「映画面白いのにねえ~ニュース「洋画離れ止まらず。興行収入4割減少」を読んで~ 」を読んで |
http://d.hatena.ne.jp/samurai_kung_fu/20080825
半分は同意できるけど、半分は同意しかねる
特に「知ったかぶる。」以下の部分はホントにそのとおりだと思う。
「最近のアニメは~」とか「最近のハリウッド映画は~」とか「最近の文学は~」とか「最近の漫画は~」とか「文学は~」とか「アニメは~」とか「ホラー映画は~」とか「プロレスは~」とかとか・・・。まぁなんでもいいけど、そういうことを言い始める奴に限ってまともにそれらを観てないし、観ようともしてない。
そういうこと口にする人間は「You Can't See Me」とでも言って黙らせよう、という意図は当然だと思います。(注1)興味がないことにどうこう言うつもりはないけどお前が知らんものを晒し上げるなよな、ってのは常々思っていた。知らないことへのある程度の畏敬と謙虚さは、誰にだって必要だと思うし、今の日本に足りないものの一つだと思う。
ただ、全面的に賛成できないのは、「映画は映画館で見るもの」という映画好き特有の先入観がどうしても目についてしまうからだったりする。
確かに、映画をある程度観てきた中で、映画は映画館で観たほうがいい、という意見は一理ある。どうしたって画面が大きいほうが細部に目を届くし、モニターとスクリーンでは画面への没入度が違う。テレビ放映では一々CMで中断されるし、あわや編集で大事なシーンがカットされていたりする。(木曜洋画劇場で『デッドコースター』を観たとき、ゴアシーンがことごとくカットされていたのに切れて、ビデオを借り直した記憶は新しい。)
しかし、じゃあだからといって映画館で観る映画以外を否定するのは、「映画という文化の多様性」を否定することにならないのか。例えばテレビで食卓を囲んで『マトリックス』や『リべリオン』、『トレマーズ』だったりを家族で観て、「ああ、映画って面白いね」って素直に思っている人たちは、映画を観たことにならないのか。DVDで『サイレン』なんかを観て「うわ、この映画の演出色々ありえねぇ。こんなの作った奴が『20世紀少年』を任されるなんてありえねぇ、死ねよ日本映画業界」なんて思うことが映画を観ることにならないのか。・・・・ならないな後者は。
まぁそんな冗談は置いておくとしても、淀川長治氏の「正直申してジョン・フォードの『駅馬車』をテレビで見るのはしんどい、つらい。だが、見ないよりはいい。」ではないけれども、映画館以外で映画を観る、ということも次元は違うかもしれないが映画を体験することになるのではないか。少なくとも、僕のその体験を否定する気にはなれないし、素朴で浅はかなのかもしれないそんな映画体験を、完全に否定してしまう人に対してどこか鼻につくような、そんな印象を持ってしまう。
そういった感情は、多分自分の映画体験から起因しているのだろう。
僕が映画の初体験、ある程度意識して映画を追い求めるようになったきかっけを作ったのは深夜のテレビだった。偶然深夜にやっていた『シザーハンズ』や『キャリー』といった映画群を観て、それに心を奪われてしまったが故にここに映画の話ばかり書くようになってしまったのだ。
特に『キャリー』は観た時のことは忘れられない。プロムでの惨劇のシーンを観ているうちに、息苦しさや空しさ、哀しさなんかが入り混じった感情が自分の中に起こって、それらのせいでそのうち心臓がバクバクと高鳴ってきて、爆発しそうになって、それで苦しくなって(割と心臓が弱い方)チャンネルを変えて、それでも目を離したくなくないから少し落ち着いたらチャンネルを戻して、それでまた心臓が痛み出して・・・。
映画で泣きだすことは結構あるのだけれど、映画に殺されそうになったのは、これが多分最初で最後だと思う。18歳位という当時の年齢だったり深夜という時間だったりが色々重なり合った、自分にとってそれはとても奇蹟的な体験だった。
それから、ケーブルテレビで流れている映画を積極的に見るようになって、黒沢清の『CURE』や川尻善昭『バンパイアハンターD』なんかを発見したりして、近所のレンタルビデオ屋に足を運び始めて、大学で映画の授業を受けたりして・・・・・。自分の映画体験の中で本格的に映画館が出てくるのはそのあたりからで、その前までは近所のビデオ屋と家のテレビの前に僕にとっての「映画」は存在していた。確かにそこにあった、はずなんだ。
やっぱり映画館での映画は格別なのかもしれないけど、名画座には名画座の、テレビにはテレビの、DVDにはDVDのそれぞれ固有の映画体験があるんじゃないのかな?そこを否定してしまっては、文化としての映画のある部分は衰えてしまうのでないかと、自分では思ってる。第一、今のシネコン全盛の映画館の「イベント性」って果たしてどれだけあるのか、結構疑問。『マチネー』や『スクリーム2』なんかに出てくる映画館、今の日本にあるのかしら・・・。自分にとってあのへんはスクリーンにしかない夢物語になってしまっている。
経験を語ることほど下らないものはないと思うけど、やっぱ自分の体験は大事にしたいし、否定されたくないのです。(注2)
(注1)ジョン・シナというプロレスラーのパフォーマンス。最近阪神のピッチャー、ボーグルソンが5回当たりを三者凡退にしたときこれをやってて「ボーグルソンWWEファンなのかぁ」と親近感を持った。そして次の回あたりに打たれていつも通りおいおい、ってなった。
(注2)経験論の典型な例の話。最近読んだ内山一樹編『怪奇と幻想への回路――怪談からJホラーへ』(森話社)の最後に載っている文章とか自分の体験自慢したいだけで映画を論じる気がないなら今すぐここから消えてくれないか、って感じだった。ヤクザ映画とJホラーを接続したいなら黒沢清や三池崇史の映画をもっとちゃんと観て、好きなだけ論じればいいのに・・・。なんか最後の方では黒沢清は大学で授業をやってるから駄目だ、とか言い始めるし。お前それ黒沢清の映画の内容と何の関係があるのかと。色々糞すぎて最後だけ破り捨ててトイレの水に流そうかとさえ思ったよ。少なくともあれだったらネットの文章のがちゃんと映画自体を見つめているし数億倍マシだよ。まだ全部読んでないけど、他の人の論はちゃんとプロの仕事だなぁ、追いつきたいなぁ、って思えるものだったのに、なんであんな文章載せるかな・・・。