CGには映像の「生」の豊かさがない。CGを多用する映画には生身の人間が存在しない。カメラが無選別に切り取る「自然の細部」にこそ、映画の魅力がある。
・・・この映画について、というか映画そのものについてそう口にする人が多いし、実際確かにそういった言葉に一理あるんだろうなぁ、と思いつつも、一方でそのような「自然の細部」に疑問符を感じる自分がいたりもする。
多くの映画ファンが大事にしているはずのその細部は、映画の大切な要素であるといわれる一方で、それは古典的物語映画(ハリウッド映画)が真っ先に捨て去った部分だったという事実がある。そしてそういった「自然の細部」が省みられたのは、映画がスタジオという箱庭から追放されたからだ。完全なる「世界」を構築できなくなった変わりに、不完全な多様性を肯定せざるをえなかった。それが「自然の細部」を愛するという言葉が生まれた理由だったのではないか。
CGが氾濫する中で、映画の危機を叫ぶ人は多い。「こんなの映画じゃない」という台詞を色んな映画の話で何度も耳にした気がする。しかしよくよく考えたら映画って、元々完全にある主旨の元、統制された世界を描くことを志向していたんじゃなかったっけ?少なくともCGを多用する映画とスタジオで撮る映画に似ている部分があることが、忘れられているとはいえると思う。
・・・ずいぶん遠回りをしてしまった。つまり僕が何が言いたいのかというと、この映画がロケーション撮影を全く取り入れなかったことは選択として正しくもないかもしれないが、一方で間違ってもいないと思うんだ。世の中には外に出てしまったが故に、世界観がぶっ壊れて陳腐になってしまった映画ってのが少なからず存在する。僕はその例をつい最近『サスペリア・テルザ 最後の魔女』で観てしまったからこそ思うのだけど、草原までCGで書いてしまう必要性は、この映画ではあったと思う。下手に外の空気を入れてしまって陳腐化する位なら、すべて虚構で満たしてしまった方がいい。そういった判断を監督をしているかどうかは置いといて、それは悪くないチョイスだったんじゃないか。
身体についても、『シン・シティ』や『ALLWAYS 三丁目の夕日』といった映画などに比べたら身体の汚れや生臭さといったものを意識していたと思う。もっと言うなら俳優の生身の身体を意識しているからこそ、その多くをクローズアップで撮ってしまっているような気さえした。『スパイダーマン2』のラスト、ドクターオクトパスの死に際を、CGを背景にしているからこそアルフレッド・モリーナの身体が強調されていると絶賛した映画研究者がいたが、そういったものをこの映画にも感じた僕は馬鹿なのだろうか?
演出についても、まぁやっぱり稚雑なところばっかだと思うし、「だからお前はアホなのだー」って言いたくなる気持ちも分からなくはないけど、一方で全く演出がないってのは言いすぎだ。少なくとも『CASSHERN』よりは進歩している。
More