新世界より - 佐藤信介『デスノート Light up the NEW world』と最近のネットでの酷評に思うこと。 |
メディアの隠喩としてのデスノート
そもそも、原作のデスノート自体、メディアの発達とそれに伴う生の希薄化を背景にした論理ゲームでした。それを踏まえつつ、「ニューメディア」それ自体の問題へと肉薄しようとした痕跡が、 『デスノート Light up the NEW world』に見て取れるといったら言い過ぎでしょうか。
今回のデスノートの所有者がハッカーであるという設定はそういったニューメディアとデスノートの連関性をより印象づけています。デジタルデータに成り下がったキラの言葉に沿って、メディアから抜き取った個人情報によって殺害を企てられていく紫苑をはじめ、ノートの所有者は、ネット上のサイトを見てノートに書き込んでいく。また、ニューメディア抜きでは仕事にならないトレーダーなどが所有者であることもこの性質を助長させていますが、今作におけるデスノートが表象しているのは、黒沢清『回路』のような、非人道的な、人間性を喪わせるシステムとしてのネット、そしてそれを用いる全能感だと思うのです。
特に、冒頭に登場する医師の下りは端的にその主題を表しています。最初、患者の願いをただ叶えたはずの彼が、デスノートを手にいれたことで、インターネット上の写真を見ただけで、無思慮に手を下すようになる。画面の向こう側や殺人といったことへの想像力が、デスノートを手にしたことで奪われている訳です。その差異が端的に二シークエンスだけで説明される。犯罪の抑止が格差の固定に繋がることを、キラの信奉者に言及させる点といい、人物の造形は、それなりの思索の痕が見えるように思えるのです。
思えば、デスノートのルール自体、インターネット上の振る舞いに通じるものでしたが、そういった側面を 『デスノート Light up the NEW world』は再確認させてくれます。極端な話をすれば、私たちもネット上に名前と顔写真を書き込むことで、ある人物の人生を破滅に追いやることができる。欲望を増幅させ、想像力を奪うような機能が備わっている点において、デスノートとニューメディアは相似性を持っているといえるでしょう。その中での秩序とは何か、倫理とは何かを説いていくのがこの映画の主眼であり、それは原作が頭脳戦に熱を上げていく中で捨象してしまった主題であるのではないか。その性質は、主要人物三人の描き方にも反映されているように自分には見えます。
二つのハリウッド映画からの踏襲
『デスノート Light up the NEW world』は大ざっぱにいえば、三人の男によるドラマによって構成されています。キラの後継者を名乗るハッカー、紫苑と、Lの後継者である探偵の竜崎、それと共に警察でデスノートを追う三島との攻防を描いくのが物語の骨格です。この頭脳戦がリアリティ・ラインが低く杜撰であるというのが非難される主な原因であり、そこに異論を挟むことは難しいのも確かです。が、この話、後半のどんでん返しによって、そういった頭脳戦が主眼ではないことが明らかにされます。
ノートを6冊集めた紫苑が「キラ」と名乗る人物に指定された場所に行くと、竜崎と三島が現れます。そこで、ノートの所有権を放棄したことで記憶をなくした三島がキラの後継者であり、彼が仕組んでハッカーに行動させていた、ということが明らかになります。この顛末に唐突さがあることは否めませんが、注意したいのはその刹那に挿入されるカットです。記憶を明らかになる際、竜崎と紫煙がいなくなり、三島が一人で立っているところがカメラで切り取られているのです。まるで、紫煙と竜崎が、三島が持つ無意識の欲望を表した、別人格か幻影であったかのように。
この映画において、三者は各が分身の関係にあり、それ故に三島という人物が、善(竜崎=L)と悪(紫苑=キラ)との間で逡巡する様が物語の軸になっているのです。だからこそ、三者の心理戦などという展開にはなり得ない。ノートを使った騙し合いの代わりに、ノートを使うと正義や人間性がどうなるのか、といった内省的な会話が、主に竜崎と三島の間で繰り返されることになります。
この三者の関係性は、二つのハリウッド映画を踏襲しているのではないかというのが自分の解釈です。一つは、クリストファー・ノーランの代表作であるアメコミ映画、『ダーク・ナイト』でしょう。バットマン(善)とジョーカー(悪)の間で揺れ動き、堕落するハービー・デントという構図は、そのまま今作の三者に当てはめると物語の構図がわかりやすく捉えられると思います。重要なのは、ここでのジョーカーの役割であるはずのテロリストのキラが、「秩序」を語るという点で倒錯が起こっていることです。ここでの混沌(欲望)と秩序の関係は、『ダーク・ナイト』以上にねじれている、という訳です。
そして、もう一つこそ重要なのですが、製作陣は、ディビット・フィンチャーの『ファイト・クラブ』を参照したのではないかと僕は見ています。竜崎と三島の関係性は極めて近似的であり、まるで竜崎が三島の別人格であるかのように見える。両者の関係性を読み解いてみようと思うのですが、そのキーとなるのが、死神「アーマ」の存在でしょう。
思い返して欲しいのですが、下水道を歩いていく場面の中で、三島は捜査官の一人に殺されそうになります。それをアーマが三島を助けることになるのですが、何故レムは、自分の命を賭してまで三島を助けたのでしょうか。たった二回会っただけの、本来助ける義理はないはずの三島を、です。
