光あれ ― 田中佑和『青春群青色の夏』 |
・その中でも特に、ウェス・クレイブン『パニックフライト』、ジョン・ハフ『ヘルハウス』、ミケーネ・ソアヴィ『デモンズ95』、ジェニファー・ケント『ババドック 暗闇の魔物』、ピーター・ワトキンズ『懲罰大陸U★S★A』の五本は心の底から傑作だと言える作品だった。『ババドック 暗闇の魔物』は海外版で観たのでピーター・ワトキンズも輸入するか、と思いつつ、いや言語があれだけ出てくるとさすがに英語字幕ではわからないところが出てくるのでは、と迷い中。(ただ、輸入しても観る時間はあまりなさそう・・・)
・ここに関しては、心が動かされて、かつ自分が書くことで宣伝の一助になるような小規模の映画に絞って批評を書いていこうと思います。
光あれ ― 田中佑和『青春群青色の夏』
デジタル映画史と呼べる日本映画史
・・・もし今の日本映画に他の国にはない独自性があるとすれば、デジタルカメラとその万能とは言い難い平面的な画面を先進的に扱い、それ故に現実と虚構とが奇妙に入り交じった映画が製作され続けていった点にそれはあるように自分には思える。
ミツヨ・ワダ・マルシアーノが『デジタル時代の日本映画 -新しい映画のために-』(名古屋大学出版会、2010年)で詳説していたように、河瀨直美の虚実が入り交じった自叙伝から、是枝裕和のドキュメンタリーの経験に裏打ちされた写実的な劇映画へと繋がっていく流れは、今日のカンヌにおいて「日本映画」を代表する主流となっているし、同時期に劇映画とアニメーションを越境していた二人の作家、小中千昭と庵野秀明の果敢な実験作が、現在の日本映画における大きな流れを作り出している。
管理と監視が行き届いた都市における人間性の危機を、デジタルビデオやアニメなどの身体を矮小化せざるをえない不完全なメディアによって表象する。それこそが近年の日本映画が唯一誇れる達成だったといえるだろう。だからこそ、北野武のような例外を除いて、近年海外で認知されている映画監督は、ドキュメンタリー・ホラー・アニメーションに大別することができる。
しかし一方で、あくまでデジタルビデオはその不完全なメディアとして「欠落」を持ち、フィルムにはない劣位を画面を露わにしてしまう代物であったことも確かだった。安価(だと思われる)なデジタルの画面は、どことなく被写体が平坦な印象を与える上、充分な光源がなければ照明の当たっていない被写体は影にまみれてしまうのである。特に後者が致命的な欠陥であり、ビデオホラーで幽霊を映す分には適しているものの、普通の劇映画では黒い照明が出ずに汚らしい場面になってしまう。最近の映画だと、中村義洋『予告犯』は、ある理由からデジタル映像が用いられているが、それ故に夜の場面は汚い、貧相なものになってしまっていたことは記憶に新しい。
だからこそ、時代の先進と技術の結集をありったけの予算によって表象するハリウッド映画に対し、あくまで欠落を以てして先鋭とする日本映画のデジタルの扱いは、少なくとも主流にはならず、下手をすれば時代の徒花として処理させかねないものだったし、現にそうなりつつあると自分は考えていた。
しかし、である。デジタルの画面を探求し続けたビデオホラーの担い手達の、その技術の結晶である『青春群青色の夏』によって、そのような素人の浅はかな考えは、杞憂であることが証明されたのである。
技術革新としてのデジタル映像と照明
映画に欠陥がないわけではない。一夏のモラトリアムを描くバケーション映画で上演時間が二時間を超えるのは明らかに長すぎであり、白石晃士がツイッターで指摘しているように脚本のブラッシュアップが足りてないのは明白だ。(監督の自画像である主人公に焦点化して、八月三〇日のエピソードはすべて省略しても良かったように思える。)脚本に不快な悪ふざけはないものの、自主映画のような甘さが垣間見えることは否めない。また、部屋で走る列車模型、援助交際、交換される携帯電話と庵野秀明『ラブ&ポップ』へのオマージュが散りばめられているが、それが時代設定を曖昧にしてしまっている点も気になる。過去か現在か、もう少し時制を意識して作劇するのがプロであろう。
しかしながら、そういった欠点をあげつらうのは、ジェームス・キャメロン『アバター』やアルフォンゾ・キュアロン『ゼロ・グラビティ』の脚本の粗を指摘することと同じ位、意味のない議論であることもまた確かなのだ。大袈裟に言ってしまえば、この映画の達成は、上記の映画のように革新的な「画面」を提示したことにある。少なくとも自分が記憶する限りは、デジタルビデオの映像の特性を生かしつつ、ここまで繊細な照明と色彩を画面に刻みつけた映画は存在しなかった。
光が必要なら、それを満たしてやればいい。そのような発想からか、逆光が大量に用いて、クロスフィルターのような光を強調するフィルターによって撮影されたそれは、デジタルとは思えない陰影と、デジタルならではの平面で幻想的な画面をもたらしている。(注)至るところに配置された光源や室内に焚かれたスモーク、そしてデジタルの画面によって描かれる輪郭が曖昧な人物達のやり取りは、それこそ「記憶」として一夏の出来事を切り取っている。しかも、原色や暖色系の照明から、ラストのJホラーを彷彿とするモノトーンの照明などをシークエンスごとに使い分けるだけでなく、状況によって変化する心情の変化までライティングによって事細かに表現されておりその繊細さに息を呑むばかりだ。(その繊細さは例えば、最初のクライマックスである交差点で心情を吐露する真太郎とそれを黙って聞く耕介の顔にかかる照明の対比が、いざ耕介が恋愛沙汰に対峙する際には反転しているという機微などに表れている。)
特に野外の撮影シーンは驚愕の一言であり、花火大会のシークエンスなどは岩井俊二『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』の叙情性を、それこそはるかに上回る更新をしてしまったのではないか、と思わせるだけのシークエンスに仕上がっている。そういえば、塾講師を好演していた寺内康太郎の『マリア様が見てる』の一場面一場面を思い起こしながら観ていたのだが、岩井俊二から新海誠に引き継がれた叙情性を実写作品にどう落とし込んでいくのか、という模索の結晶であった『マリア様が見てる』と今作は重なる部分が多いように思える。そう、アニメーション的表現の実写化、という点において、この映画のそれは一つの到達点ではないだろうか。この映画の色彩表現は、それこそ最先端の劇場アニメーションである山田尚子『たまこラブストーリー』のそれに全くひけを取らないのだから。
製作陣のほとんどが低予算のホラー映画の関係者であるこの映画は、現在の日本映画におけるJホラーの重要性と活気を再確認させるものであった。(注2)歴史に残すべき代物だと思うし、ふたたび劇場にかかる機会が絶対あると思われるので、見逃し方はお忘れなく。自分の中では、今年の邦画では断トツのベスト1です。実をいうと評判を聞きながら福田陽平監督の作品は見逃していたのでウェス・クレイブンの追悼が終わったら、必ず旧作を観ます。
(注)あまりに画面が凄かったので、テアトル新宿で監督に直接聞きました。スモークと逆光に、カメラをいじって光の感度を上げているのだろうとは思ったのだけど、不勉強なので細かいところまでは分からなかった。
(注2)ほとんどJホラー勢の回し者みたいな内容のブログになっておりますが、お金は払っているけどもらってないよ。(/・ω・)/