罪を突きつけるものが映されるショットによって、成実の父親が車に運ばれていくところを少年が目撃してしまったこと、黒い幕に覆われた犯人の顔を目撃したことが示される。それが、故意ではないにせよ、少年が殺人に加担したものと匂わせるものになっており、だからこそ、それを観た少年の顔は不安そうな、怯えたものになっていることがクローズアップで示され、このシークエンスは閉じられている。
この犯人を見る少年の視点ショットは何度も反復して描かれていくことになり、それは反復していくにつれて、少年は自らが意図せず賦与された罪を意識下に置かれることになる。回想の、犯人が刑事に向かって拝むのを少年が思い出すシーンを経て、彼は自らの姿を黒いガラスに落とし込み、それを見てしまう場面に至ることによって、その演出は完成されているのである。
また、成実との関係においても、犯人は実の父親とは別に、黒いガラスによって接続されることになる。ただし、それは少年と犯人のそれとは様相が少し異なっている。
すべての仮説を立てた湯川は、犯人と面会し、真相を述べていく。そしてその場面を、マジックミラー越しに、成実は見せられることになる。それは多分、すべてを知って判断すべきだ、という湯川の意図によって。
そこで展開される回想の一つに、海に潜る成実を犯人が視点ショットで観る場面があり、そこにこの映画の演出の一つの収束を見ることができるだろう。冒頭の、海から出てきて、家族が乗った車を成実が振り返り、会釈する場面が回想される訳だが、一回目のシーンでは、運転している母親と成実とのショット/リバースショット(切り返し)によってこのシーンは描かれる。母親と成実がショット/リバースショットで描かれることが多いが、それは二人が秘密を共有しているという表現だろう。そこから空間的にある程度距離を持った存在として犯人は描写され続けてきた訳だが、回想においては、運転席ではない、別の席からの、その父親の視点ショットが挿入される。一回目のシーンで、車のフロントガラス越しにしか見えなかった犯人の視点ショット、それは今までの視点ショット、暗幕のフレームとの決算であるといえる訳だが、一方で成実が暗幕によって遮られていないことが、成実が自分の実の娘ではないという憎むべき現実を見据えつつも、そこに愛情を見出そうとする犯人の姿勢と重なりあっているといえるのではないだろうか。
ここで、成実と犯人の、幻想ではない家族の絆が、ガラス越しのメロドラマによって、叙情的に演出されていることは、観た人はただちに了解できるだろう。(そして、このシーンでの湯川の位置は前作との比較において重要だろう。『容疑者xの献身』では傍観者でしかなかった湯川が、少年の人生を助けるために積極的に事件に介入していることを示しているのだ。)
ここで事件は一段落がつく訳だが、一方で面会の最後の湯川の台詞通り、この時点では、家族の問題が解決したにせよ、少年に賦与されてしまった罪の問題がまだ残されているのである。
四、少年の位置
先の論では、成実が二人の父親と、それぞれ写真・黒いフレームという二つのフレーム内フレームで繋がっていることを考察してきた。湯川がラスト近くで成実とダイビングで会話する場面で、湯川が述べる通り、その関係性は成実の「原罪」を強く意識させるものだったが、しかし一方でその家族のつながりが成実を護っていたのも確かであった。では、もう一人罪を賦与されてしまった少年はどうだろうか?少年の母親は画面に現れず、その父親も自身の店のオープンに目がいくばかりで、ほとんど少年の内面の変化を読みとることがない。彼は自分の罪に気づきながらも、それをどうすればいいのか教えるような「父」がいないばかりではなく、成実と違ってそれを支えようとする親子関係が存在しないのだ。ここに日本の家族観の、絶望的な変化が反映されているといえるかもしれない。
しかし、そういった状況だからこそ、子供にアレルギーのあるはずの、父親として不全者たる湯川が手を差し伸べようとする姿がラストで描かれる。彼は最後、楽しかった記憶としての「写真」をCDに積めて、最後呆然とする少年に駅の待合所で渡すことになる。そして、一緒に考える、と少年に寄り添う。それが、親が機能不全に陥った中で、かつ親の世代の日本の罪を背負ってしまった我々に対する、結論の出ない答えを共に探していくという答えなのではないだろうか。その姿勢は、やはり『リアル』のラストとも重なり合う。過程は別々にせよ他者と共に同じ方向を歩んでいく、という結論を、全く異なる経歴を持つ二人の作家が導き出したことに、僕は酷く感動したのだ。
