ドラマシリーズ「放送禁止」に思うこと |
ある事情によりお蔵入りになってしまった衝撃の映像、という設定でドキュメンタリー風に撮ったフィクション、所謂フェイクドキュメンタリー。1年に1回、ゲリラ的に深夜で放送という、異様なスケジュールで電波に流され、そんなケースで今まで6作も撮られている不思議なシリーズ。興味ある方はレンタルか、「放送禁止」でググればyoutubeで挙がってるものが見つかると思うのでそれを見てみては如何でせう。(ちなみに2・3回、次点で5回がお薦め)
・・・フェイクドキュメンタリーという時点でいかがわしさ満点なのだが、テーマ設定の秀逸さでちょっと今までのフェイクドキュメンタリーでは到達できなかったような地点に、このシリーズはあるような気がする。このフェイクドキュメンタリー自体が、ドキュメンタリーというジャンルの批評になり得ている、といってしまっては言いすぎなのだろうか。
第1回に関しては、観るものがないとはいわないまでも今までのフェイクドキュメンタリーの域を出ていない。幽霊・UFOを題材としたそれは、どう取り繕ったって愛すべきチープさといかがわしさに満ちてしまっていて、大半の人は鼻で笑うような代物だ。しかし一年後、このドラマシリーズはその姿を変貌させる。第2回から、現実でテレビやドキュメンタリーが取り上げるであろう事象を題材にすることによって。
第2回「ある呪われた大家族」はよくテレビでやっている「大家族」を取り上げた番組のブラックなパロディだ。最初テレビである感動ものと同じように始まりながら、次第にそこへ暴力や憎しみといった負の感情が紛れ込んでいき、最後は笑うに笑えない「驚愕のラスト」が眼前に現れる。
結末が読みやすい、ということで評価を下げている人がネットで散見されるが、これが最高傑作だと僕は思う。どの話も結末は読めるかどうかなんて50歩100歩、読める人には読めるレベルの結末しか用意されていないし、他の作品は結末のためにデータを弄んでいる印象が少しある。なによりこの回が一番、ストレートにテレビへの批判が出来ているように僕には感じる。
ここには「大家族」ものが捨象してきた「現実」がちゃんと刻印されている。頑固おやじにつきものの暴力性やそれに抑圧される妻と子供の姿や父権的な密室の中に渦巻いている負の感情、そしてそれらを欲している視聴者自身の姿などが、実際の人物の発言などを絡めて饒舌に語られる。「この話がフィクションである」という厳然たる事実に今までのフェイクドキュメンタリーは打ちのめされてきた訳だが、このシリーズはそういった「現実」を物語へ反映させたことによって、むしろその現実を元ネタの方へ跳ね返す。「大家族」の作りもののネガを製作することによって、まるで今までばら撒かれた「大家族」の写真が偽物であるかのように錯覚させるのだ。素晴らしいとしか言いようがない。
また、これはすべてのシリーズに共通していることだが、ナレーションの使い方が秀逸。このシリーズは表の物語と裏の真相、という二つのストーリーが並列しているのが常なのだが、間違った表の物語はすべてナレーションによって生成されるのだ。写真だったり画面に映っているものだったり登場人物の台詞だったりを勝手に解釈し、都合よく繋げてしまうナレーション・・・。それは現実のワイドショーで使われているナレーションの誇張された姿であることは明白で、そこに潜む恣意性を暴き出しているといっていいはずだ。
そしてそんな浅はかな語りをよそに画面に提示される諸々の記号から「真相」を組み立てるよう観る者に要求するこの番組は、意図してかどうかは分らないがメディア・リテラシーを鍛える教材にもなっている。(まぁ学校ではこんなもん絶対放送されないだろうけど)他にも写真の使い方(これに関しては特に第3回が素晴らしい)なんかにもいえるけど、このシリーズ全体が「現実」を振りかざしてきたテレビやドキュメンタリーへの批判になり得ていて、そういったテーマが「事実を積み重ねることが必ずしも真実に結びつくとは限らない。」というこのシリーズのキャッチフレーズに結びついているように自分には感じた。
後、この作品はテレビ番組の癖に第1回から「1カットで撮ること」の力をちゃんと信じている点がいい。これが無意味に矢継ぎ早にカットを割ってしまうようなドラマにはない、映像作品としての最低限の質を保障しているし、もしかしたら9月上旬に池袋シネマ・ロサにて上映される劇場版は傑作になるのではないか、という期待を持たせてくれる。
というわけでスクリーンでかかります。鶴田法男・高橋洋コンビの『おろち』と並んで注目のホラー映画です。