呪怨パンデミック |
呪怨パンデミック
清水崇の実質上のデビュー作である3分の短編「4444444」から、彼がこのような支離滅裂な作品を作る危惧は確実にあった。というのも、彼はデビュー作からダリオ・アルジェントの演出手法の影響が色濃く出ていたから。多分、黒沢清がトビー・フーパーに感銘し影響を受けているのと同じ位、清水崇は『サスぺリア』や『赤い深淵』などに感銘を受けているのではないかと思う。(サム・ライミが彼の作品を「ヒッチコック的だ」と言ったことも、そういう意味で半分は当たっている。アルジェントはデビュー当時「イタリアのヒッチコック」とさえ呼ばれるほどの新進気鋭のスリラーを撮る監督だったのだから。勿論それはセット撮影であることを生かしていて、写真などの小道具を巧く使っている点からというのもあるのだろうけど)
『サスぺリア』と「4444444」とを続けて観て比べて観てほしいのだが、「444444」はほとんど『サスぺリア』の演出のパクリで出来ているといえるほど、影響が濃い。特に、加害者である幽霊の一人称の視点ショットが雰囲気を醸成しつつ観客に対するフェイントにもなっている点などは『サスぺリア』での盲人が襲われる場面と瓜二つであり、あれを分析してよくものにしているなぁ、変な奴がいるものだ、と感心したことを覚えている。
そして、二人の作品と経歴はとてもよく似ている。「小中理論」というJホラー演出の方程式を参照しつつ、それをあえて崩した『呪怨』で大ヒットを起こした清水の華麗なデビューは、ヒッチコックの手法を継承しつつ、それを崩して『歓びの毒牙』でジャーロというスリラーのジャンルを確立したアルジェントのそれと重なるし、「母」(「女性」でもいいかもしれない)への畏れと恐怖というテーマが二人の作品では同じように頻出する。『血を吸うカメラ』というカルト映画を下敷きにした作品(『歓びの毒牙』と『稀人』)を撮っている点なんかも共通項といえるかもしれない。そしてなにより、セオリーを崩すことから作家遍歴をスタートさせた二人はともに、作品全体の統合性より個々の描写の破壊力を取る傾向がある。
柳下 毅一郎「シネマ・ハント」で確かそのへんは論じられていたと記憶しているが、彼らが不幸だったのは「セオリーを崩すことによって新たな方向性を打ち出す」といった作家性が、ヌーヴェルバーグのように作家性と認識されず「支離滅裂である」というただのジャンル映画の属性として受け手に処理されてきた節があることなのだ。そして、彼らの整合性をなんとか保ちつつも個々の描写に破壊力を持たせる、際どい綱渡りは長くは続かず、そのうち支離滅裂な作品を作るようになっていく。この作品を観て「ついに清水もか・・・」と泣きそうになったのは、記憶に新しい。(アルジェントの中でもっともその支離滅裂さが出ているのが『サスぺリア』の続編『インフェルノ』で、題名はそこから取っている。)
日米それぞれに起きるエピソードに全く統合性がなく、個々の描写だけが何の関わりもなく羅列されていて、それの意味が分からない。もっともそれが顕著なのがアメリカの子供の扱いで、明らかに俊雄と呼応するようなキャラクターなのに、俊雄と何の接点も持たされることなく放置されてしまう。「脆弱な母」といったテーマを感じさせる要素はあるのに、それが何にも物語に関与しないとこなど、悪い意味でアルジェント的だ。(アルジェントをよく知らない人はスピルバーグの『マイノリティリポート』の目玉を思い出してもらえれば)
アルジェントが『インフェルノ』以後ほとんど「怪作」としてしか評価できない作品ばかり撮っているように、彼のこれからの作品もそうなるのかと思うと、哀しい気持ちでいっぱいになる。
しかしそのことよりもっと哀しいのが、黒沢清が評論家や映画研究者の言説によってある程度保護されていたのに対して、清水が綱渡りをしてきた作品(『富江re-birth』や『稀人』、『輪廻』や『THE JUON』など)がほとんど言説(製作側以外だと柳下氏や鷲巣義明氏など、秘宝系の一部の評論家位だと思う。まともに言及している人って)によって擁護されなかった点だ。
例えば『THE JUON』で外国人が登場したことによって伽耶子の白塗りが、ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』での人種の差異を失わせるゾンビの青塗りを念頭に置いたものになっており、それがアジア人と西洋人の差異を失わせたい伽耶子の怨念を表していると共にむしろその差異を強調する役目を帯びていることや、人種問題が絡んだことにより小栗康平『伽耶子のために』への影響が色濃くなっていること(だからこそ写真という小道具が重要になってくること)などは何も論じられず、吟味もされていないのに『THE JUON』がハリウッドで一位になったことはまるで事故のように扱われているのは、ファンとしては全然納得がいかない。
この作品についても同じような思いがあって、『叫』を擁護する人間があれだけいるのになんでこの作品を擁護する人が誰もいなかったんだ、という気持ちは今でもある。
この映画を観た後、エレベーターに乗ったときこんなことがあった。
女子高生のグループが「怖かったねぇ」ととても嬉しそうに話していた時、それを聞いていた中年の男性が
「ほら、そこに伽耶子が」
とかなんとかエレベーターのドアの方を指さして言った。女子高生達はそれを聞いて驚いて、その後エレベーターの中にいた人達が全員笑った。
その時、映画を観客全員で共有することができたような気がして、映画の評価とは別にとても幸福な気持ちで帰路につくことができたのだ。
多分『叫』を観た観客の中ではこんなことは起きないんじゃないだろうか。だからといって『叫』よりこの映画がいいという訳ではないけれども、こういった反応を引き出す映画も世の中には必要なのではないだろうか。支離滅裂さを指摘している自分が言うのもなんだけれども、この映画が言われているほどは酷いもんではないと思います。