そして、エンドロールによって少年のこれからが予感されている。帰り道の電車で、彼は窓というフレーム越しに、かつて湯川と共に実験をした場所を目にする。そして、ペットボトルを飛ばしたことを回想していく。先の実験の場面が、どうしようもない現実とクロスカッティングで描かれていたことは先に論じた。そして、この段で少年の回想と電車で湯川を残した実験の数値を見つめる少年とが交互にカットされることによって、彼が「どうしようもない現実」の側へと追い出されてしまったこと、彼が無邪気に実験にいそしむ地点にはもう戻れないことが表現されている。そして、当然その成長は痛みを伴ったものであるが、彼はその地点にむかってはじめて、自身に賦与された呪いのような原罪を含めた、現実としての海をフレーム越しに見つめることができたのだ。楽しかった過去の記憶と共に・・・。そして、その風景たる海は、あの暗幕から解放されて輝きを放っているのである。
終わりに ラストの視線
このように、『真夏の方程式』は、西谷弘が前作から効果的に演出に取り込んだフレーム内フレームを、主に写真と暗い幕に覆われたものと二つに分けて演出することによって、愛すべき嘘(幻想)と憎むべき現実とを描き出した映画であったといえる。そして、二人の別々の世代の子が、間接的に賦与された罪と向き合う様を描くことによって、現在の日本の現状に若い世代の人間がどう向き合うか、その示唆を与えるような映画になっているといえよう。そしてそのテーマは、エンドロールによって一様の決着がついているといえるのである。
そして、この結末が「エンドロール」、つまるところ補足の中で描かれることこそが、この映画の主題を浮かび上がらせているのだ。ラストシーンは誰の何に対するまなざしで終わったかを思い出してほしい。少年と共にいっしょに考えると口にした湯川の、その視線が海に浮かぶ調査船を見つめていること、それこそが我々に考えろと促しているのではないか。3・11から未だに続いている関係性、近代日本が常に地方を犠牲にすることによって発展してきた、そのいびつな依存性という日本の原罪の、その贖罪の方法を、と。
なんて今という時をしっかり刻んだ映画なんだと感心し、
これがヒットしている現状に歓びつつも
(『脳男』も『リアル』も『真夏』も全国東宝系なんですね)
一方でこの映画が正当に評価される媒体がどれほどあるのかと
考えてもしまったのですが、
こうしてunuboredaさんの素晴らしく、且つ的確なレビューを読んで
感服そしてホッと胸をなでおろします.
なんとかして西谷監督の目に触れるといいなぁ.
単純化と映るかも知れませんが主観ショットと
意図が構図として大胆に表出した画面は、
観客を当事者として巻き込む力がありますよね
これがメジャーで映画を撮るということなんだという、
そういうことを評論家はもうちょっと鑑みて欲しいです.
みんな『リアル』にはすげえ優しいのに本作は不当に無視されてる気が・・・
どっちも大好きなのでなんか複雑です.
実をいうと、『リアル』を観たときに何も書けなかったのが悔しかったので、それで力入れて書いたような気がします。実際、単純化又は構図化しすぎている部分もあると思うのですが。
雑誌媒体、最近忙しくて全然確認していないのですが、何か去年あたりからロキノン系の『CUT』が一番フットワークが軽くて面白い特集を組んでいるように見えてきて、え、それは逆にどうなんだ?って思ったことがあったのが記憶に新しいです。
あ、でも確か僕が大学生だった頃、映画の授業で配られた必見リストに、数百本ある内のひとつにひっそりと『県庁の星』が載っていたりしたはずなので、観ている人はちゃんと観ているものなのではないか、と。実際ネットでは西谷弘はちゃんと作家として認識されつつある、その土壌はもう出来ている気がします。
都市と地方の搾取関係ってのは日本社会の永遠の命題なので、そういうことをそれとなくも真っ向から扱った映画が全国公開されるという状況があるなら、まだ先は明るいんじゃないかなーと。
>ラストシーンは誰の何に対するまなざしで終わったかを思い出してほしい。
これ、後のムービーウォッチメンで宇多さんも指摘されてましたね。同時にそういうテーマの繋がりは分かり易くはないとも言ってたけど、それでも伝わる人にはきちんと伝わってんだなあと思いました。
いつもブログの方楽しく読ませてもらってます。(>_<)なんというか、yahoo映画で記事を掲載していて一番良かったなぁ、って思うのは、影響する/されるって人達と出会えたことで、その人達が手掛けた同人誌が出るということなので楽しみにしております。(ちなみに題材とスケジュールがあれば、投稿する側に回りたいとも思っていたり)
>都市と地方の搾取関係ってのは日本社会の永遠の命題なので
原発以後の言説に常々微妙な違和感を感じていた部分があって、「3・11以後」まるで世界が変わってしまったという言い回しをする人が多いけど、実は日本って全く変わっていないんじゃないか、と思ってしまう自分がいて。都市/地方やら正社員/派遣やら諸々の問題がそこで顕現化して、そこを正さないといけないはずなのに、社会は元に収束しつつある。そういったものを考える意味では「原発」といった文字を外したことは正しかったような気がします。
ちなみにラストについてですが、パンフレットに「現代を見据えている」と書いてあったとどっかで観た記憶がありました。でも、それが伝わってないツイートもあったりしたので少し観て凹んだり。