箱庭から飛び出して - 『天才スピヴェット』 |
箱庭から飛び出して ― 『天才スピヴェット』
ほとんど、永久機関がまるでフィルムのような様相をしていたことが象徴するように、死んでしまった=終わってしまった「西部劇」や「列車」といったものを抱えながら、3Dという最新技術と映画の接点を見出そうというジュネの試みのようにさえ思えた映画だった。ただし、早熟の少年の脳内のイマジネーションを3Dで表現する手つきには、どことなくストップモーションが3DCGになってしまったのを目の当たりにするような侘しさがあったのも確かだったし、語りや回想が想像の余地を消す箱庭の広がりのなさを遠い目で観ていた自分がいたことを告白せざるをえない。(特に、ラストの父親についての回想は蛇足だろう)
『王ドロボウJING』が自分の幼年期の原風景であり、それに多大な影響を与えたティム・バートンとジャン・ピエール・ジュネもまた自分のパーソナルな部分の一部なのだが、ジュネの箱庭的な自己の世界に耽溺していく様が時に窮屈に感じるようになっていることに終盤になって気づいてしまった次第。(注)『フランケンウィニー』ほど登場人物の死に切実さを感じなかったし、教師と子供の関係なども少し風刺に寄りすぎていると思ってしまった。
ただ、そうだとはいえ、少年が独りで「世界」に身を投じ、そこへ触れていく過程は素晴らしい。切り取られるアメリカの風景の壮大さは少年の世界の外側の広がりを匂わせるものになっているし、そこで出会う人々とのやり取りも運動とおかしさで彩られている。
そして、これだけは指摘しておきたいが、その過去へ戻るようなロードムーヴィーを終えて、少年がスピーチのために檀上に上がった時の、あのサイレント映画のような静寂と緊張が張り詰める一幕こそが、個人が社会に対峙する様を描き出していたのではないか。(被写体深度の深い大衆のショットが印象的だ)ひいてはそれはジュネが映画に真に向き合った瞬間だったように思えて仕方ない。
世界の猥雑さと軽薄さを垣間見た少年が、家族という箱庭へと回帰して幕を閉じる。それが家族へと回帰できず、社会の立場さえ奪われてしまったら?そういったものをジュネに求めている自分を、劇場を出た後で『ショート・ターム』のパンフレットを購入しながら再確認していたという。
(注)まぁこれは、『アメリ』の脚本家の影響も大きいとは思うが。後、バートンと似た作家が最近観た中で一番美しくヘレナ・ボナム=カーターを撮り、「夫に愛されていない」という台詞を吐かせるのもなんとはなしに物悲しかった。