母性という呪い ー 西村沙知「椎名林檎における母性の問題」の瑕疵について |
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2021年 01月 21日
恥ずかしいのであまり公言はしていなかったことではあるのですが、unuboredaは毎年コンスタントに評論賞に投稿し一次も通らないで討ち死にするということを繰り返す、所謂ワナビだったりします。文章が下手!文体が駄目!なのとどうしても先行論に引っ張られる傾向があり、まぁ中々難しいよなぁ、と思いつつあわい期待を抱きながら長い文章を書いては討ち死にしているわけです。 去年もすばるクリティークに『呪怨 呪いの家』と京都アニメーションの事件について論じたもので投稿したのですが結果はご覧の通り。(ただまぁ、杉田俊介氏に読んでほしいと思って投稿して、反応があっただけ良かったとも思いましたが。今の『群像』に投稿する気は全く起こらないしね) だから、今回の文章は負け惜しみであることを了解した上で読んでくださるとありがたいです。 母性という呪い ー 西村沙知「椎名林檎における母性の問題」の瑕疵について 敗北を確認しに『すばる』を買い、すばるクリティークの受賞作と選評を読んだ。 受賞作である西村沙知氏の椎名林檎論は素晴らしく、受賞は納得の出来だった。批評するのが難しい音楽を、歌詞と音、先行論といった多角的な方向から語っていく前半部は、詩的な逸脱を含む文体の艶やかさも相まって美しく、椎名林檎の個々の作品を語る手つきは具体性を持ちつつ独特の軽やかさがある。加えて、冒頭の作品の入りも様々な問題意識を盛り込まれており、自分の文体の脆弱さを省みるには充分な文章であった。 ただ一点、審査評を読みながら「それは違うのではないか」と思った箇所がある。それがタイトルにも挙げた「母性」の問題の取り扱い方と、8章の評価だ。 母性の問題 最終候補作の五人中三人が「母性」を問題にしていたことに対して浜田氏が「時代もあって面白い」といい、杉田氏がPCと対比的にとらえていた。けれど、そもそもの話「母性」の問題自体が「サブカル批評」の構図に依拠したものである以上、今批評を書こうとする若手にとって、社会情勢関係なしに宇野常寛『母性のディストピア』の影響が殊更に強かったことの現れでしかない。事実、ネットワーク社会を「母性」としてなぞる西村氏の論もまた、『母性のディストピア』を踏まえた上での現代に対する読解としての側面が存在している。 だが、『母性のディストピア』を読んでいた時から常々疑問に思っていたことだが、「母性」という立て方自体に具体性があるようには到底思えないのだ。現在のネットワークに母としての包括的要素がどこにあるのか、或いは「母」という役割が現在の家庭においてどれだけ機能しているのか、と考えてみれば、多くの疑問が残るはずだ。せいぜい、他者依存的な日本のムラ社会の言い換え程度の意味しか見いだせないだろう。「父」と「母」という二項対立自体が批評が持ち出した象徴的な虚構なのだ。では何故批評は「父」ではなく「母」が持ち出されるのか。或いは何故日本的なムラ社会、と考えずに母性原理社会と銘打つのか。 私の見立てはこうである。批評というジャンルは日本の社会を「母性」と総括することで「具体的な攻撃対象、支配対象が存在しない社会」として読み替え、それによって具体的な政治性を忌避してきたのである。 母性という呪い ー 批評と政治について 宇野常寛が、初期の論考において、東浩紀のネットワーク論の影響下にあったことを否定する人はいないだろう。同時に『ゼロ年代の想像力』が前提としていたのは、宮台真司が展開した「終わりなき日常」という議論であった。それらは消費社会という生活基盤が崩れないことを暗黙の了解とした議論であり、社会システムを前提として肯定していたのである。 故に、彼らに共通する態度は、資本主義と社会システムに対して非を唱える政治的な社会活動に対する冷笑であった。「左翼」といったレッテル貼りを繰り返していくことで、批評は政治に対して、自らを相対的に高尚な活動だとする植え付けを行ってきたし、フェミニズムと相容れないホモソーシャル性もそこに起因していたといえる。 批評がある時期から持ち始めた、政治に対する蔑みと忌避が「母性」という社会の捉え方と実に相性がよかったことはいうまでもない。なぜなら、父権を認めるということは、具体的な権力や支配者層を想像することに他ならないからだ。metoo運動のスタートがワインスタインという権力への異議と失墜を求めたものだったことを思い出したい。確かに、政治活動が持ち出す正義には、他の在り方を認め自己の思想の不全について自省する可塑性がない。ある種の権力闘争である以上、別の父権や抑圧へと反転する可能性も否定できない。その逡巡として批評が存在するというのも理解できる。だが、一方で批評が具体的な問題を無化していくことで、現実の権力構造をより強化するという危険も無視すべきではないのではないか。ムラ社会が母性と置き換えられることで、父権の煮凝りのような村長の存在が無視されるように。 西村氏の論考は、逡巡の中で計らずともPCとフェミニズムにたいして「母性」を持ち出しており、審査員はそれを賞賛している。だが、本当にそれでいいのだろうか。むしろ政治性を距離を取る姿勢は、批評というジャンルが持つ病理そのものではないのだろうか。 事実、椎名林檎の政治的な危うさをなぞるように、8章における西村氏による社会についての論じる手つきの節々にも、この問題が表れてしまっている。「政権も都政も、良しにつけ悪しきにつけ、市民の生活に介入する術をもたない。」「我々はもはや家族問題には苦しまない」・・・。8章だけ「本当に?」と疑問付がつく言葉が目に飛び込んできては読解を阻害していく。共産主義的な懲罰主義を提案し続ける政治家や、貧困にあえぐ子ども達といった具体が不可視のものとして隠蔽されていくことで、批評は現実との接地を喪ってしまっているのだ。 ・・・殊に、椎名林檎という対象を論じるために、具体的な政治性の喪失は致命的であるようにも思える。ナショナリズムの問題があるからだ。彼女のオリンピック参加を「母性原理」と結論づけることは真摯な思考の結実のように見えてその実、音楽の政治利用について考えることの放棄にすぎないのかもしれない。結論の弱さも、論点のすり替えに依るものである気がしてならない。 批評にとって「母性」とは、父権を語ることを回避するための魔法の言葉であり、呪いである。私たちは批評を再生するためには、このような言葉遊びに脱して、具体的な社会問題との接地を模索しなければならないのではないか。少なくとも、『遅いインターネット』で現実社会における政治活動を模索していった宇野常寛は、先の論と審査員の評価を読んで、ほくそ笑んでいるのではないだろうか。
by unuboreda
| 2021-01-21 22:21
| 評論
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