ナレーションは映像を既定する |
ダイアリー・オブ・ザ・デッド
画面に広がっているはずの細部や寓意が、言葉≒物語によって意味づけられ矮小化されてしまう。「テロップ」と「ナレーション」は使うのに注意が必要な技法であり、作為性に過敏なドキュメンタリー作家であればあるほど、それらを使うのを嫌がり、画面をありのまま提示しようとする。
・・・終始「正しい映像の理解」として女性のナレーションが流れるのではなく「映像の間違った解釈」としてカメラを廻し続けた映画監督のナレーションによって映画がまとめられていたら、5点をつけていたと思う。この映画は、画面に宿らされたはずの寓意がすべて女性の語りによって語られてしまう。つまり語りによって画面の意味自体が矮小化されてしまっているのだ。(説教臭い、という感想が多いのもそのためなんだと思う。)そしてそれがこの映画が批判するはずのメディアと同じ轍を踏んでしまっているように、自分には思えた。
「メディア批判」を主眼にするなら、やはりナレーションと画面の齟齬は必要不可欠な描写であるように感じる。(例えば、今年だとケン・ローチ『この自由な世界で』における工場長が働いている労働者を「こいつらは怠け者だ」と言葉で既定していくシーンのような)生と死や人種、階級など様々な境界線を打ち破ってきた作家が、「観るもの」と「観られるもの」の境界線の絶対性を描いてしまった素晴らしい作品であるだけ、余計に残念だった。(銃とカメラにこめられた寓意などが非常に巧かっただけに、本当に。)
★★★☆☆