同じ死地を見ている - ジェニファー・ケント『ナイチンゲール』 |
2018年製作/136分/R15+/オーストラリア・カナダ・アメリカ合作 原題:The Nightingale 基礎データは映画.comを参照
同時に、『ナイチンゲール』は欧州の作家主義の香りを醸し出してもいる。世界の混沌を自然に象徴させて、追うもの追われるもの問わず迷宮として立ち上がっていく様はトリアーを彷彿とさせるし、西洋人たちが偏狭な価値観から孤立していく展開には、どことなくヴェルナー・ヘルツォーク作品の痛々しさを思い起こさせる。殊、目的地へと進む敵役、ホーキンスの暴虐な振る舞いは、矮小化されたクラウス・キンスキーといった趣があり、無法の自然の前に人間性を喪っていく様は、西欧の反知性主義的なまなざしの痕跡を見て取れる。
このように、オーストラリアというエスシニティを背景に、異なる源流を掛け合わせ衝突させていくのが『ナイチンゲール』のスタイルだといえよう。だが、この映画が奇妙で狂気じみているのは、先に挙げた映画のどれとも似つかない静謐さを持っていることだ。このことを考えるために、アンチ・スペクタクルと呼ぶべき要素について考えたい。
中盤、左遷された地に赴く大尉たちが原住民の女性をさらっていったがために、その夫と思われる男たちに襲撃されるシーンを思い出してほしい。
ジョン・フォード『駅馬車』(1939)を引用したであろう槍が襲いかかるショットの後、ある種の対峙が起こることが期待される。だが両者は戦いを交わすことはない。妻を撃たれた男は、復讐のために駆けることをせず、ただただ、死にゆく妻を見つめ嘆くばかりなのだ。男とその敵は相対することもなければ、銃を向けて切り返すことさえもしない。
西部劇であれば本来、銃を撃つ/撃たれる者の間にはショット/リバースショットで関係が結ばれたはずだが、『ナイチンゲール』ではそういった演出がなされない。銃を撃つことは突発的に起こってしまう。ホーキンスが先住民の女性を殺す際にも両者の間に切り返しは結ばれないし、ホーキンスに痛烈な皮肉を浴びせる原住民の案内人は、突然別の男に殺されてしまう。それは、相手をまともに見ない一方的な殺戮として巧妙に演出されているがために、本来あるべき活劇が成立しないのだ。
彼女は復讐のために男たちを追っていく中で、世界の現実を知っていく。別の虐げられた人が存在すること、自らが差別される存在であり、差別してしまう存在であること・・・。若い男に復讐を遂げた後、彼女は自らを汚した罪を夢で反芻していく。世界の残酷な世界を認識する過程の中で、彼女が自らの矮小な世界観から開放されていくことがショットの変質によって表現される。一度復讐を諦めた彼女が、ロングショットによって風景とともに映し出されることで、彼女が世界を認識したことが象徴される。だからこそ彼女は、自らの在り方を取り戻し、真の復讐を遂げることができる。その酒場は、空間が分かるよう、ワンショットで表現されていることを思い出したい。そこでは、まさしく西部劇のような切り返しによる対峙がなされ、彼女の心情が「歌」として男にぶつけられる。この「歌」が三度の反復によって強調するという古典的なハリウッドの流儀にならうことで、まさしく映画による映画に対する反逆が執り行われるのだ。
ハリウッドが夢見た正義と悪は、はなから存在しなかった。ただただ現実には最も凄惨な人間の暗部が横たわっており、そこから抜け出すことができない私たちがいる。原住民の首を切っていたジョン・ウェインは、別の立場から見れば非人間的な傲慢そのものであった。ジャンゴのような逆襲は起こることなく、黒人奴隷はオモチャのように扱われ殺されてきた。少なくとも当時の女性は、男性社会から逃れようとも逃れられなかったのだ…。
自らの復讐をとげた彼女を『捜索者』のジョン・ウェインに重ねつつも、かの英雄のようにその場から立ち去ることができないことを、彼女に座り込ませることで表現する『ナイチンゲール』が、現在と地続きの悪夢として西部劇の世界を表象していることは明らかだろう。活劇性をはぎ取った古典の手法によって、幻想を取り除いた現実世界の凄惨さを描き出そうとするその手つきは、同時に私たちと他者との関係をも演出していく。位置関係や反復によって、黒人である案内人と女性とのディスコミュニケーションが瓦解していく様が捉えられていくのだ。まるで、他者への差別意識と無理解をときほぐしていくことが願うように。
そういった願いが込められたラストシーンに、世界に必要な何かを見た気がした。象徴的なのが、彼女と先住民が文化の隔たりを保ちつつ、視点を共有している点だろう。中盤、ホーキンスに殺された先住民の女性が天を見つめるショットが挿入されるが、これはいわゆる二重の視点ショットになっている。別の場所で、同じように虐げられた主人公も同じ空を見つめているのだ。私たちは別々の文化と背景を持っているが、同じ現実を見つめている。或いは同じ現実を見つめているはずなのに、別の物語を思い描いている。そういった世界の現実をやはり古典の流儀によって劇的に映し出したラストの風景の美しさと多様性を、今こそ私たちは見つめるべきなのではないか。
自らとは異なる政治的立場をただ見下し否定する輩が今でも跋扈しているこの国で、未だに女性が報酬を楯に虐げられるこの国で、私たちはこの世界的な新人を今こそ発見しなくてはいけない。そういわせるだけの力が『ナイチンゲール』にはあるように思えた。傑作でしょう。