だが、三島を助けることは竜崎を助けることと同義だったとしたら?つまり、三島は竜崎だったのではないかと考えるとラストの展開までの辻褄が合うように思われます。そのようないくつかのほのめかしが、演出に隠されているように見えなくもない。
例えばラスト、竜崎として三島が病院から出ていくショットに、部屋に残り死を待つ竜崎の姿が映されません。その病室が精神病棟の一室に似ている点などを含めて、心理的な分身であるという印象がそこにもたらされています。また、竜崎がデスノートの所有者だと発覚する場面で、三島がデスノートに触る前からアーマが画面に映り、三島が触った後も、死神のアーマに対して驚きを覚えない点なども、冒頭で過度に死神が見える/見えないというのを描いたことを踏まえれば、どことなく不自然です。
このような点は、『ファイト・クラブ』と違い、あくまで確定できないレベルのほのめかしに抑えられていますが、それは、プロットレベルで正当化すればただでさえ綻びの多い脚本が瓦解しかねないという事情があったのだと思います。ですが、この分身の関係性から見えてくるのは、ここでの三者の対立が、デス・ノートというメディアと密接な関係があるシステムと、そこに伴う倫理観に対して、どういったスタンスをとるのか、という心理的な葛藤を表象しているということです。別々の個がぶつかっていくバトルロイヤルに発展しえないのも、制作者の意図がそこにないからなのではないか。さらに、そこに「国家権力」という問題が関わってくることになる。
キラ化する国家
三者がやりとりする中で、突然特殊部隊が突入する、という展開はプロットレベルでは唐突すぎるのは確かなのですが、しかし国家がデスノートを欲するという展開はどこか示唆的です。欲望を所在にした非人道的なシステムが個人から国家レベルに広がっていき、倫理観や秩序自体が変貌していることをそれが暗喩しているように思われるのです。特に、題名になっている「Light up the NEW world」という言葉が劇中の何を示したのかを、今一度考えるべきでしょう。当然それは、新世代のキラ、と呼ぶべきものを指すように見えますが、劇中、世界を強い光で照らすのは、特殊部隊の銃口が示唆する権威なのです。ニューメディアの発展以後、国家は、ライトのような欲望と自分勝手な正義を国家が持つに至ったのではないか、という寓意がそこに込められているのではないか。人間を否定するシステムが敷き詰められ、国家が秩序ではなく欲望を主幹にして駆動していく現代社会の状況が、この原作との差異に反映されているのです。
『ファイトクラブ』のような個人の反乱が、システムによる予定調和として回収されるシニカルな展開の中で、それら世界の総体に対峙するものとして、三島が立ち上がる。このラストに、僕はちょっとした興奮を覚えたことを、ここに付記しておきます。
終わりに 最近の映画評に思うこと
さて、ここまでの見立てや解釈が正しかったのか、僕も正直自信はありません。ただ、この一連の文章で伝えたかったことは一つで、要はここ最近のまとめサイトや超映画批評といった映画批評が、あまりに軽く映画を観てはしないかということです。
脚本の善し悪しをおいておくにしても、本作はルックの面に関して、他の日本映画が達成できなかったことを成し遂げていると思います。これは褒めすぎなことを承知で言いますが、美しい空撮や黒を基調とした照明、シンメトリーの構図への拘りなどによって、日本人がはじめて東京をネオノワールの舞台として撮れた、といっても過言ではない。それ位、厚みがある画面で展開されている話は、プロットレベルやリアリティラインのレベルでこそ綻びが多々あるものの、主題やメタファー、設定レベルでは見るべきところがある。(2)少なくとも、瀬々敬久『ストレイヤーズクロニクル』辺りの、志が全く感じられない駄目駄目な映画とは一線を画しているように自分には見えます。(3)
もちろん、前者の稚雑さ故に論難する人が多いことも理解できます。実際種明かしの前位まで、正直微妙に退屈だったのも確かです。ただ、そういったあら探しをするよりも、細かい部分の意味を考えていく方がおもしろいし、豊かな経験になるのではないか、とも思うのです。
観る、という行為は、それなりの労力がいります。例えば、どんなに素晴らしい絵画でも、意識せず通り過ぎた人にとってはレプリカと変わりません。だから、駄目だと決めつけて、あら探しをする人には、いい映画でさえ面白さは伝わらないように思われます。だからこそ、酷評ばかりする人間は、シネフィルだろうが映画評論家だろうが、映画を観る眼を腐らせる。「三回観なければ、その映画は分からない」と言った先生がいました。そこまで行かなくとも、私たちは自分の眼と頭を、一度疑ってみる必要があるのではないか。一場面一場面をどんな意味があるのかと真剣に見つめる必要があるのではないか。と、僕はそう思うのです。
『テラフォーマーズ』にせよ今作にせよ、今年の邦画は割と意欲的な作品が多く豊作の部類だと思います。それらの傷を見て、腐っていると捨てるのは、もったいないことなのではないでしょうか。
(1)どことなく安里麻里『バイロケーション』の病院に似ていることが、分身を用いた内省的な劇である印象を与えているように思われます。
(2)プロットとメタファーの例は『ひきこさんvs口裂け女』が分かりやすいと思います。描かれる主題と人物の切実さは割と普遍的なJホラーなのですが、設定や物語の流れが無茶苦茶なのであんまそれを感じないという。
(3)アクション監督だけ孤軍奮闘しているが、瀬々監督の演出は悲惨の一言。「ロマンスがありあまる」の引用の浅はかさとか殺意を覚えるレベル。